生活人コラム
INO.VOL.31 うつ病の論考【井上 透】
[執筆者]
井上 透
[紹 介]
ブリヂストン健康管理センター勤務の産業医。大学講師。医学博士。
企業の健康管理センタ−に所属して、社員の肉体的および精神的な方面まで含めた総合的な健康管理の仕事をされています。
NO.1 はじめに--2006.5.1
1) 労働者にうつ病が増加している社会的背景
日本経済はようやく回復の兆しが見え始めましたが、10年以上にわたる長期不況の中、会社組織のリストラなどで、失業・転職する人材の流動化をきたしました。
このような社会構造の激変に伴い、従来型の経営の革新に失敗して倒産し自殺する人が増えています。
日本社会に従来からある年功序列主義は見直されて、成果主義が導入されるようになりました。
競争がなくて誰もが平等の社会になればストレスがなくなり、うつ病も減って良いというのが共産主義者の意見です。しかしそのような牧歌的で退屈な世の中では、社会の停滞・堕落と魂の腐敗が始まり、原始社会への逆戻りとなるでしょう。
努力して成果を挙げても完全平等配分の共産主義では、社員全体のやる気が失われ、弱体化した会社組織になります。それでは現代の資本主義社会では生き残れないのです。
さらには官公庁とか、長年にわたり政府の保護政策の恩恵を受けていた農業や銀行などは、成果主義とは程遠い業務を長年続けていたのですが、今では経営のための競争意識を注入され転換を迫られています。
マクロの視点では日本社会が少子高齢化社会に急激に移行しているので、消費者の年齢別需要の構成比率が変化してきています。
また、高度な情報産業・IT社会の進歩によりニーズが多様化し、消費者の心をつかむヒット商品の開発も、情報を的確に迅速に把握し、素早い判断を下さないといけません。
さらには、保護政策から自由起業政策へ転換され規制緩和されたことにより、以前では考えられなかった異業種が新たな戦術でもって参入してきて、様々な業種間で類似商品やサービスの競争が激化してきました。
このような競争に対しては、市場調査・広告宣伝方式・付加価値のある製品やサービスの提供など、他に類をみない戦略を智恵でもって搾り出し立ち向かわないと勝ち残れないようになりました。
成果主義の導入は日本企業の体質強化につながったという功利の面もありますが、個人レベルではマイナス面もあります。
リストラや失業の不安からくる会社への過度な従属意識が拭い去れず、無理なノルマ・サービス残業などで、心身が疲れきったサラリーマンが増えています。
流動化の波についていくだけでも各社員の不安やストレスを高めます。さらに能力をフルに発揮するように無理を重ね、過労死・過労自殺に陥る社員も増えています。
成果主義の導入で、同種企業の間でも勝敗が明らかになり、負け組み企業のリストラが多発し、合併・吸収による存続もできなくなった倒産企業経営者の自殺も後を絶ちません。競争社会で敗れてうつ病になる人も多発しているのです。
ただし、ここで深く考えるべきは、競争社会での優勝劣敗は単一尺度での勝ち負けにすぎないということです。
世間一般で羨ましがられている高学歴・高収入職場・美人の嫁さんを獲得できればそれだけで幸福かというと、必ずしもそうとは限りません。一流企業に就職できたのに、生涯平社員で恐妻家だということもありえます。
幸福を測る物差しは何本もあって、別の観点から自分の幸福を発見することも可能なのです。
うつ病者を取り囲む職場環境改善は、本人だけでは解決できない問題です。
ここで大切なのは成果主義が個人主義に陥りやすい弊害を察知し、我々日本人の本来の気質だった「和をもって尊し」の精神を見直し、上司や同僚から助け合える企業風土を熟成しようと皆が努めるべきだと思います。
2) うつ病の誤解と正しい認識
「うつ病は気分の問題なので、気持ちの持ちようでどうにかなる。」「うつ病は精神力が弱いからなるのだ。」「うつ病はなまけ者で根性がないからだ。」という誤った見解を持つ人も後を絶ちません。
思考や感情の障害として発症した病気なのです。
また「うつ病は心の風邪」とよく言われていますが、この言葉が、風邪のようにすぐ治る軽い病気だと誤解されているようにも思えます。
うつ病にかかった人は悲観的思考に長期間陥り、なかなか抜け出せないというあせりがあります。この「心の風邪」は、きちんとした治療・ケアを受ければいつかは回復するという希望のメッセージなのです。
その他にもよくあるうつ病に関する誤解に次のようなものがあります。
「うつ病にかかった人は全員が四六時中落ち込んでいる」
→ うつ病者も気分の日内変動があります。朝だけ悪化して夕方になると少し改善することもあります。人と接している時は元気そうでも、それは空元気の時もあり、無理して笑顔を作っていることもあります。自室に独りいる時はひどい抑うつ気分の時もあります。その時の面接で良いからといっていつも大丈夫だとは限りません。
「うつ病の人は仕事も生活も全くできない」
→ うつ病の回復には数ヶ月の時間がかかる人もいますが、回復後は全うな生活が営めています。ただ、病状回復のために心のエネルギー充電のための休養が必要なので、治療のために仕事も休んでいるのです。無理して仕事しようとすればできるケースもありますが、精神エネルギーが枯渇して病状をさらに悪化させます。
「過去と決別し前向きに生きる気持ちになりさえすれば、うつ病は治る」
→ うつ病になった人は、後で説明する認知の歪みからくるマイナス思考の枠組みから抜け出せない苦しみでもがいています。健全なプラス思考への切り換えができない病気なので、地道な薬物療法と精神療法の積み重ねが必要です。
「うつ病は全てストレスが原因だ」
→ たしかにうつ病になるきっかけにストレスが関与している場合も多いのですが、同じストレスでもなる人とならない人がいます。本人の素因・性格・認知・思考の偏りなども複雑に絡み合っています。
「うつ病になった人は人格が破綻してしまう」
→ うつ病者自身の認知している内容が、現実の出来事と乖離してしまい、妄想をきたすようになります。妄想とは事実に根ざしていなくて、周囲の者が間違いを説得してもそれを修正し受容できない想念状態です。
統合失調症などの精神病患者さんの妄想は、その問題対象が他人や社会に向けられ、被害者意識が強くなります。それと異なり、うつ病患者さんの妄想は、自分自身の問題だと捉え、自分を否定し責めさいなむ傾向にあります。
「うつ病になったとしても、薬を内服すれば治る」
→ うつ病に薬物治療が7割の有効率を示しています。しかし、うつ病の根本的原因を治したとは言えません。本人のうつになりやすい性格・認知の歪みは薬で変えることはできませんし、発病要因のストレスとなった対人関係や業務環境の改善が施されない限り、再発の危険は高いのです。
NO.2 うつ病のサインと危険因子--2006.6.5
3) うつ病のサインを見逃すな
「うつ病」のサインを早期に発見するのが重要です。しかし、うつ病患者さんの心の中を覗き見るのは、周囲の人(家族・友人・職場の上司同僚など)にも困難です。
うつ病になった人は自己否定とともに自分の殻に閉じこもってしまい、周囲の人へ表立って自分の心を素直に表現しようとしないことも多いのです。うつ病の初期段階では、周りに迷惑をかけまいとして、本当はつらいのに無理してニコニコしていたり、がんばって動き回ろうとする人もいます。
この「心」と「無理な言動」のアンバランスは、周囲の人にも不自然なサインとして映る場合があります。
「ぎこちない笑顔」「イライラしている」「落ち着きがない」「泣き出しそうな表情」「憔悴した感じ」「無口」「声が小さい」「動きが緩慢になる」。このような変調に気づいたら、周囲の人がお互いに話題に出して関心を持ち、注視してあげてください。
さらに以下のサインが認められたら、声かけ相談に乗ってあげることを勧めます。
<職場で見られるうつ病のサイン>
1. 元気な挨拶ができなくなる。
2. 仕事のやる気が感じられない。
3. 服装がだらしなくなく不潔になる
4. 遅刻や早退が増え、年休が多くなる。
5. 深夜残業や休日出勤が多くなる。
6. 思考力・判断力の低下で仕事が遅くなる。
7. 勤務中に眠そうにしている事が多い。
8. 一人で考え込み、独り言が多い。
9. 大人数の会話の輪に入れなくなった。
<家庭で見られるうつ病のサイン>
1. 夜眠れず、朝早く眼が覚めて、睡眠不足を自覚する。
2. 食欲が低下して、好物も欲しがらない。
3. 新聞や読書が億劫になり読めなくなる。
4. 家族との会話も減って自室にこもるようになる。
5. 休日はなにもせず、外出もしたがらない。
6. いつも疲労感を訴え、覇気がない。
7. 帰宅が早くなる。
8. 性欲がなくなる。
相談に乗る場合、まず次の様子を尋ねてみましょう。
1. 食欲の変調
一般的に食欲が低下して痩せてきます。無理して食べている場合でも「味がおいしくない」「無理やりおしこんでいる」という人もいます。中には、心の空虚感を埋め合わせるためにガツガツ食べ過ぎる人もいます。
2. 睡眠の変調
一般的には不眠症になります。夜中に目が覚めたり、早朝に目が覚める場合もあります。日中の勤務時に眠くなる人もいます。
3. 身体的不調
運動もせずじーとしているのに全身の倦怠感や脱力感が現れる。頭痛や腰痛を覚える。痛みも重苦しい感じで、症状が一定せず日によって移動します。(不定愁訴)抑うつが身体症状に隠れてしまっているので「仮面うつ病」と呼ばれます。
4. 気分の変調
何をしても楽しくなくて喜びを感じない。憂うつで悲しい。空しい感じで希望が持てない。憂うつのきっかけになった出来事が好転しても元気にならない。
5. 趣味・気晴らしがつらい
以前から熱中していた趣味(ゴルフ・習い事)をするのも嫌になる。旅行やレジャーなどの活動がかえって辛く感じる。
6. 人と会うのがつらい
家族や友人と会うのが辛くなる。自室に閉じこもりが多くなります。人に迷惑をかけまいとして、無理して人に会うとぐったりして憂うつ気分が強くなる。
7. 集中力・決断力の低下
うつ病患者さんは悲観的想念に支配され、物事を何でも悪いほうに受け取り、自分に自信が持てず未来に向けての希望が持てません。マイナス思考が頭の中をグルグル回り抜け出せないのです。そのため本来の思考力が発揮されず集中力が低下し仕事がこなせなくなり、ミスや事故も多くなるのです。
高齢者がこのような状態に陥ると、ボケてしまい認知症になったと誤解する事もあります。逆にうつ病だと思っていたら実は認知症だということもあります。素人判断は危険です。
以上のような状況が聞き出せたら早めに心療内科かあるいは精神科に受診するように働きかけましょう。病院受診が適当だとの判断も本人はできない状態の場合もありますので、周囲の働きかけが大切です。
4) うつ病になりやすい危険因子とその性格について
<うつ病になりやすい8つの危険因子>
1. 喪失体験
: 大切な人を失ったり(死別など)や大切なモノ(財産・健康)を失うなど
2. 挫折体験
: 受験・病気・仕事の失敗
3. 人間関係のトラブル
: 失恋・離婚・職場のいじめ・夫婦喧嘩・嫁姑問題など
4. 役割や環境の変化
: 入学・就職・昇進・転勤・失業・退職・結婚・妊娠・出産など
結婚や栄転は客観的には幸せそうに見えても、当の本人は新しい環境に適応できるかどうか不安なのです。まだ経験していない未知なる事への恐怖があるのです。
以上の4つはストレスがからんでうつ病になる場合ですが、その他にも次の4つの危険因子があります。
5. 遺伝的素因
親・兄弟でうつ病になった人がいる場合です。うつ病発病の内因がある場合もありますし、長年いっしょに生活を続けたために思考パターンが似てくる影響もあります。一卵性双生児の一方がうつ病になると、もう一方がうつ病になる可能性は50−70%だと言われています。
しかし遺伝的素因だけでうつになるのではありません。
6. アルコール・薬物依存者
あるがままの自分の維持が困難で、飲酒・薬により現実逃避したい願望があります。
7. 幼児虐待・重大な犯罪や事故の目撃・被害体験
PTSD(心的外傷後ストレス障害)の後遺症から抜け出せない状況です。
会社の経営悪化・失業・長時間労働・成果がでないためのマイナス評価など、このようなマイナスの出来事が起きたとしても全ての人がストレスが高じてうつ病になるわけではありません。その人の感じ方や対処の仕方で、経過は様々です。
8. 性格傾向として次の2つのタイプがある
A.悲観的思考傾向のある人
現実に遭遇する出来事をなるべく悲観的に捉えようとする思考癖があります。過去に失敗や挫折体験があり、似たような状況になると先取りして不幸が襲ってくるというマイナス思考に陥ります。
客観的にはどちらに転ぶかわからない時でも、悪くなる可能性に気持ちが向かいやすいのです。たぶんダメだという思いが高じて、絶対ダメだとなり、未来の展望も希望も持てなくなります。
B.メランコリー親和型性格(過剰適応型)
仕事熱心で責任感が強い、人間関係への配慮を怠らず誠実、控えめで真面目、周囲の信頼が厚く多くの仕事を扱い、最後まできちんと仕事をやりとげないと気がすまない。
業務量が多くても他人に任せたり協力を嫌い、一人で仕事を抱え込んでしまう。仕事を失敗して他人に迷惑をかけてはいけないという強迫観念が強い問題がおきると他人を責めず自分を過度に責めてしまう。
常に良い人だと思われ続けられたいと他人の評価にとても敏感になる。一生懸命努力しても成果がでない事を認めたくない。
このような性格は、ある意味では会社人間としてはあるべき理想の姿なのです。
「○○しなければいけない」という思いが強すぎて、柔軟な思考ができず適応力に欠ける傾向があります。本人の能力不足や職場・社会環境の歪みという変え難い状況に置かれた時、どんなに努力しても満足のいく実績をあげることはできない部分もあるのだと悟ることが大切です。
自分が努力してした行動が成果に結びつかない時や、自分の能力以上の仕事(家事・育児も含む)を押し付けられて、成果を出せる目処が全く立たない場合、心は萎縮してしまいます。あるいは、自分のした事が組織(家庭)でどのように評価されているかがわからない状況もあります。
これらの状況に耐え切れなくなった時、「自分は何をしても無駄だ。」とやる気を失い絶望感を味わいます。
また、最近は生活習慣病の発病とうつ病の関連が注目されています。
1. 心筋梗塞
発作を起こした治療後も次なる発作の不安からうつ病になりやすい。2割がうつ病になるとの研究報告もある。
2. 脳卒中(脳出血・脳梗塞)
脳卒中の後遺症として手足の麻痺や言葉がしゃべれない障害が残り悲嘆してうつ病になる。情動がはげしくなりうつ病を発症する人もいる。
3. ガン
病状進行の恐怖、制御できない痛みなどで5−10%の頻度でうつ病になりやすい。
4. 糖尿病
糖尿病患者の8−9割は発症前に抑うつ状態にあったという報告もあります。
(9月から続編があります)
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