生活人コラム



 INO.VOL.19 海外最新医療事情-シンガポール 2004.3.8【井上 透】

 [執筆者]
 井上 透
 [紹 介]
 ブリヂストン健康管理センター勤務の産業医。大学講師。医学博士。
 企業の健康管理センタ−に所属して、社員の肉体的および精神的な方面まで含めた総合的な健康管理の仕事をされています。




 今回は、参考書籍『患者本位の医療を求めて』(NHK出版)飯野奈津子著とインタビュー記事から、日本の医療改革のヒントがあると感じ、特に感銘を受けた一部分をご紹介します。


<健康の責任は個人で負うという高い健康意識>

 シンガポール国民の健康に対する意識は非常に高いのです。

 朝の公園では、太極拳のような音楽に合わせて体を動かす運動する人であふれています。子供たちにインタビューしても「お腹いっぱい食べちゃいけないんだよ。」「甘いものを食べると虫歯になるよ。」といった答えが当たり前のように返っており、「健康で過ごすことが自分のためになるんだ。」という意識が、国民に根づいています。


 こうした健康指向を支えるものの1つに「メディセーブ口座」があります。シンガポールでは、国民ひとりひとりにメディセーブと呼ばれる口座を持たせ、医療費の積み立てを義務付けています。

 病気になると、この口座から医療費が引き落とされる仕組みなのです。メディセーブ口座は非課税で、政府が高い利子を保証していますから、健康に過ごしていれば割のいい貯蓄ですし、遺産として子供たちに残すこともできます。逆に病気になれば、目に見えて口座残高が減っていきます。

 だから国民は自発的に健康を意識するようになります。国民の健康意識に応える形で、小中学校に病気の予防教育が採り入れられ、地域の診療所で毎日のように健康講座が開かれています。こうして健康指向が根づいてきたのだと思われます。


 もう1つは家庭医の制度です。地域の家庭医が患者さんを診察して初期治療を行い、高度な治療が必要な場合には専門医を紹介するという仕組みです。

 いくら健康に気を配っていても、病気になることはあります。そんなとき、できるだけ早い段階で治療をするのが家庭医の制度なのです。シンガポールでは診療所と病院の役割が明確に分かれていて、診療所では初期治療、病院では専門医療を担当しています。家庭医が属するのは診療所で、公立の場合は補助金が多く投入されています。

 このため、1回の診察料は500〜600円、薬は100円程度で、子供やお年寄りはその半額です。病気を初期の段階で治療できれば、結果として医療費は少なくて済みますから、国民の負担軽減はもちろん、政府としても助かるわけです。シンガポール政府は「健康の責任は個人が負う」ことを医療制度の基本としています。


<選べる自由のある医療>

 医療費負担率に応じて患者が病院を選ぶことができます。シンガポールの公立病院は、A、B1、B2、Cの4つにランク付けされており、医療費負担に応じて、患者さんが病院を選ぶことができる仕組みになっているわけです。

 Aランクは、エアコン、バス・トイレ付きの個室で、自分の主治医を指名することができます。政府からの医療費の補助はありません。100%自己負担で、1日およそ2万円かかります。

 B1ランクは、エアコン、バス・トイレ付きの4人部屋で、やはり主治医を指名できます。政府からの補助が20%あり、1日およそ1万5000円かかります。

 次のランクからは、主治医は指名できません。B2ランクは6人部屋でエアコンなし。補助が65%で、1日およそ3500円になります。Cランクは8〜10人の開放病棟で、政府からの補助は80%、1日およそ2000円です。

 一方、私立病院は料金に規制がなく、全くの自由診療です。ホテル並みの接客をしてくれる病院もあり、多様なサービスを展開しています。


 ここで気になるのは、ランクによって医療の「質」に差が生じるのではないかということですが、そこをカバーしているのがチーム医療なのです。たとえ経験の浅い医師が主治医になっても、チームでサポートを行うため、医療の最低限の質は確保できるということなのです。

 もちろん、病気の種類によって必要な治療も変わってきます。たとえば、非常に高度な専門性を必要とする治療の場合はAランクの病院で医師を指名し、軽い病気の場合はB2ランクで、というように、病気の種類によって使い分けているのが実情のようです。

 さらには、インターネット上に公開された情報を元に医師を選ぶことができます。こうした「選べる自由」に欠かせないのは、情報公開です。

 IT先進国でもあるシンガポールでは、どの医師がどんな症例を多く扱い、手術の件数と成功率はどの程度なのかといった情報が、すべてインターネット上に公開されています。その情報をもとに、患者さんは主治医を選ぶわけです。医療を選べる仕組みには、情報公開が欠かせないという発想です。

 家庭医が重要だという認識はちゃんと浸透しているのです。病気を初期の段階で適切に診断し、的確な早期治療を行う。この最も重要な部分を担うのが、家庭医であるという認識です。


<産業としての医療>

 産業化によって、医療全体の質が向上していくということになります。

 シンガポールでは、医療を国際産業に育てていこうという方針も打ち出しています。シンガポールでは、1997年に、民間の診療所経営グループが株式上場しているそうです。このグループは、国内や香港で開業しているほか、インドネシアやマレーシアへの進出も計画しているそうです。

 今の時代、高齢化社会の問題や介護の問題がありますから、医療が産業として発展する可能性は十分にあるでしょう。それに、医療を産業化することは医療全体の質の向上にもつながっていきます。これが一番の利点だと思います。産業化した病院が牽引役となって全体の質が底上げされると考えられるからです。

 民間病院が株式会社として国際的に競争しようとすれば、最先端の医療を採り入れるとか医師を留学させて腕を磨くとか、どんどん質を向上させていくことになります。そうして民間病院の質が向上していくと、公立の病院も患者さんをとられないようにがんばるわけです。結果として、医療全体の質が向上していくということになります。


 それから、産業として医療を継続していくためには、「透明性」や「効率化」という意識が必要となってきます。

 株式会社として資金を集めるとなれば、当然経営情報も開示する必要があるでしょうし、多くの患者さんに選択してもらうためには医療実績などの情報も公開する必要があります。つまり「透明性」を高めるということです。

 また、会社として経営上黒字にしなければならないという意識も当然出てきますし、公立病院もそれを見て、赤字を出さない経営を学んでいくことになります。これが「効率化」の意識です。 高齢化社会を見据えた医療制度が求められています。

 もちろん、産業化に当たっては、功利主義に走った結果、患者さんがないがしろにされてはお話になりません。そうではなく、医療の質を確実に担保した形で産業化できるなら、それは医療の発展にプラスになるでしょう。


 シンガポール政府は、これからの高齢化社会を見据えた医療制度をしっかりと考えているということです。その成果は欧米諸国からも注目され始めています。

 シンガポールは小さな国だからできる、あるいはITが広く活用される環境が整っていたからできる、という事情もあるでしょう。日本でも株式会社の病院経営が話題になっていることを考えると、シンガポールの医療動向は、これからの日本の医療を考える一つの指針になるかもしれません。


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