生活人コラム



 INO.VOL.9 教育問題に関する論考

 [執筆者]
 井上 透
 [紹 介]
 ブリヂストン健康管理センター勤務の産業医。大学講師。医学博士。
 企業の健康管理センタ−に所属して、社員の肉体的および精神的な方面まで含めた総合的な健康管理の仕事をされています。



 NO.1 教育問題に関する論考 その1 2002.6.28

 小学生の息子から聞いた話です。

 『音楽教材の太鼓の鉢が折れているのが発覚し、先生が犯人は名乗り出るように言ったのだけれど、誰も言ってこなかったので 連帯責任でクラス全員が1時間の居残りを命ぜられた。』そうです。また『修学旅行中にお菓子を食べてはいけない時間に一生徒が食べているのが見つかり、担任先生から今回の旅行中は全員がお菓子は禁止を命ぜられた。』こともありました。

 子供は納得がいかない様子でした。これはおかしいと感じながらも、大人相手に反論できる立場にもありません。このエピソードの根底に流れる学校教育の基本姿勢について疑問を感じました。このような先生に注意・勧告できるのは父兄ですが、その場に居合わせられないのや子供への評価が低下したりいじめにあうのではないかとの心配から言い出しにくいところもあります。

 この担任の先生の強調される「連帯責任」とは果たして正当なものでしょうか?

 これは日本社会全般に言えることですが、何か問題が起きた時にその責任をすぐに制度やシステムや管理監督者などの集団組織に転嫁しようという傾向が強いように思います。何となく個人の責任を深く追求しにくい雰囲気があり、誰かの失敗を周囲の者でかばい合うのが美点だと思い込んでいるのでしょうか?

 しかし自分自身の問題点を直視して探究しない限り、その生徒の人格矯正と向上は見込めないし、問題解決にはなりません。このまま無反省・無責任のままで放置され、全員に責任転嫁されたことで、過ちを犯した本人の罪意識が薄れていく場合もあるのではないかと危惧しています。「このような事態になって、クラス全員に迷惑をかけて申し訳ない。」となれば良いのですが、問題児の場合は「責任を追求されずもうけた。」と言って舌を出しているのが現実ではないでしょうか。


 もうひとつの問題背景として平等主義の礼讃があります。ところが、努力した人もしない人も同様に扱われる結果平等では、優秀な人はやる気が失せてしまいます。これは悪平等です。

 日本社会の各所には努力・創意工夫してがんばった優秀で誠実な個人もいたはずですが、そのような個人にはスポットライトは当たらずに、全員の総力やシステムによる成功としかみなされない風潮があります。これでは、本人が自分の特異な個性を発揮して大きな仕事をしていこうという意欲も薄れてきます。

 組織の大きな成功もその原点へとたどっていくと、必ず数多くの個人の熱意があったはずなのです。その努力が結晶化して組織やシステムに変化がおこり一定の期間はそれで次の時代が動いていきます。そしてそのシステムが膠着しうまくいかなくなると、革新がおきてまた個人が注目されてくるのです。ある意味で歴史はこれの繰り返しです。

 現代のようなシステム疲労をおこした激動の変革期こそ、未来に向けて大胆に提言・行動できる個人が重要になってくると感じます。


 今の教育制度がうまくいかないことのひとつに、熱心な先生が少なくなり魅力溢れる授業も減り、そのために学ぶことに志を持てる学生が減ってきたところもあると感じます。公立小学校の授業参観でも、緊張感が希薄で内容の魅力の乏しさにがっかりしました。塾の先生の説明会や有名私立中学の親子体験授業に比べても雲泥の差です。

 公立小学校の先生の教育意欲の低下と創意工夫の欠如が問題点のひとつだと感じます。登校拒否の学生の第1の理由は「いじめ」ではなくて「先生が嫌い」なのだそうです。塾や私立の先生には定期的な評価システムが常にあり、実力に伴った給与の増減もあり、能力主義が浸透しています。学生の評判が悪いと即クビになります。

 一方で、公立学校の先生は外部からの評価されるような刺激もなくて、教え方が下手だからといって給与が減る訳でもありませんし、不人気で辞めさせられるということはありません。よほど自らを律していこうという心がけがないかぎり安直に流れていきます。いくら文部科学省が改革を打ち出しても、公立学校の現場の教育関係者の「公務員特権」をなくして競争原理を導入しない限り徒労に終わるでしょう。

 将来は資本主義の競争社会での活躍を期待されている学生達に向けて、社会主義体制のぬるま湯にどっぷりと浸り切った覇気のない教師達が教鞭を振るうことにとても矛盾を感じます。自助努力の大切さを説く学校の先生が少なくなったのもこのへんにありそうです。

 私は全般的に公立小学校の先生よりも、私立学校や塾の先生の方が真の意味で教育熱心だと思います。現在有名進学校に入学できる生徒はほぼ100%が塾あるいは家庭教師システムを活用しています。つまり公立学校の教育だけでは優秀な修学は不可能だということを意味しています。

 「公立学校は集団生活を学ぶところだ。」という意見も聞いた事がありますが、それなら大切な基礎学力の教育は家庭や塾に任せるというつもりなのでしょうか?それが本当に公教育のあるべき姿なのでしょうか?最近は学校の先生よりも塾の先生の方が尊敬できるという学生が増えています。もしかしたら日本の将来を背負っているのは塾の先生かもしれません。情けないことです。

 熱心な教育者や未来に向けての斬新な思想の唱道者とも言うべき方にもっと個人としての光を当てることが、現代日本の変革に必要です。時間はかかりますが次世代の繁栄社会の鍵となると信じます。

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 NO.2 教育問題に関する論考 その2 2002.8.1

 受験の合格定員には一定の枠があり、誰かが合格すれば誰かが不合格になるのが現実問題としてありますが、だからと言って、社会に出ても幸福の量は限られているという『パイの取り合い型思考』に陥らないように警告する教育も必要だと思います。

 「10人いるところにパイを8つに切って8人が一切れずつ取って食べたけれど、あとの2人にはパイが行き渡らなかった。これはけしからん。」という考え方です。しかしそのような時は、皆で新しいパイを見つけたり新しいパイを焼く事で叱咤激励しながらその2人が満足いく方向で模索・助力し、さらに本人が努力することです。

 幸福への道は無限にあります。ひとつの扉が閉じれば、別の扉が開くので、あきらめず根気強く次の道を探すことです。失敗をバネとして頑張りなさいというやや厳しい励ましが後々その子供のためになるのです。

 「自分の求める幸福がすべての人々の幸福につながるように」「自分の成功によって多くの人々にパイを食べてもらえますように」という願いを持って、子供は教育を受けるべきなのです。

 ここ10年の教育制度の改革として文部省は「ゆとり教育」なるものを提示して、システムを変える事に熱心でした。もともとは高校生以下の教育水準は高いという国際評価でしたが、最近、他国に比べて日本人の子供の学力低下が明らかになってきて、やっと一部でははこのままではいけないと焦りの声も聞かれ始めました。


 「ゆとり教育」なる制度は発展途上国で見受けられます。外国の諺に「地獄への道は善意で鋪装されている」というのがあります。善意で鋪装された道を歩くといつのまにか地獄に行ってしまうということです。競争のない青少年時代を過ごす事で、次世代の国家は外国との競争に負けて衰退の憂き目にあいます。

 天国への道とはいばらを切り開いて岩や崖を登っていく困難な道なのです。「勉強しなくてゆったりした楽しい人生を送ればいいんだよ。」という指導をすればあとで必ず厳しいツケが回ってきます。長期不況時代となり、加速する少子高齢化時代だからこそ、これからは若者ひとりあたりの国を支える責任分担が大きくなります。だからなおさら子供へ教育投資、特にリーダーとしての器作り教育の重要性を感じます。


 1990年代前半までの日本の成長はそれ以前の学校教育の貯蓄のおかげでしょう。しかしこの10年ぐらいの間の教育現場の荒廃に伴う基礎学力の低下が、これからの未来に向けての心配の種です。子供たちには「学問で身を立てなさい。学問は人格を変化・向上させ、社会に有用な人材を増やし、世の中の富みを増やす原動力なのだよ。」ともっと学問の有用性を強調するべきではないかと思うのです。

 国公立大学では多くの人の税金と親からもらった学費で勉強させていただいています。また私立大学でも私学助成金などの税金と親の経済力の恩恵を受けているのです。だからこそ卒業すればそのお返しの人生を歩まなくてはいけないのだという義務感を胸に刻んで社会に飛び立っていただきたいものです。

 つまり「勉強をして良い成績をとって、良い大学に入れたから偉い。」ということではなくて、「良い成績で良い大学に行けば社会的に成功しやすい道が開かれる可能性が高まるけれど、同時にその人はリーダーとしての大きな責任を背負っているので 世の中の多くの人々へのお役に立てる人生を歩んでいかないといけないのだよ。」ということです。

 成功した人は社会に還元する責務を負っているのだという騎士道精神を伝授したいものです。そうすることで貧しい人の嫉妬ややっかみは鳴り止み、社会全体の幸福感が高まるのです。


 実用の学問としての語学や計算の教育などの基礎学力を軽視してはいけません。これは生活の基盤として重要なのはもちろんの事ですし、より高次な学問を修めるための手段としても必要不可欠なものです。

 もちろん学生時代の実用の学だけで道を極めた気になるようでは、まだまだ甘いのはわかりきったことですが、実用の学問を社会生活の営みの中ででどれだけ生かしきるかということが課題なのです。他人との関係や既存社会の矛盾とぶつかりながら少しずつ自己発揮していく事、このような実践を通して教訓を重ね培っていかない限り本物の智恵は得られません。

 教育の本質は一生涯続いていく真理の探究です。その道に終わりはありません。「本当の正しさとは何か?」を探求していくことが学問の究極の目標なのです。世界の仕組みや法則・人間の生きる道としての正しさの探求も含まれます。この真理の核にあたる部分として、本来は道徳や宗教的思想や哲学があったのです。そしてその奥底には人類や動植物や地球を育む神仏の心があると私は信じます。

 敗戦後の日本神道思想の教育現場からの排斥運動はやむを得ないところもあったと思いますが、それに伴い、道徳や宗教的思想や哲学思想をすべてを排除していった反動が現代社会の混乱を招いているように思います。

 教師は単なるサラリーマンであってはならず、聖職だという自覚を持っていただきたいものです。教師が崇高なもののために社会に奉仕していきましょうという人生観を披露し、さらに高度な価値観を一緒に学んでいきましょうという情熱をかもし出す事で子供達は感化されて、子供達からの尊敬を受けられるようになります。このような教師の姿勢と雰囲気こそが少年の非行や犯罪を止めさせる大きな力になっていくのだと信じます。

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