生活人コラム



 INO.VOL.7 医療従事者と患者の関係

 [執筆者]
 井上 透
 [紹 介]
 ブリヂストン健康管理センター勤務の産業医。大学講師。医学博士。
 企業の健康管理センタ−に所属して、社員の肉体的および精神的な方面まで含めた総合的な健康管理の仕事をされています。



 NO.1 医師ー患者関係 その1 2001.4.2

 医療にはもちろん不測の事態がおこる事もありますし、同じ病名でも患者さんの体質・生命力・精神力の違いで経過は様々です。また病には不治のものもあり、人間の老、病、死には宿命であり、この世の生や不老不死をめざしてがんばっても全戦全勝というわけにはいかず、必ず医療には敗北の時があります。

 それよりは、医療を通じて、その患者さんにとっての今生の魂修業にとって大切なものは何か?その人の魂の進化向上のきっかけとなる医療とはなにか?という命題を掲げて、その患者さんにあったインフォームドコンセントが為されても良いでしょうし、必ずしも画一的にするものでもないような気がします。

(注:IC-インフォームドコンセントとは、医療情報を医療者が患者さんに説明し同意を得ながら医療方針を決めて進めていく事)

 医療側では、医療過誤を恐れて一番悪いケースまで想定して説明する事で、患者さんに不安や恐怖の暗黒思想を植え付けて、医者自身の心の中までもマイナス思念が刻み込まれ、医療環境の闇が増強していきます。

 特に内科医に比べて麻酔科医の場合は手術直前に1回面談しそのまま手術本番に突入するわけですから、信頼関係を作る時間的余裕がない不利な点がある事と、現実的に麻酔ミスによる訴訟は厳しいものがあり、理論武装して訴訟に備えたいという一般的な麻酔科医の傾向性はよくわかります。麻酔がうまくいくように神仏に祈念して最善をつくしていくしかないでしょう。

 私はいろんな医療現場を渡り歩いてきた者として、今の病院システムについて感じる事が多々あります。
 大学病院などの大病院に勤務していた頃は、難病・難治性の重症患者さんは必ず高度専門病院にたどり着くものだと思っていました。また、かかりつけの患者さんがある時を境に急に来なくなった場合は、病気が良くなったかあるいは良くならないのでもっと優れた医療を求めていろんな病院を回っているんだろう程度の認識しか持っていませんでした。

 現在、企業の産業医として社員の健康相談業務に携わっているうちに、病院勤務時代にはわからなかった実態が見えてきました。会社の検診で要治療でひっかかった人はまず職制を通じて呼び出しします。本人は面談を希望していなくても、会社内では強制力を持っており、このような面談は病院ではできません。

 そこで気づくのは病院嫌い、検査嫌い、薬嫌いの人は世の中にはとても多い事です。
 肝機能が極めて悪くて肝炎罹患の可能性が高い場合は病院受診を勧めますが、まだそれほど自覚症状がないという理由で受診拒否される人もいます。さらには紹介状を書いても受診しない人、いろんな病院めぐりをしたけど納得いくほど病状が回復しないのに不満を漏らす人もいます。効能のわからない健康食品や怪しげな民間療法にどっぷりつかっている人など、その是非は別にして様々な代替医療に関わっているいる人が数多くいます。

 アメリカでは全医療費の中で、今では、種々の代替医療費の占める割合が保健医療費を追いぬいたそうです。保健で認められた医療は大学医学部臨床研究の結晶です。ところが正統な主流医療だという常識はあくまで医師の間での常識です。
 一般人には高度な西洋医学システムに不信を抱いている人が想像以上にいます。

 これは、今の医療システムに欠陥があるというる証拠にもなります。
 病状が悪い未受診者の中には、自覚症状が出てからやっと不安になって病院に行くケースもありますが、主治医からなぜこんなに悪くなるまで放置していたんだと怒られて、さらに病院嫌いに拍車がかかります。

 私は産業医という立場から、病院受診した社員から本音の感想を直接あるいは保健婦を通じて聞くことができます。病院勤務時は聞くことのできなかった病院の批判・悪口・評判などの情報が入ってきます。病院勤めの経験があるので、患者さんの受診時のやりとりを聞いたとき、その情景がありありと浮かんできます。

 医療現場でのいろんなドラマや人間模様を第3者的視点で見られるおもしろさがあります。時には、現在進行中の検査・治療に 不安を感じセカンドオピニオンとして意見を求められることもあります。すると、とても患者さんの病識が甘い場合や、あるいは医者は懇切丁寧に病状説明しているつもりであっても患者さんが誤解している場合も多いかがわかりました。

 先日も30歳ぐらいの女性社員が相談に来られました。
 生理がやや不順だったので産婦人科受診したのですが、大きな問題はなく、ついでに子宮癌の検診もしてもらったそうです。細胞診でGroup2が出たので、また1年後に再検査しましょうと説明を受けて帰されました。

(注:Groupとは細胞の悪性度の指標で5段階評価をする。2は良いほうから2番目を言う)

 彼女は実母を子宮癌で亡くしており、まだ3歳の子供もいるし、この1年の間に癌になったらどうしようかと夜も不安で眠れないと泣きながら訴えました。産婦人科医はGroup2で悪性細胞でないのだから1年後に再検査で良いと軽く考えた上での対応だったと思いますが、説明不足からこのような悲劇が生まれることもあります。わかりやすく心配要らない事をじっくり説明してやっと安心されたようでした。

 医者と患者の間の病気に関する認知にはとてもギャップがあります。
 病院の先生は患者さんのレベルに合わせてわかりやすく丁寧に説明したつもりであっても、結構まだ理解していない場合も多いことがあります。

 私は産業医になってすぐに側近の保健婦からの注意指導を受けました。
 「先生の説明は難しすぎて、それでは患者はわからない。」
 私にはそんなに難しい説明をしていたという自覚がなくてショックでした。このような学びも大きかったと思っています。

 そこで患者さんへの説明・指導に際して最初に心がけたのは、いかに専門用語を使わずにわかりやすい言葉を使えるかという所です。この平易な言葉で説明する事は救済力を高めることにつながります。

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 NO.2 医師ー患者関係 その2 2001.5.1

 医師ー患者間、看護婦ー患者間、その他の医療従事職員ー患者間、などの溝を埋め信頼関係を構築するための探求も奥深いものがあります。患者さんはその病院への批判的意見を持っていますが、医師や看護婦には遠慮していて面と向かって本音で直接言えないものです。(それが適否かどうかはまた別問題ですが)。

 知らないのはその病院関係者だけで、患者さんの間では大きなうわさになっている場合もあります。患者さんが減った原因がわからず首をかしげる医師もいます。

 この課題に全体で取り組みシステムの中で生かせた病院はさらに人気がでるでしょう。アンケートとか意見箱の設置など患者さんからの情報収集に努めて、難しいことですが、患者さんの意見をじっくり聞く時間的余裕がほしいところです。

 患者が気に入った病院を選ぶ基準として、医師・看護婦・事務員の応対・サービス・人柄や医療技術の良否などがあるのはどの先生もお気づきでしょう。

 BSの社員のような20−60才の働く人にとっての評価基準は別の面もあります。

 第1は待ち時間が少ないかどうかです。
 老人に比べて現代の働き盛りの人は時間的余裕がありません。時間がないから病院に行けないという人がかなりいます。半日がかりで病院に行けるほどの暇はないと言っています。

 第2はわかりやすい納得いく説明をしてくれるかどうかです。
 老人のお任せ医療と違って自分の病気の状態をしっかり把握したいという人は増えていますが、先生が忙しそうなのでなかなか聞き出しにくいという人が結構います。言葉やいろんな用語で説明されても後々記憶に残らないですぐに忘れてしまいます。長年内服の薬はどんな作用のものか説明できないこともあります。図表・パンフレットを活用したほうが喜ばれるし病識の理解が進みます。

 これらの課題は病院側の都合を優先して軽視されることもありますが、真剣に受け止めて改善・革新に取り組むことで病院経営はさらに安泰し発展し繁栄を享受できることでしょう。

 患者さんにとって自分の病気を診ていただく医者は、時に神様のように映る時があります。
 患者さんに病状説明をする時に、聞き入る患者さんの姿勢は真剣そのものであり、その一言に一喜一憂しています。我々医療者はその言葉の重みを常に意識して、その言葉次第でその人の人生観を良くも悪くもできる強い影響力を持った立場にいることの自覚が大切です。

 現在、医療界で論議されているインフォームド・コンセントは、医療過誤を想定した逃げ口上のような部分もあります。前回述べたように医療には不測の事態もあり、あらゆる可能性を想定して細かく説明すればするほど、患者さんは理解不能となり逆に不安感を煽る結果になってしまうマイナス面も大きいと思います。

 インフォームド・コンセントが唱えられた本来の背景は、医師−患者間の信頼関係が揺らいできたため再構築しようという目的がありました。この原点がなおざりにされ方法論に偏りすぎているように感じます。

 必要なポイントを押さえたわかりやすい説明で医師−患者間の信頼関係が固まり、医師が患者の病気改善のために努力し最善をつくしたという情熱と誠意が伝われば、例えその後不測の転機をとったとしても二人三脚で病気に立ち向かった医師を患者さんは訴えることはできないはずです。この時に細かすぎるインフォームド・コンセントは不要です。

(注:IC-インフォームドコンセントとは、医療情報を医療者が患者さんに説明し同意を得ながら医療方針を決めて進めていく事)

 医師−患者関係は、時には信仰の世界における神−人との関係に似てくる時もあります。
 患者さんは医療者の施す医療行為を感謝の気持ちで受け止めます。医学知識・技術の絶対量の違いから、医師−患者関係は、強者−弱者の関係に陥りやすいものです。

 ここで信仰の世界との相違を言えば、神仏は絶対的権威を有された悟りたる方であられるのに対して、医療者は悟りをめざして試行錯誤している修業者であると例えられます。医師も患者も仏性(仏になれる可能性)を有しているが、まだ悟っていない存在で、学び会う立場にあります。

 医療者にもしも慢心の芽が出れば小さな神となって転落してしまうという自戒がいつも必要です。医療者は謙虚な心・自分が患者さんを通じて医学を学ばしてもらっているんだという感謝の気持ちは常々忘れてはいけません。医療者が患者さんに施す行為はより隣人愛に近いところがあります。患者さんの主体的自立心を尊重し、患者さんの魂の進化に合わせた医療を施す補助者としての役割です。

 医師−患者の信頼関係にも発展段階があるように感じます。その定義にはいろんな見方がありそうです。皆さんも考えてみてください。おもしろいと思います。

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 NO.3 インフォームドコンセント その1 2001.6.1

(注:IC-インフォームドコンセントとは、医療情報を医療者が患者さんに説明し同意を得ながら医療方針を決めて進めていく事)

 第1部 パターナリズムによる医療倫理

 西洋医学社会では、医の倫理というと、BC400年のあの有名なヒポクラテスの誓いがまず起源としてあげられます。この中で、素人の患者さんにあれこれ病状や治療の事を話すのは不安を与えるだけだし、素人判断では結局は患者さんに益する事にならないので、医師は患者に決定権を与えてはならないという記述があります。

 このように、医療については、医師は患者の利益を考え、我が子を思うような心で誠心誠意つくすべきだというパターナリズム(父親的温情主義)が強調され、この義務感にキリスト教の愛の精神が合体して、長く医療倫理哲学として浸透されていました。

 一方日本での医の倫理は主に中国の思想に影響を受けています。古代中国の医師董奉(とうほう)は患者から治療費をとらず、その代わりの謝礼として病人に杏(あんず)の木を植えさせた所、数年の後に林になったという古事から医の倫理を示す言葉として、「杏林の道」(医科大学・製薬会社にもこの名前がありますが)という医道が伝えられています。また、儒教からくる「医は仁術」という言葉も、人を慈しみ無料で患者を診る施療の精神的支柱となっています。

 つまり、西洋・東洋ともにパターナリズムが医の倫理に根を降ろしていた時期が長かったのです。

 ところがこのパターナリズムはややもすると親権の乱用につながり、時には医師の独善的判断が先行し、患者の人生観・価値観・心情を考慮できない医療に陥る危険性もあります。さらに、一部権威主義的な態度で患者に接する医師のクローズアップや医療の密室性への不信が高まり、パターナリズムへの批判の声も上がってきました。


 第2部 IC出現の背景

 近年、脳死・臓器移植・体外受精・遺伝子治療など人間の生命の本質を脅かす医療技術の出現により、医療を受ける患者の人権や保健医療に伴う社会保障や医療倫理の問題までからんできて、医療は医師−患者間の個人的関係だけでなくなり、医療社会学としての視点も必要となってきました。

 IC発生の背景をまとめると、以下、5項目にまとめられます。
1. 患者側から医師の適切な説明を求める権利意識が高まってきた。

2. 医師にとっても患者に説明・理解・納得・同意を得た上で検査・治療に移行する方が信頼関係をさらに強化するのに効果的である。

3. 医療事故の紛争処理の上で説明義務が重視されてきた。

4. 医療技術が高度・多様化するに伴い、1つの病気に対する治療に複数の方法ができ、どの方法を選択するかは医師だけでなく患者の意見を尊重し考慮する必要が生じてきた。

5. 医師−患者間の情報の非対称性は依然としてありますが、マスコミ報道やインターネットなどによる医療情報の普及が加速され、患者さんに様々な情報が不十分・時には歪んだ形で入るようになり、医師だけの一方的な判断による診療・処置に承服できなくなった。


 第3部 アメリカでのIC理念発生とその歴史

 ICは発生時期は第2次世界大戦後ですが、その歴史的流れを見ると次の2つの流れがあります。

 第1は医学臨床研究の流れです。

 第2次世界大戦でナチのホロコースト事件などに代表される敵国の捕虜を使っての非人道的な人体実験が全世界の非難の的となり、人間を対象とする臨床実験・治験に関する倫理が論ぜられ、1964年に「ヘルシンキ宣言」という倫理綱領として世界医師会で採択され、その後1989年までに改正・修正されて今日に至っています。

 これには「人体実験・臨床治験は医学の進歩のためには必要であるとした上で、その目的・方法・予想される利益・可能性のある危険や苦痛について被験者に十分に説明し、被験者の自由意志を伴う同意(freely given informed consent)をとりつける必要があり、できれば文書の同意をとるべきである。」と示されています。

 人体実験・臨床治験は一般人にとっては嫌悪感があるかもしれませんが、理性的に考えれば、今の医学は人体実験の積み重ねでここまで進歩してきたと言っても過言でなく、この倫理綱領はこれからも必要なものだと感じます。

 第2は一般医療施行の現場における流れです。

 第2次世界大戦後より、西洋では人権擁護に基づく医療訴訟が数多く起きました。過失による医療過誤や承諾のない治療における数々の判決がなされ、その判例の積み重ねの結果、ICの法的理論が完成しています。1981年にアメリカ医師会がICを基本社会政策として認めたため、1980年代前半にはアメリカで完全に定着しました。

 ただしこの場合のアメリカにおけるICの法的焦点は、情報の開示や患者さんへの説明と同意というよりも、医療訴訟が起きた時の医師側の経済的保証を中心に据えているという問題があります。

(つづく)

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 NO.4 インフォームドコンセント その2 2001.7.2

(注:IC-インフォームドコンセントとは、医療情報を医療者が患者さんに説明し同意を得ながら医療方針を決めて進めていく事)

 第4部 日本でのIC理念流入とその歴史

 日本でもアメリカの上記流れを受けて、1983年に厚生省で「生命と倫理に関する懇談会」から始まり、1985年に新薬治験ガン臨床研究におけるICの作成へと進展し、1990年の日本医師会の「説明と同意についての報告会」へと発展しました。

 しかし日本では、アメリカの医療訴訟の多発による医師−患者間の不信感増長や自己防衛的な無難な医療によるレベル低下は患者さんへの損失を招くという危惧から、日本独自の内容が盛り込まれました。

 「説明と同意は医師と患者の信頼関係の基礎を築く上での必要な原則だが、日本の伝統文化のあり方がアメリカや西欧諸国とは異なるため、同じ形での<説明と同意>をそのまま我が国に導入する事には多くの難点がある。」としています。

 「医師には説明義務があるとともに裁量権もある。患者には真実を知る権利と自己決定権がある。この両者の均衡をどうとるかは現実的には難しく医師の英知に待つところが大きい。」とした上で、「医療が専門化・細分化されるほど、医師と患者は馴れ合いの関係ではなく、心と心の触れ合う人間関係を作り上げなければいけない。

 アメリカ式のICをそのまま日本に導入せず、我が国の医療の歴史・文化的な背景・国民性・国民感情を十分に考えながら我が国に適したICを行われるようにしたい。患者は医師の専門能力と判断を尊重し、医師は患者の人権と自己決定権を尊重する。この互いの信頼感を元に医療は進んでいかなければいけない。」と結んであります。

 また現在は医療法第1条の4:医師などの責務の2にICが盛り込まれており、これが日本の現法律におけるICの基底になっていると思います。

 このように、日本とアメリカのICは性質の異なるものとなりました。

 西洋のIC理念では個人権利主義・合理主義・キリスト教思想などが影響しています。しかし日本のIC理念の方が精神性・信頼関係を重視して天国的であり、アメリカIC理念の問題点を修正してより良いものを生み出そうという決意が込められています。

 形式を整えれば良いだけではなく、患者さんへの説明・理解・納得・同意の中で、その患者さんの理解度・性格・自己決定意識の特徴を見極めながら話を進めていく各医師の力量が要請されると思います。

 第5部 医学教育でのIC

 日本での医学IC教育は医学概論あるいは総論の中で心身相関、医師と患者のコミュニケーション、全人的医療、ターミナルケアの中で取り扱われ、各論では心因性疾患、消化器科・呼吸器科・耳鼻咽喉科領域の心身症、摂食障害、などにも盛り込まれています。その他心療内科、一般内科、精神科などに加え基礎科目としての心理学科、総合医学科、公衆衛生科など逐次各科の講義で話され、やや各論が重視され過ぎている気がします。

 臨床実習でICが実際行われている場面に臨席した経験のある学生は多数を占め、特に手術前や化学療法前の現場での機会が多いようです。中にはその場面になると学生は席を外すように指示されるケースもあり、現場での実習の難しい所もあるようです。医学生は医学知識という面では、医師と患者の中間に位置する立場であり、かえってその様子を第3者的立場で観察できるという意味で、その感想は興味深いものです。

 近畿大学医学部3内科から、そのような学生対象とした意識調査の研究結果が発表されています。

 「手術に関する説明の場合、臓器の解剖から始まって専門用語が多用される。実際の手術や合併症の話になった時、患者さんの頭の中はパニック状態で、いきおい『お任せします。』となってしまう。」「医師側から見れば何でもない専門用語だが、患者はただハイハイと答えているだけで本当にわかっているのかという疑問を感じる。」「医師側が経過や今後の治療方針を説明し了解を求めるが、疑問や反論を述べる患者はほとんどいない。患者の理解度はよくて50%、だいたい10〜20%程度。」など、現役臨床医にとって耳の痛い厳しい意見もあります。

 しかしこれが大学病院など高度専門病院で良く見かける現状だと思います。

 レベルの高い説明を受ける程、患者さんは気後れしてしまい単純で素朴な質問が出しにくい雰囲気があります。権威主義医療の陥りやすい欠点です。

 また、自分が医師となって患者にICを求める時には、以上の経験を踏まえてどのように改善あるいは工夫をしますか?という質問には「なるべく専門用語を使わず日常の言語に置き換えて説明する。」「図示したり模型を使う。」「説明内容を後から思い出せるように箇条書きの文章化して渡す。」(これに関しては内容の難しい文章は逆効果、それより患者の反応を見て平易な言葉で口頭で伝えた方が威圧感が少なくて良いのでは?という反論もあった。)

 これらの感想からもわかるように、医療の現場ではその患者さんの反応や理解度を説明の途上で注視観察しながら、一方的な権威主義に陥らないように注意し、必要簡潔なわかりやすい説明を臨機応変に行う柔軟な対応が望まれると言えます。

 学会レベルでは各専門科でICのマニュアル作りに熱心な所もあります。ところが医師・患者各人の資質・性格の相違により、そんな画一的マニュアルでは現場の状況によっては不適切なケースも多く、それをカバーするには医師・患者間の心をオープンにした対話に基づく信頼関係しかないと感じます。

 今回このレポート作成にあたっていろんなIC関連文献を調べて気づいた事ですが、このようなIC総論をまとめている医学者は意外と少ない事です。医学研究者は、どうしても自分の専門科領域の各論へのめりこみマニュアル化したがる傾向性を感じました。むしろ社会学者・作家・哲学者の方達の方が、医師ー患者関係を高次な視点で深く考え理論化している人が多いように思います。

 医学教育・医学会の中にはこのような根源的問題を論じる教育者が少なく、従来の医学会が他学問界からの講師招聘に後ろ向きだった閉鎖社会のつけを感じます。もちろん最近の医学会には変化の兆しもありますが、もっと医療人は他学問分野専門家からも学べる度量・器が必要ですし、もっと学問間交流に努めてほしいものです。

 医学教育システムの中にもそれを受け入れる土壌が必要だと思います。それが多くの医療人の視野を広げ、本当に患者さんのニーズにあった医療実践者養成の鍵を握るでしょう。そして医療人の視野を最高に押し広げるためにも人間の心・魂にまで踏み込んだ医学教育のシステムが希求されます。

(つづく)

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 NO.5 インフォームドコンセント その3 2001.8.1

(注:IC-インフォームドコンセントとは、医療情報を医療者が患者さんに説明し同意を得ながら医療方針を決めて進めていく事)

 第6部 癌告知とIC

 特に癌告知の場合は患者さんへの精神的圧力が病気の経過に大きく影響するので、予後の悪い事実を全て説明する事で患者さんを失望させない配慮が必要です。癌告知の前提条件として次のような事が一般的に挙げられています。
1. 癌告知の目的・意義がはっきりしている。
2. 患者さんとその家族に受容能力がある。
3. 医師と患者・家族間の信頼関係が良好に保たれている。
4. 告知後の精神的ケア・支援ができる状況にある。

 私は上記条件が満たされれば、基本的には癌を告知して良いと思います。

 医師-患者関係が本当に密でコミュニケーションが維持できれば、癌告知は死を目前にした患者本人のためになると信じます。医師はいつも患者を励まし、勇気と希望を与える責務を担っている自覚が必要です。ところが一般的に医師は4.の精神的ケア・支援に自信がないので告知をためらうのです。

 その理由のひとつに診療業務・研究に多忙なため、心の問題に取り組む十分な時間がないジレンマに悩んでいる医師も多いでしょう。さらには癌告知した場合は、心のケアができる人間的力量が求められます。

 ここに医師が永遠の魂・あの世の世界観を知る信仰者である場合にのみ、ホスピス医療の資格最適任者だと言われている根拠があります。不治の病として死を受容せざるを得ない現代医学の限界に直面した時に、その患者さんにとっての唯一の希望が信仰だと考えます。

 癌の告知を受けた患者は迫り来る死を無視できない状況に置かれます。ここで人間は永遠の魂を宿し転生輪廻をくりかえす旅人であるという価値観の提示は患者にとっての最大の福音・希望です。これからはこのような医学教育が医学生時代から望まれると思います。

 第7部 ICの問題点と展望
<医療訴訟を念頭においたIC>

 本来パターナリズムの医療では争いが少ないのですが、使用目的の誤った度の過ぎたICは論争を生み出します。

 医師主導でICの細かなマニュアルを作成したとしても、医療過誤を前提とした言い逃れや駆け引きを念頭にした技術・方法論を極めれば、複雑で難解になって患者側の不信感はかえって増長されます。あげくの果てには互いに責任転嫁の泥試合となり、地に落ちた医療となります。この時に医療に不可欠である医師から患者に向けての慈悲の思いは忘れ去られてしまいます。

 これらはアメリカのICが抱えている問題点ですが、前述したように日本でのICは学会レベルでこうならないような配慮が論じられており、希望があります。

<医師の情報提供と患者の自己決定権>

 たとえ十分な検査治療情報が提示されても患者が理解できなければ意味がありません。患者さんの理解力を考え、わかりやすい言葉で必要事項を述べる配慮が大事です。細々とした副作用・リスク・予後や苦痛についての見込を全て告げるのは、患者さんへ精神的重圧をかけ「知らされ過ぎの弊害」がおこります。患者さんへの情報提供範囲をどの程度に抑えるのが適当か?医師の裁量権と合わせて考慮しなくてはいけないところです。

 またICでは患者の自己決定権が強調される事もありますが、果たして患者さんに治療方針を正しく決められる能力がどれだけあるのかという問題があります。

 医師の判断の方が適切な場合の方が多いのではないでしょうか?医師が患者の年令・生活状況・価値観・人生観・考え方を見極めながら、さらには家族の支援などあらゆる立場を汲み取って、いろんな選択肢をその患者さんに見合う順番に提示し、このようなコミュニケーションプロセスを通じてお互いの納得のいく医療方針を決定していくのが理想的だと考えます。

 十分な説明・納得の上で、場合によっては「医師の判断にお任せします。」というのも一種の患者の自己決定権とも言えます。ですから私は、医師主導あるいは誘導の過程で医療方針を説明しながら、患者さんの理解・納得をその都度確認していき、同意を積み重ねていくのが原則だと思います。

 医師が患者に一方的に責任を押し付けるだけでは理想の医療からは外れていきますが、パターナリズムの良いところはそのまま生かしていき、いきすぎたパターナリズムの抑制手段としてのICを考慮しなくてはいけないと考えます。

 どんなにICを極めても、医師の専門医学知識を患者が全て完全に理解・修得するのは不可能です。また医療は万能ではなくて、限界・敗北のケースもあります。医師も患者も、医療を通じて病気の意味を考えることができます。さらには心の触れあえる魂修業の場を与えていただいているのです。患者は自分の半生を振り返る反省の機会を得られます。

 この世の人生でたとえ病気で苦しむ事が多くても、このような達観の中で医療に関われば、今生で医師も患者もお互いに珠玉の学びを得ることができると信じます。

(つづく)

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 NO.6 インフォームドコンセント その4 2001.9.1

(注:IC-インフォームドコンセントとは、医療情報を医療者が患者さんに説明し同意を得ながら医療方針を決めて進めていく事)

 医療の現場におけるインフォームド・コンセントの必要性について意見を述べたいと思います。

 私は基本的に、医師-患者の確固たる信頼関係が既にできていればICは不要な場合が多いと考えます。しかし『いきすぎたパターナリズムの抑制手段としてのICを考慮』は大切な心がけです。またそれ以外にも次に示す医療における局面では ICが必要な場合があるとの考えを示します。

<ICの必要性>

1)詳しい説明を求めてくる患者

 多少の医療事情に通じ知的好奇心が旺盛な患者さんがおられます。ある程度の説明を受けて納得しないと満足いく医療は受けれないという信念があるタイプの人です。

 このようなタイプの患者さんにはパターナリズムを発揮して接するだけでは満足されません。信頼関係構築の手段としてのICを重視される患者さん側の要望があるので、それに見合った対応が必要です。

 まず医療者がこのようなタイプの患者さんだと見抜ける眼力が要請されます。『応病施薬』という医者の心構えがありますが、患者さんの気質に合わせた言葉・説明の仕方があると思います。

2)新薬の治検

 まだ厚生省が認可していない薬物を使用する時も、当然患者さんへの十分な説明と同意が必要です。

 日本では諸外国に比べて疫学的大規模介入治検が少ないのも日本の医療社会に根強いパターナリズムの影響があるのではないかと推測します。すばらしい新薬の開発は医学の進歩のためにも不可欠で無視できません。そしてどんな良薬も患者さんのこの治検から始まり、そのデータの蓄積で、有効性や副作用などの安全性が確立していった経緯があり、大きな遺産です。

 この場合の医師が患者に行うICは医療上のエチケットであり、協力していただける患者さんへの感謝・誠意の現れです。

3)高度医療に伴う医療手段の多様化とQOL(生活の質)

 以前は患者さんの病態が判明すれば治療方法も限られていたので、その患者さんにとって最適な検査・治療プロセスを計画するのは容易な事で、パターナリズムを発揮して医師の裁量で医療を押し進める事も可能でした。

 ところが最近の医療は検査方法・検査の侵襲程度が多様化し、治療方法も専門化し、さらにはその治療効果は病気を治すに止まらず患者さんの生活の質(QOL)をいかに向上させるかという観点で、患者さんのニーズにあった治療法を選択してもらうという必要性が生じてきました。

 患者さんの価値観・人生観に合わせた医療、さらには利便性・家族背景や社会の支援・介護に合わせた医療、患者さんの自由度・満足度を満たすための医療、そしてより高い健康をめざして質の高い幸福感を享受するためには、患者さんの意向・趣向を聞きながら適切と思われる医療メニューを提示し、説明と同意を重ねていく方が理にかなっていると思います。

 例を挙げてみましょう。

 昔は透析がなく腎不全に陥った場合に助かる方法がなかったので、お決まりの腎不全保存療法をすれば良くて、細々としたICは不要でした。ところが最近は腎機能が廃絶しても血液透析で生き長らえる事ができるようになりました。

 そして午前中透析・午後からの透析・夜間透析などの透析時間を患者自らで選択でき、それを決めるためにもICが必要です。さらには腹膜透析・夜間持続腹膜透析・肉親間生体腎移植などそれぞれ一長一短の特徴を持った医療メニューがあります。

 医療施行側としては、大体この方法が良いだろうという目安はありますが、どの医療方法でも構わない所もあり、医師の独断だけでは決められません。各メニュー内容の長所・短所を患者さんやその家族に説明して、納得してもらい選択・同意してもらう必要があります。

 喩えて言うならば品数の少ない定食屋さんでは注文は決まっているので詳しい説明は不要ですが、メニュー豊富な高級レストランでは一品一品の内容を説明して、顧客が自由に選べるこだわりの注文をして、時には塩加減の要望までしていく方が、料理人も腕を磨け創意工夫できる題材が与えられるし、双方の満足度は高く、結果的に信頼感も強くなります。

 医療の進歩と共に今後も施療選択肢が広がっていくにつれ、このような局面が高度医療の現場では増えてくると思われます。

4)医療の限界

 どんなに最高度の医療を施したとしても不治の病の前での医療に限界はあります。一般的には「医者がさじを投げた」と言われる状況です。

 例えば余命3ヶ月と診断された末期・終末期医療の患者を想定してみます。

 主治医はできるだけ延命できるための医療メニューを組んで入院加療を考えていますが、患者は家に戻っての在宅医療を希望している可能性もあります。あるいはホスピス専門病院への転院を家族が希望している可能性もあります。

 ところが在宅医療だと家族の負担も大きく迷惑をかけるという配慮に加え、いままでお世話になった主治医の先生の医療主義に反する方法を意見できない遠慮から、患者本人が希望を言えず、やむなく入院加療にあまんじているケースもあります。患者さんにとっての最良の医療を検討するために、ここに患者・家族の意向を聞いて対応していく余地があります。

 QOLと通じるところもありますが、もしも医療側からこのようなニーズの可能性も考慮して患者あるいは家族への説明と同意がなされれば、このような悲劇は避けられるかもしれないのです。患者さんの人生観・死生観などの価値観の違いによって対応は様々です。

 医療者の中には3)と4)の場合は自分にはありえないと思い込んでおられる方がいるかもしれません。しかし想像以上に患者さんは医者に自分の希望を言いにくいという遠慮があり、これは医療者側からの問いかけ発動がないかぎり、実態は表面化しません。

 もしかしたら患者さんが黙って我慢しているばかりなので、医療者側は気づかないで最良の医療を提供していると自己満足しているだけなのかもしれません。私は特に3)と4)の場合のICがこれからの医療では大切だと思います。

 ICが医師-患者の信頼関係を安易に構築するためだけの手段だという発想はもう捨てても良いでしょう。これからの医療の繁栄のためには、患者さんの要望を考慮した上でのサービスという側面を重視する必要があると思います。『患者』であると同時に『顧客』であるという視点での対応も医療経営の発展のためにも不可欠です。『顧客』サービスを補強するためにも、ICは質の高い医療構築に欠かせない手段だと考えます。

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 NO.7 より良いICをめざして その1 2001.10.1

(注:IC-インフォームドコンセントとは、医療情報を医療者が患者さんに説明し同意を得ながら医療方針を決めて進めていく事)

 ICの定義である「患者自身の意思による決定を最大限に尊重する」ということと、医学的素人である患者を医師が専門家として責任を持って導くという正しいパターナリズムとどう折り合わせるかという問題があります。

 まず、医師が患者さんへの検査や治療などの医療方針を決める上での判断要素としておおまかに次のような項目があると思います。

1)病的な身体・心理面の現在の状態把握

 <身体>本人の訴えと検査結果(客観的指標)などからわかる病態と重症度、器質的病変の評価、今までの治療に伴う病態変化 など。

 <心理>病状に対する心配、不安、受容、ストレスとその適応状況 など。

2)臨床研究結果

 同様の疾病に対する治療成績、医学書・文献による学問的情報、疫学的臨床研究から証明された医療 など(これに関しては最近はEBM=evidence based medicineが重要視されています。後述。)。

3)検査・治療に伴って期待される効果とリスクと苦痛

 侵襲の大きい検査、効果も期待できるが副作用も無視できない治療 など。

4)人間的特性

 生きがい、価値観、人生観、死生観、宗教観、患者さんの性格・病識と闘病に向けての基本的姿勢 など。

5)社会的背景

 本人の生活環境・経済状況、職場での役割、家族や知人の支援状況 など。

 臨床医は本来はこれらの項目を十分に把握して医療を進めていくのが理想です。

 1)2)3)は特に専門的なので医師が責任を持ってパターナリズムを発揮させるのが通常です。ただし2)については、患者さんにとっては時に苦痛を伴い関心の高い所なので、ある程度のICを希望する人は多いと思います。特に副作用・リスクに関しては、患者さんになるべく不安を与えない程度に、マイナス思考を植え付けるきっかけにならないような細心の配慮が必要です。

 この時に医師自身が説明の過程でマイナス思考に陥り、極端な不幸な転機を想定して訴訟問題にまで考えが至るようであれば、自己保身のためのICとなるので好ましくありません。ここが『ICの目的が必ずしも患者さんの利益のためだけではなく、医者の利益、つまり責任逃れのためになっている問題。』に該当する所だと思います。

 4)5)については本当は最初の問診時に十分に把握しておくのが理想的ですが、1回だけの問診での把握は困難で、毎回の診療を重ねた上での患者さんとのコミュニケーションを通して、理解しつくしていくべきでしょう。

 問診という形式、あるいはある程度医療方針の見通しがたっている場合は誘導的なICで対応する場合もあり、その時に4)5)の状況の再確認を繰り返す事もあるでしょう。

 患者さんの特性や意向状況が理解不充分な場合は、問診にとどまらずICを駆使して患者さんに納得のいく医療方法を医師主導で模索する場合もあるでしょう。

 すでに長いつきあいで患者さんの特性や社会的背景を知り尽くしている医師の場合なら、その時点でパターナリズムを発揮して良い場合もあるでしょう。

 医師自身が以上5つの項目をまとめて打ち出した医療方針を、患者さんの要望や理解度に応じて披露する事もあるでしょう。どこまでICを活用して医療を遂行していくかは、臨機応変に医師の裁量にまかされていると思います。


 患者さんにとっての最良の医療を選択し推し進めるために慈悲の心を持ってその誠意を伝える手段のひとつとしてICを活用するのは巧の部分です。ところが医療に伴う不測の不幸な事態やリスクを強調して行われるICはつきつめていけば暗黒思想の拡大につながり、患者さんのための慈悲の医療にはならない罪の部分です。


 最近EBM(evidence based medicine)という大規模介入臨床試験による疫学的データーの集積を基底に置いた学問的根拠を示した上での医療が注目されています。

 これは、従来からの医療内容が「一般的に昔からこのような形式で行われている。」という慣例重視や経験重視の我流医療に甘んじている医師が特に日本では(アメリカに比べても)多いという実態がありました。学閥の違いで大学病院の間でも臨床成績の格差があった事からも証明されています。**大学方式という事でなかなか統一できなくて、臨床研究実績結果を学会で発表しながら派を競い合った時代がありました。

 そこで、標準化の遅れた医療を改善して学問的根拠を復興させようという流れの中で、このEBMや第3者機関による医療評価の必要性を唱える声が医療者内からも沸き上がり始めています。

 EBMについて具体例を挙げてみましょう。

 高脂血症の患者さんに抗高脂血症剤の投薬をするとしましょう。従来は「高脂血症だと動脈硬化が進んで心筋梗塞になる危険があるので内服しましょう。」というICの仕方が一般的だったのですが、EBMを基底に置けば「あなたと同じような高脂血症の患者さんにこの薬の投薬を続けた場合、心筋梗塞の発生率が30%抑制されたという疫学的証明がなされているので内服しましょう。」というICの仕方がなされるので患者さんの納得・信頼度はより高いわけです。このような詳しい説明は患者さんから求められた時だけでも良いかもしれません。

 このような根拠となる知識・情報を医療者がいつもストックしていて、自分の医療行為の根拠をカルテに記載明記しておけば、患者に細々とした説明はしなくて、万が一裁判になったとしても大丈夫でしょう。

 また最近はカルテ開示の是非も問題になっています。本人の要望で見せたカルテにこのようなEBM内容が記載されていれば信頼関係は強くなります。EBMをとりいれた智慧あるICは、患者さんの医療不信の解消・不安や不満の軽減に寄与すると考えます。

 医師は高度な学問の集積と患者理解への智慧を高める研鑽努力義務があり、その智慧でもって慈悲の医療を発揮していくという使命感が要ります。

 一般医療の場合は上記の通りですが、医学の進歩のための治検、あるいは先進医療の場では現時点での最良の医療方針であろうという見込はあっても確信はなくEBMを示せられる学問的集積はないので、可能性のあるリスクも十分に提示して患者さん自身の意志決定権を最大限に尊重する姿勢が求められます。

(つづく)

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 NO.8 より良いICをめざして その2 2001.11.3

(注:IC-インフォームドコンセントとは、医療情報を医療者が患者さんに説明し同意を得ながら医療方針を決めて進めていく事)

 また、今まで主流の西洋医学が病んだ臓器や細胞に対する分析的手法中心のキュァ(cure=治癒的医療行為)だったのに対して、各患者さん固有のQOL(quality of life=いのちの質)を高めるためのケア(care=援助的医療行為)も考慮するのが新しい医療の流れだと感じます。

 このような見方はむしろ東洋医学の方が進んでいるように思います。患者さんの誤った思いこみで間違った方向へ行かないかの舵取りも当然医療者には必要ですが、ケアには患者さんの自律性に従った医療が基本概念です。

 ケアは、病にかかった人間の身体・心を含めた全体を診ようとする医療だとも言えます。
 ケア医療では医師−患者関係は相互主体・相互参加型となり、医師、看護婦、保健婦などの医療者だけに留まらず、薬剤師、介護師、家族、友人に加えて患者本人にまで及びます。そして究極の目的は患者自身によるセルフケアを高める事にあります。

 在宅酸素療法や腹膜透析などは患者さんのセルフケアの資質が要ります。臨床の現場でもケア医療導入が好ましい局面は幅広く多様にあります。特に癌性疼痛患者さんの管理・慢性疾患管理などの予防医学の領域で重要です。ですから、特にケア医療を充実していく過程ではICは無視できません。

 ケアは医療者という人間が患者という人間に向けて行なう慈悲の医療であり、患者個別にも方法は異なり奥深くより高度な智慧を要する医療でもあります。この2つの医療姿勢はどちらも大切なもので、その融合が望まれます。

 私は『キュァとケア』の関係は、仏教における『識と般若』の関係とも類似・対応しているようにも思います。医療者の悟りが高くて眼力があればICは簡単で支障ない場合もあるかもしれませんが、医療者も凡夫であり、ICを活用して高度なケア医療を考えるのも通常の修業者の姿でしょう。

 ICが強調されていきすぎた場合は、患者さんのわがままな自分本位な希望に医療者がふりまわされ不本意で安易な方向に流されてしまう危険もあります。基本的に医療は医師主導で方針決定されるのが原則だと思いますが、以上示したような複雑な要素がいろいろ絡んでいるので、うまくICを取り入れてより良い医療を目指したいものです。


 今回のテーマを総括して考えた場合、医療者も患者も『自由と平等の権利』意識から『智慧と慈悲を発揮する義務』意識への価値観転換の必要性を感じます。それがこれからの時代のトレンドだと思います。

 医療者にとって医療における『自由と平等の権利』が『智慧と慈悲を発揮する義務』に転換すれば、「自分の都合を優先させてやりやすい形式で押し進めるおごり高ぶった医療者」「医療技術・研究実績の研鑚にしか関心のない自己中心の医療者」「患者さんの意見や要望を無視して、医療者側ペースのパターナリズムを発揮させるためだけの医療」「訴えや疾患病名が決まれば、画一化したワンパターンの施療にあまんじていたぬるま湯医療」だったのが

 「ICを駆使し患者さんの要望や立場を理解・参考にして、患者さんのために高度な医療知識をどのように適応させていくのが良いかを常々探究していく医療者」「患者さんへの抜苦与楽などの訴えを中心に考えICを駆使し、患者さんのための医療を追求し、病態に応じた検査・施薬を考える医療者」にまで変わります。


 患者さんにとって医療における『自由と平等の権利』が『智慧と慈悲を発揮する義務』に転換すれば、「素人認識や好き嫌いで医療関係者にわがままを言ってかきまわし、医療者の忠告に素直に従わず、ドクターショッピングをくりかえす患者」「病態に応じた施療の違いの意味がわからず他の患者と比較して不平等感覚が強くなったり、なるべく高度医療を享受したいという権利意識が強くなる患者」「医療過誤の被害者意識が強くなり、担当医師を責めさいなみ、医療への不平・不満が強くなり不信に陥る患者」だったのが


 「医療者の忠告の意味をきちんと理解でき自己管理の智慧を貯えられる患者、時には医療者の行なうICへの前向きな参加姿勢を有し信頼に足る良き医療者を察知・選別でき、上手な病院のかかり方を心得た賢い患者」「現状の施療に感謝して、時にはICへの前向きな受容姿勢を貫き医学の進歩のための治検としての貢献を惜しまない患者」「たとえ医療が空しく不幸な転機をとったとしても、誠心誠意に施していただいた医療者を許せて感謝できる患者」に変わります。


 医療者-患者間の相互信頼を前提にして上記価値観転換の教えが現場の医療者や患者さん各人の心の中へと浸透していった時に、理想の医療へと進歩していけるのではないかと感じています。

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