生活人コラム
INO.VOL.12 医療と宗教・信条【井上 透】
[執筆者]
井上 透
[紹 介]
ブリヂストン健康管理センター勤務の産業医。大学講師。医学博士。
企業の健康管理センタ−に所属して、社員の肉体的および精神的な方面まで含めた総合的な健康管理の仕事をされています。
NO.1 クローン人間問題について--2003.1.6
本日はクローン人間問題について情報提供します。
以前に再生医療関連でも一部取り上げた「クローン人間」問題ですが、皆様ご存知のように、世界の有識者の大多数は反対意見を唱えています。キリスト教信者などによる神への冒涜だという人道倫理的訴えと、科学者にとっても体細胞クローンの安全性が確立できていないということなどから、政治家もクローン人間創造反対の旗を振って法規制に踏み込んだ国家が増えてきました。
ところが、一部クローン人間肯定派の科学者の所属する「クローン人間」作成計画の機関が世界では少なくとも4つ以上あり、可能なクリニックが30以上あるということです。その中でも「クローン人間誕生計画」を表向きに名乗りを挙げた2グループが注目されています。
ひとつはイタリア人アンテイノリ医師とザポス氏(ケンタッキー大学元教授:生殖生理学)からなる不妊治療チームです。そしてついに2003年1月に正式にクローン人間が誕生しました。
もちろんこれも私は是認できないと考えますが、彼らの目的は不妊治療や病気治療のためであり、夫に生殖能力がなく、その配偶者が夫以外の精子による人工受精を受けられないケースに限っており、「死んだ子供のクローンを作る」という意図はないようです。
もうひとつがとても問題なグループで、「クローンエイド社」の設立者ラエルとその信者であり総責任者であるボワセリエ博士(女性)です。
ラエルは約20年前に「ラエリアンムーブメント」という思想団体を設立しています。自分がイエスキリストの弟だと言い張る偽預言者です。全世界で5−6万人、日本でも6000人の会員が所属しています。
多くのマスコミがこの団体を批判する時は「カルトの新興宗教団体」の扱いですが、当のラエルは「自分達は宗教団体ではない。」と主張しています。その理由は、神や霊魂の存在を完全に否定しているからなのです。
彼の団体設立のきっかけは27才の時に遭遇したUFO・宇宙人との会見なのだそうです。彼の主張の要約をすると、
『進化論はまちがいで、今から2万5000年前に生命創造に適した地球を発見した異星人が彼らの持つ遺伝子工学を用いて誕生したのが我々地球人なのだそうです。
この異星人は自分たちのことを「エロヒム」と名乗り、各時代ごとに人類が適切な方向へ歩むように「モーセ」「イエスキリスト」 「ブッタ」「モハメッド」というメッセンジャーを派遣したそうです。聖書は最古の無神論の書物で、神とは地球外生物という意味なのだそうです。
近未来に「エロヒム」を迎える大使館を建設すれば、晴れて公式に地球来訪となり、優れた科学技術を地球人に授け、惑星間文明に突入することになるのだそうです。
また現在のクローン技術を人へ応用するのは、人間が不死になるための最初のステップで、将来は成長促進技術を用いて、いきなり17才の若者を誕生させることができるそうです。最終的には、そうして生まれたクローンの脳に、オリジナルな脳にあった記憶や性格をそっくり移しかえることが可能になるというのです。
この繰り返しで我々人類は永遠の命を手に入れることができるとしています。これにより宗教は科学にとりこまれ、科学こそが絶対的な真理となるというのです。』
2万5000年前の人類創造の説明はあまりにも最近の出来事です。不老不死の薬を求めた秦の始皇帝の現代版だとも言えるでしょう。 あまりにも荒唐無稽で実現不可能な妄想だとしか思えませんが、私はここに唯物論→唯脳論→唯遺伝子論へと変わる科学の中の倫理観欠如の危惧を感じます。
一部の科学者の中には、この思想に信奉するものが出てきており、その会員である科学者が信念を持って「クローン人間」作成研究に熱中している状況が恐いのです。世相を惑わさないかどうかのマスコミなどによる重点監視が必要な気もします。
善良な心ある市民であるのならば、このような集団がある事をしっかり認識し、定期的監視のもとで封じ込めるような心がけ・準備も必要かと感じます。
幸い、現在の体細胞クローン動物の場合は「死亡率が高い」という安全性の問題が砦となって実行抑止力となっていますが、研究が進み、安全面の問題がなくなった時が脅威でしょう。できるだけ数多くの科学者がこのような邪教にだまされないように、倫理を体現した科学者を数多く輩出したいものです。
NO.2 日野原重明先生への手紙--2003.2.3
皆様は聖路加国際病院の日野原重明先生をご存知ですか?
日本の近代西洋医療の発展に尽くされたこれまでの御実績は莫大なもので、日本の内科学・看護学の重鎮とも言える方です。90歳を過ぎた御高齢にもかかわらず、いまだに現役で医療現場に携わられ、毎日精力的にハードスケジュールをこなされておられます。
キリスト教信者でもある先生は、聖路加国際病院内に礼拝堂を建設されており、特に現代医療と宗教の融合を社会に認知させられた功労はとても素晴らしいものがあります。宗教的癒しや愛の医療を今の医学界で正面きって堂々と胸を張って語れる第1人者です。
「看とりの愛」などこれまで数多くの書籍を出版され、私も長年勉強させてもらっていました。そして、ついに昨年発刊の「生き方上手」はベストセラーになっています。その後の本も数多く売れております。多くの国民が健康で幸せな老後を過ごしたいという祈願が伝わってきます。
医療界の中では私にとっては雲の上の人であり、常々御尊敬申し上げております。「お前はそんな実績もないのに批評するのはおかしい。」というお叱りを覚悟して、どうしてもひっかかるところがあったので、独自の見解を述べ、お手紙を手渡すことができました。
敬愛なる日野原 重明 先生へ
私は7〜8年前よりブリヂストンの産業医として予防医療に携わっております。それ以前は10年余り循環器内科・腎・高血圧内科などの臨床医療・研究を経験しておりました。
先生のこれまでの日本の医学界になされた多大な御実績はいつも尊敬いたしております。先生の数多くの書籍から、患者さんのためになる本物の愛あふれる医療とは何かを、大変勉強させてもらっています。ありがとうございます。
「生き方上手」のベストセラーおめでとうございます。私もさっそく拝読させていただき、老人医療・終末期医療の「あるべき姿」を考えるのにとても参考になりました。不治の病に犯された病人の方に愛の交流をもとに精神的・宗教的癒しを与えることの大切さを学びました。
「生き方上手」の中で不思議に感じた所がありました。
第6章の表題が「死は終わりではない」となっていたので、「死後も魂はあの世に旅立って生き続けている」という話だと私は想像していたのですが、そうではなかったということです。その章に記述してある、「ありがとう」という言葉で人生をしめくくりたい、 死を直視しましょう、命の重みを大切にしましょう、その人にふさわしい苦痛の少ない終末期医療をめざしましょう、などのご意見にはすべて共感いたします。
多分、先生の示された「死は終わりではない」というのは、「死後も遺族や医療従事者の心の中に感謝の思いが残る。」という意味かと推察します。悔いのない死別を演出できるように、医療従事者は配慮すべきだといういうふうに捉えました。まさに医療がアートであるとおっしゃているところかと感じました。遺族や医療従事者にとってさわやかな感情を残すという意味では納得できます。
ただ残念なのは、これだけでは死を直前とした当人が本当の意味での魂の苦痛に対しての癒し・救いになってはいないかもしれないと感じるところです。「人間は死んだらどうなるのか」という現実的な命題(死生観)を解ききらなければ、真の意味での癒し・救いにならないのではないようにも思います。おそらくこの解答を御存知なのは神仏だけでしょう。
死ねば魂は宇宙の中に霧散して無に帰するのでしょうか?
それとも「個性ある魂」は死後も存続するのでしょうか?
イエスキリスト様も「あの世」「霊魂」について詳しく触れておられませんので、聖書の教義としては残っていません。私の知る範囲では、聖書には「あの世はない」という教義は示されてありません。この真理は肯定も否定もされておりません。一方、仏教思想の中には「あの世」の存在、「転生輪廻」の思想があります。
私は病院勤務の頃、数多くの死にいく患者さんと接しました。その時感じたのは、あの世があると信じて亡くなっていった人のほうが、死を前にした時でも心の状態は比較的安らいでいるのではないかと感じたことがありました。「あの世はない」「あの世はある」などの信条は人それぞれだと思います。
あの世の実在を現代科学で証明するのは不可能ですが、あの世がないと証明する事も不可能です。しかし現実には「ある」か「ない」かの2通りのどちらかです。死ぬとすべてが土になって無に帰するのであれば、老後になって學び得た智恵も、趣味などで獲得した技能も、すべてが空しいように思えます。
ところが、もしも魂としての実在が死後もあるとするならば、死は通過点だし長期的展望を抱いて老後を生きていけます。希望の源です。さらには死別した近親者や仲間とまた再会できるという楽しみもあります。現実的にはどちらであろうとも、あの世を信じて生きていった方が得なような気がします。
私の医療経験では、あの世がありその後も魂が存続すると信じている患者さんの方が老後も幸せそうだし、特に死を直前とした時の精神衛生上にも好ましいように思えました。先生の豊富なホスピス臨床経験からは、この点はどのようにお感じでしょうか?
私は循環器内科が専門だったので、一度心臓停止した患者さんに心臓マッサージや人工呼吸の処置をして蘇生できた経験が何度かあります。その中で臨死体験を語ってくれた患者さんが2人いました。1人はお花畑に立っていて既に他界した親に会って「帰りなさい」と言われたそうです。もう1人は私が心マッサージをしている様子を上から見ていたという事です。
この衝撃的な話を聞いて、あの世はあるのかもしれないと感じ始めた次第です。彼らは「あの世」の存在を確信し、「もう死は恐くない」とおっしゃっていました。彼らの誠実に語る様子からは、これはうそではなく、現実の体験だと確信しました。その後の亡くなられるまでの間に充実感あふれる人生を送られたのを目にしました。このような生き方を信条とするのが、年を取っても希望を失わず生きていける究極の方法ではないかと感じています。
「あの世」の存在を確信した人にとっては死は新たな体験であり、次の扉を開くエキサイトする瞬間だと受け取る事もできます。そしてもしもそうだとすると、あの世に持って帰れるのは心しかないのだから、せめて心を美しく磨いて帰ろうというところに行き着きます。年老いて病気で苦しみ、肉体が衰え自由がきかなくなったとしても、心を磨こうという心がけは一生涯可能なお勤めだと思いました。
先生のおっしゃる「器の中の水をいかにきれいにするかが大事なのです。」という根拠もここにあるように感じました。死を直前とした患者さんの「霊的苦痛の癒し」として、ホスピスケアにも活用・導入できるとても有用な考え方ではないかと思いました。
聖書に触れていないという理由だけで、この思想を受け入れてしまうのは果たしてイエス様への冒涜にあたることでしょうか?私の想像では、キリスト教を現代風に進化・発展させたということで、むしろイエス様も喜ばれるのではないかと感じています。
なぜなら、死後も続く生命観を信じる事によって、患者さんやお年寄りにとって、さらに希望に満ちた福音が与えられるだろうと思うからです。人々が喜んで幸福に感じる有り様をイエス様は望んで見ておられるように感じるのです。
仏教・キリスト教という個別の教義枠だけにとらわれずに、もっといろんな宗教思想のもつ素晴らしい普遍的なところを構築・統合し、それをホスピス医療活動に生かすことができれば、さらなる魂の癒しに結びつくレベルの高いケアができるのではないかと私は信じています。
先生に比べてもはるかに経験の浅い若造からの一考察です。
これからも医療界の発展のために御活躍の事と存じます。
応援しております。がんばってください。
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