生活人コラム
INO.VOL.21 脳死・臓器移植問題【井上 透】
[執筆者]
井上 透
[紹 介]
ブリヂストン健康管理センター勤務の産業医。大学講師。医学博士。
企業の健康管理センタ−に所属して、社員の肉体的および精神的な方面まで含めた総合的な健康管理の仕事をされています。
NO.1 脳死の医学的意味--2004.6.2
脳死とは医学的にどういう状態でしょうか?植物人間とどう違うのでしょうか?
意識がなくても、自発呼吸があるのが植物人間です。自力で呼吸をするという事は、脳の中心の脳幹部というところの延髄の機能が働いている証明なので全脳死でないということになり、脳死とは判定されません。脳死者の場合は、自発呼吸がないというのが診断のひとつとなります。
通常は呼吸が止まった場合、そのまま放置すれば5分後には脳が障害を受けて10−20分で心停止に陥ります。ところが、最近は救急医療管理技術が進歩したため、いったん心臓や呼吸が止まっても蘇生処置される機会が増えてきて、蘇生後も人工呼吸器で維持管理できるようになったのです。
昔は脳死に陥れば、必ず数日から2週間で心臓死に至ると言われていましたが、今は管理技術の向上で長期間生命維持活動が続けられるようになりました。
脳死の診断基準には、この自発呼吸の停止に加えて、深昏睡・瞳孔の固定あるいは散大・対光反射の消失・脳波形の平坦化があります。しかし脳波は大脳表面の電気的活動を見るだけなので、脳深部の活動は見ていません。
“「脳死」とは、脳の全体的な、回復不可能な機能停止状態”のことで、これを脳死状態といいます。
ここで脳死の理解を深める質問表を示します。以下の設問に○か×でお答えください。
【初級編】
(1) 脳死状態でも、唇が赤い。( )
(2)脳死状態でも、心臓が動いている。( )
(2)脳死状態でも、身体は温かい。( )
(3)脳死状態でも、髪の毛が伸びる。( )
(4)脳死状態でも、爪が伸びる。( )
(5)脳死状態でも、涙が出る。( )
(6)脳死状態でも、汗をかく。( )
(7)脳死状態でも、出産ができる。( )
【中級編】
(8)脳死になったら、わずか数日で必ず心臓は停止する。( )
(9)脳が機能停止すれば、なにもかも分からなくなる。( )
(10)脳死状態では、考える力や意思を全く失ってしまう。( )
(11)脳死状態で身体にメスを入れても痛みはない。( )
(12)脳死状態で身体にメスを入れても血圧は上がらない。( )
(13)脳死状態で臓器摘出するとき、麻酔や麻薬などは使われない。( )
【上級編】
(14)脳死状態では、魂はまだ肉体と完全に密着した状態にある。( )
(15)脳死状態では、肉体のなかに意識があり、生きようと努力している。( )
(16)脳死状態では、周囲にいる人の話が理解できる。( )
(17)真実の死の瞬間は、心臓停止後にやってくる。( )
(18)脳死は人の死ではない。( )
答えは最後に示します。
皆さんは、人の生命(いのち)の本質は身体のどこにあると思われますか?
そのようなアンケート調査はないのですが、多分臓器移植を推進される医療者のほとんどが、生命(いのち)は脳に限局していると答えるのではないかと想像します。
彼らにとっては、首から下の内臓はすべて脳の指令の下だけで動いているという発想があるのではないでしょうか?脳以外の臓器は機械であり、部品の取り替えぐらいの感覚でしょう。この人間観は唯脳論からきており、その基点は唯物論だと思います。しかし実際は、各内臓にも生命が宿っていて霊的意識があります。
従来の医学の常識であった「脳死は人の死である」という概念が崩れつつあります。その医学的根拠を、この3回シリーズで説明していきます。
10年以上前までは「いったん、脳死になったら数日から1週間のうちに心臓死にいたる。」というのが定説だったのですが、最近の生命維持管理技術の進歩で数ヶ月以上生存例が数多く出てきています。
心臓は鼓動を打ち、肌は温かく、子供の場合は身長も伸びます。また肉親の呼びかけに手足を動かしたり、血圧の上昇反応もおきます。この現象は、息子が脳死に陥り看病の経験もある作家の柳田邦男氏も認めています。
元東京医科歯科大学の神経内科教授の古川哲雄医師は、「脳死者に意識が残っているのではないか?」と問題提起をしています。 脳死患者から臓器を摘出する時は、まるで患者が痛みを感じているように激しく暴れて手術室が血だらけになることが少なくありません。
脳死者が手術中や脳死判定中の無呼吸テスト中に手足を動かすというのを「ラザロ兆候」と呼び、移植関係者の間では常識となっています。さらにはメスを入れると脈拍と血圧が急に上昇します。
患者の体動を抑制するために、摘出手術中は全身麻酔をすることになっています。患者は臓器を摘出された後は死んでしまい、訴えるすべはありませんが、本当は痛みを感じているのではないでしょうか?これは脊髄反射だとされていますが、いまだ医学的に解明されていません。
藤田保健衛生大学の野倉一也医師は、1997年「ラザロ兆候」に脳の一部の下部延髄が関わっている可能性があるという論文を発表しました。関西医大の法医学の沖井裕は、脳死と診断された患者に脳幹機能が残っている事を示す鼻腔誘導脳波を測定しています。 これらの報告は、脳死者に意識が残っている可能性を示唆します。
臓器ドナーに登録する場合に、「もしも臓器摘出手術を受ける場合は、ものすごい苦痛を伴うかもしれない。」という可能性を承知の上でサインを考えていただきたいと思います。
現行法では、患者本人が臓器提供の意思表示がある場合に限り「脳死は人の死」であるとし本人の意思がドナーカードに示され、家族が同意した時に提供できます。民法で15歳未満の小児は遺言ができないので臓器提供できない事になっています。
しかし、今年秋に脳死臓器移植法の改案の予定されています。自民党調査会の改案では、脳死は一律に人の死であるという前提に立ち、本人が臓器移植拒否の意思を書面で残していない限り家族の承諾だけで提供が可能になるとしています。
しかも15歳未満でも家族の承諾により臓器提供できるようになります。小児の脳死者の1割は親からの虐待によるという報告も有り、虐待した家族からの承諾で小児の臓器が摘出されるのはあってはいけないことです。
NO.2 破綻した、脳死は人の死--2004.7.1
1997年に臓器移植法が成立した頃、多くの日本の臓器移植従事者も国民も、「医学的に脳死は人の死である。」というのが欧米では受容された不動の概念だと勘違いしていました。
しかし、それは10年以上前の実状であり、ここ数年で臓器移植推進派の論拠が破綻し、脳死者からの臓器移植を正当化する学問的基盤は今は崩壊しているのです。日本のマスコミはその事実を報道せず、最新の脳死概念の変容を伝えていないのです。
カルフォニア州立大ロサンジェルス(UCLA)校のアランシューモン教授(小児神経内科)は、かつては臓器移植推進派の一人で、1989年にローマ法王庁科学アカデミーで「脳死が人の死である」という結論をまとめ報告いたしました。
ところが、ローマ法王が次のようなアドバイスを彼にしました。「その時々の専門家の合意がことごとく過ちでありうる事を自然科学の歴史が繰り返している事実を忘れないでいただきたい。謙虚な探求心を持って真理への学びを続けてください。」
これを機に、彼は、過去の脳死診断例の洗い出し作業を始めました。
その中で、14歳で脳死と診断された少年で、両親が臓器移植を拒否して生命維持装置を外すのも拒否したケースがありました。その少年は、人工呼吸器以外の簡単なサポートで9週間以上生き続けていることがわかりました。
さらには、「脳死」と診断されれば数日から1週間で身体機能が維持できなくなり心停止に陥るという従来の常識を根本から覆す症例が数多く実在する事実を確認しました。
過去30年間にわたり検証に耐えうる175例の長期脳死生存例を論文に紹介しています。その中には、4歳の時に脳死に陥りながらも成長を続け2004年1月に死亡したという、21年半生き続けた症例も含まれています。これを根拠に彼は従来の脳死理論を捨て去ったのです。
くしくも日本で「臓器移植法」が施行されたのと同じ1997年に、アメリカのハーバード大学医学部麻酔科のトウルーグ教授が Is it Time to Abandon Brain Death?「脳死を放棄する時ではないのか?」という論文を発表し、欧米の医者や生命倫理研究者に波紋を投げかけ脳死理論の見直し論議がさらに高まってきました。
彼は、世界各地で採用している全脳死の定義と判定基準、さらには判定テストの矛盾点を列挙して論理的におかしいと主張しました。
「脳死判定テストの項目をすべて満たしている患者の多くが、その脳幹・中脳・大脳皮質に統合的な機能の残存を示す明確な医学的根拠がある。」と彼は述べています。
また、「患者が低体温である場合は、脳機能が抑制されている可能性があるので脳死判定の対象から除外されるが、それでも体温を調整しようという機能が働いているのならそれを統御しようとする脳機能が維持されていることになり、死んでいるとは言えない。」とも述べています。
脳死状態でも個体の統合機能が保たれているというのは生命の営みであり「死」とは言えないということです。たとえ全脳死基準でもそれを完全に証明できる手段は現医学では存在しないので、もう脳死概念を捨てて従来の心肺基準に戻すべきだと主張しています。
彼の他の論文では「脳死概念」を放棄せよとは言っていますが臓器移植反対ではないこともわかります。脳死を死としなくても、倫理でいう「自律」(autonomy)と「無危害」(nonmaleficence)の原則を守れば、生きている者からの移植は可能だと言っています。
「生者が他者のために自分の生命を捨てる愛の行為」「菩薩業」のような宗教的功徳にあてはめているようにも思えます。
しかし、世界的には、「ドナーは死者からという原則」(dead donor rule)があり、トウルーグ教授の主張する「生きている者からの移植は可能」という見解は移植医やレシピエント(臓器受容者)からの抵抗感は根強いのでなかなか受け入れられていません。
ただ、専門家に「脳死概念」の間違いを認識させた功績は大きいと思います。
彼の発表に反論の意見も出ましたが、彼の理論を打ち崩すに至らず、ある医療科学者は、「これを大々的に公表すれば今の臓器移植社会を否定することになり大変な混乱をひきおこすことになる。」との危惧を語っています。
かわりに臓器移植を運営する上では理論的におかしくてもやむ終えないという論調を最後に、不思議なことに、この論争はここ最近は沈静化しているのです。最近の海外メデイアにこれを裏付ける情報はないかを検索中ですがなかなか関連の報道は見つかりません。
私の想像ですが、この論理的矛盾を公にすれば今日の移植医療に混乱をきたすためにアメリカの医師や生命倫理研究者は一斉に口をつぐんでいるのではないでしょうか?しかし、一般大衆およびドナーがこの事実を知らないまま臓器移植医療を運営するのは倫理に反する事ではないでしょうか?
ダートマス・ヒチコック医療センターのバーネット教授(神経内科)は、1970年代に「脳死は人の死である」という説を医学的に理論付けした脳死推進論者の筆頭でした。
彼は、トウルーグ教授に反論をこころみましたが医学的根拠は明示できず、脳死の基準は臓器移植という社会的な必要性から生まれた概念だと強調するのが精一杯だったのです。
ケースウエスタンリザーブ大のヤングナー教授(生命倫理)は、かつては「脳死者を価値あるものとするのは臓器提供である。」という推進派のひとりでした。ところが1990年代始めに脳死理論の非論理性に気づき臓器移植の反対論に転向しています。
アメリカの脳死に関わる医学専門家の間には脳死の権威者が次々に主張を転換し、脳死を正当化する理論はすでに破綻しています。それなのにどうして今でも年間2万件も脳死臓器移植が行われているのでしょうか?
オハイオ州立大医学部のロバート・テーラー助教授(神経内科)は、「アメリカは脳死臓器移植に深く関わり、ビジネスとして医療業界を支える柱になっている。もしも廃止すれば、政治的・社会的に非常な混乱をきたしてしまう。」と語っています。
今さら「間違っていました。脳死は人の死ではなかった。」と言い出せないという状況なのです。
このような専門科学者の思惑をアメリカ国内の現場の移植医も一般大衆も把握できていません。
アメリカの移植医からは「高速道路の速度制限を緩めるべきだ。」という主張は今も度々出されています。この背景には、事故が多発すれば脳死者が増えるという推進派の思惑があります。欧米の臓器移植システムは大きな矛盾を抱えたまま動いているのです。
以上のような実状は、欧米の医学論文(英語)を読まなくては十分把握できませんし、日本語で説明したものはまだ少ないのですが、以下の日本語書籍・論文が参考になります。
1)
「脳死・臓器移植の本当の話」PHP新書
小松美彦(こまつ・よしひこ) 東京海洋大教授(生命倫理学)
脳死・臓器移植の実情を正しく説明した題名通りの第1推薦書籍です。
2)
社会的構成概念としての脳死ー合理的な臓器移植大国アメリカにおける脳死の今日的理解ー
会田 薫子 生命倫理 VOL.13 No1 2003.9
医学論文です。
さらに、以下の1)2)3)が最近の欧米の脳死概念が変容してきた事を説明したインターネット発表論文です。
1)
日本の「脳死」法は世界の最先端(森岡正博)
http://www.lifestudies.org/jp/noshiho01.htm
スペインの除脳姿勢を示したラザロ兆候の説明は衝撃的で、脳死判定後も脳幹部の脳細胞は生きているのを示唆する報告です。アメリカのドナーカードの普及率は20%前後に留まっているのも驚きました。アメリカのニュージャージー州の脳死法は、信仰を理由に脳死の拒否を認める「良心条項」を導入しています。日本の移植専門医からは、とても臓器移植を施行しにくいという悪評判の「日本の移植法」は、 現在アメリカの専門家からは見直しの題材として注目されているそうです。
2)
アメリカおよびドイツの脳死否定論(中山研一)
http://www.lifestudies.org/jp/nakayama01.htm
脳死テストを全て満たした多くの者が「全脳の機能の永続的な停止」に至っていない証拠がある。脳幹及び中脳の機能を明確に保持している証拠に、摘出の際の心拍数と血圧の著しい上昇がある。アメリカとドイツでは脳死否定論はすでに圧倒的な多数説になっている。
3)
ドイツにおける脳死論議の現状−脳死を放棄して移植を正当化することは可能か−(黒瀬 勉)
http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ2-1/kurose.htm
NO.3 脳死判定基準とその矛盾や問題点--2004.7.31
そもそも「脳死は人の死」の理論が生まれた背景はどこにあるのでしょうか?
1950年代までのアメリカは「血液循環の完全な停止をもって死」とする法律がありました。
世界初の心臓移植は南アフリカでクリスチャン・バーナードが1967年に施行しています。これに刺激を受けてアメリカでも臓器移植が始まりましたが、家族から「生きていたのに殺された」という訴訟が相次ぎました。
全米に波紋を投げかけたのはタッカー・ローワ事件でした。1968年にバージニア州の黒人労働者タッカー氏が脳死状態になり、ローワ医師が心臓を移植し、タッカー氏の家族が医師を殺人罪で訴えました。
医学的には素人である一般の陪審員の評決で「タッカーは死んでいた」とされましたが、厳密な医学的検証の欠如した判決となりました。
それを受けてハーバード大医学部の特別委員会が「不可逆的昏睡(脳死)は人の死である。」という基準と判定法を始めて発表し、これが現行の脳死判定基準のモデルとなっていますが、医学的根拠は皆無でした。
つまり、法律を拡大解釈して臓器移植をやってしまい、その後判定基準を作成して既成事実化し、さらに医学的な理屈を上塗りしたのが、アメリカの脳死臓器移植の歴史の始まりなのです。脳死概念は臓器移植を施行するための決め事だったのです。
前回紹介したトウルーグ教授は同じハーバード大医学部の教授であり、脳死判定基準を初めて作成した大御所のトップが、今は脳死否定論者になっています。
日本での移植推進派の「医学的に脳死は人の死」という主張は、20年以上前の古い医学理論の援用にしかすぎません。ところが、このように、アメリカの最新医学では脳死を正当化する理論は否定されつつあります。
日本では1997年に臓器移植法が成立し、それ以降は脳死に関する学問的論議は打ち切った感があります。しかし、アメリカの脳死概念の変容を知らない医療関係者がほとんどです。このままアメリカでの最新の脳死論議を無視したままで、脳死臓器移植法を見直し推進しようとする今の日本の専門家の姿勢は問題です。
スペインのサンタ・クル・イ・サント・パウ病院のJ・マルテル=ファブレガスの論文に示された30歳の女性と11歳の男児の症例は衝撃的です。二人とも、脳死判定後「ラザロ兆候」を示し、その後手首を外側に屈曲させて硬直するという「除脳姿勢」を示しました。
「除脳姿勢」とは、大脳が働かず脳幹部の障害は中脳と橋の部分にとどまり、その他の脳幹部の細胞は生きているということを示しています。つまり、脳死判定後、30時間経過後の「除脳姿勢」は「本当は全脳死ではなかった事」の証明になります。
このように、臨床的な脳死判定は、正確に「全脳死」だと断定できないいいかげんな方法なのです。
ここで現行の脳死判定の5つの基準について、今迄に示した脳死と判定された臨床事例、トウルーグ教授・シューモン教授の主張理論や臨床脳神経学の理論などと照らし合わせて矛盾・問題点を私なりにまとめてみました。
現行の脳死判定基準では全脳死だとは正しく断定しきれないこれだけの医学的根拠がある、という説明です。
<脳死判定基準とその矛盾・問題点の解説>
1.痛み刺激にも反応しない深昏睡
もしも本当に深昏睡なら、音楽や身内の呼びかけに対して首・肩・足を動かすはずはありません。手術中の「ラザロ兆候」が脊髄反射だとしたら、おかしいところが多々あります。
そもそも脊髄反射とは、特定の上肢や下肢の腱の部分に打撲などによる感覚刺激を与えると、その刺激が感覚神経を通じて脊髄に伝わり、脊髄内での限定した反射を介して運動神経に伝わり、刺激したのと同じ上肢や下肢における単発的な反射運動をきたす事に相当します。
どうして、胸やお腹にメスを入れると、その痛覚刺激部位と関係のない四肢での運動反射がおこるのでしょうか?しかもこれは複雑で流動的な自発運動なのです。本当に深昏睡なら臓器摘出術中の麻酔処置が必要なはずはありません。
Japan Coma Scale(JCS)による意識障害の分類でも、深昏睡なら痛み刺激に対して全く反応しない(300)に分類されますが、痛み刺激で手足を動かすのなら、意識レベルは200以下のより軽い昏睡ということになります。つまり、「ラザロ兆候」が出現した時点で深昏睡ではないと断定できます。
2.自発呼吸の停止(脳幹機能の反映)
→ 確定のために無呼吸テストを実施する。血液の炭酸ガス分圧が上昇してきた時に、脳幹部の延髄の呼吸中枢が働いていれば自発呼吸が出現する。脳幹機能がなければ自発呼吸は発現しない。
自発呼吸の停止は脳幹部の延髄の機能喪失のサインである事は認めますが、その他の脳幹部機能が全て廃絶したとは断定できないと思われます。
また、「ラザロ兆候」が無呼吸テストの時に出現しやすいのもおかしいです。無呼吸テストで炭酸ガス分圧が上昇してきた時に他の脳幹部が反応しているのではないでしょうか?その反応表現として自発呼吸できない代わりに、手足の自発運動で患者さんが訴えているのではないでしょうか?その可能性は無視できません。
3.対光反射の消失
→ 光刺激を与えても縮瞳の反応がない、あるいは両側瞳孔の径が4mm以上に開大したり、瞳孔が固定している。
対光反射の消失が脳幹部の障害からきているとしても、脳幹の一部である中脳の上丘というごく限られた領域の障害を証明しているだけなのです。
4.脳幹機能の反応の消失
→ 角膜反射(角膜を綿で刺激するとまばたきの反応がある)の消失。
→ 咳反射(気管内チューブにカテーテルを挿入して吸引すると咳反射が出現する)の消失。
→ 前庭反射(耳の中に冷水を入れると眼振が出現する)の消失。
これらの反射が消失しているのは、脳幹部の機能障害が起きている根拠にはなります。しかし手術中に脳死患者の血圧が上昇するのはなぜでしょうか?
基礎疾患に高血圧症があり高血圧性の脳出血・高血圧性脳症があって血圧が上昇するのはわかります。しかし、元々健康な時からそれらの基礎疾患がないのなら、脳幹部の機能廃絶に伴って「血圧が低下する」のが通常の反応だと思われます。
さらには、脳死状態でも体温が調節され極端な高体温や低体温にならないのはなぜでしょうか?脳幹部機能の残存の可能性を想像します。つまり、上記の脳幹反射の消失は、脳幹部の一部機能の喪失を意味しても、全脳幹部機能が喪失しているとは断定できないのです。
脳死判定状態の妊婦が出産したという事は、生体内でホルモン刺激によるやりとりが行われていた事になります。これは、有機的統合性が保たれている事の証明ですし、高等生物の生命活動そのものです。
脳死判定状態でも脳下垂体からのホルモンの分泌があることからも、脳幹部機能の残存を推測させます。身体の統合的な生命維持活動は脳死判定後も維持されていることになります。
5.脳波が平坦
脳波で示されるのは脳幹部の電気的活動をとらえているのではありません。
平坦な脳波は大脳皮質という脳表面の機能の喪失を表現していますが、脳深部にある脳幹部の全機能喪失を示すものではないと思われます。脳の電気的波動は心電図に比べても微弱なので、頭皮から測定する表面脳波が全脳死の証明にはならないのです。
その根拠として、脳死と判定された患者に鼻腔誘導による脳幹部の脳波が認められています。
つまり、表面脳波の平坦化では大脳レベルでの電気的活動は止まっているのは確認できますが、脳幹部レベルでは電気的活動が維持されている可能性を示しています。
脳波という生理的検査は古典的方法です。脳波平坦症例に最新のPET検査(ポジトロン断層撮影法)で脳幹部の代謝活動を測定してみれば、生命活動の営みが確認できるかもしれません。(もちろん、理論的に可能だと思いますが、現在のところ研究報告例は皆無です。)
(まとめ)
そもそも、全脳死の定義とは、「身体的統合の不可逆的喪失」です。
ところが、このような脳死判定後の長期生存例の存在や、妊娠維持出産例や、血圧上昇反応や、体温調節機能の維持や、脳下垂体ホルモン分泌機能の維持などから、身体の統合的活動は脳からの単一指令だけによって成立しているのではないことがわかります。
たとえ高度な脳障害があったとしても、身体の統合調節は、全身の各臓器間のやりとりで自律的に行われているところもあり、生命活動の中枢は脳に限局したものではなく、各臓器が生命を宿し、相互に連関していると思われます。
推薦書籍
「永遠の生命の世界」第3章:脳死と臓器移植の問題点
幸福の科学出版 大川隆法
<終わり>
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