地域人コラム



 KAI.VOL.1 五感で楽しむ

 [執筆者]
 甲斐真后
 [紹 介]
 宮崎県椎葉村役場勤務。
 ひえつき節や平家の里として有名な宮崎県の椎葉村で、いろいろな地域おこしの活動をされており、神楽をはじめとした民俗芸能の研究家でもあります。



 NO.1 旅について 96.6.24

 小鳥の歌声で目覚め、花を愛で、草木の芳香を楽しみ、旬を味わい、人の温もりに触れてやすらぐ。そんな当たり前のごく普通の日々の営みをいつの間にかどこかに忘れてしまった私達ですが、それも世間の荒波を乗り切るには、しかたがないことかも知れません。
 しかし、世相に呑まれっ放しではちょっと寂しい気がしますし、何だかしゃくだとは思いませんか。それとも、もうそんな生活に馴れてしまって「五感」なんて忘れてしまっちゃいましたか。

 そうなんです。「五感」なんてどこかに飛んでいってしまったらしいのです。そんなもの感じなくなって久しいのですが、反面どこかでそれを求めていることも否めないんです。
 聴覚・視覚・嗅覚・味覚・触覚が「五感」だったかな。間違っていたら教えてください。意外と多くの方が「五感」を自覚していらっしゃらないのではないでしょうか。

 リフレッシュをはかることが現代社会になくてはならない生活行動の一つであるとして、あなたは、ご自分の人間性を回復するためにどんな方法を選んでいますか。
 ストレスが、私達の日常生活に少なからず良くない影響を与えていることは、みなさんが良くご存じのことです。そのストレス解消に大切な役割を果たすのがリフレッシュかな。
 人間性を回復するにはどのようにしたら最も効果的なのでしょうか。それは、「五感」を呼び戻すことではないでしょうか。

 それでは、「五感」を呼び戻すにはどうしたらいいのでしょうか。小鳥の歌声で目覚めるには、小鳥の歌声が聞こえてくる状況を創造するか、そんな状況に遭遇するようにすればいいのです。
 花を愛でたり、草や木の香りを楽しむには、花や草木の多いところへ出かけるか、家庭の周りに花壇をつくり植栽に心がければいいでしょう。
 旬を味わうには、旬を感じることが大切です。
 物に直接触ることも大切です。自分の手で、直接、物に触れ、持ち上げ、その重さや硬さを確かめる。そんな何気ない仕草があなたの「五感」を呼び戻すことになるでしょう。

 手っ取り早くこんなことを実現しようと思えば、行動することです。海や野や山に向かって駆け出すことです。そう「旅」です。ただ、あなただけの旅であることが大切です。
 そのあなただけの旅をお手伝いしましょう。といっても何も特別なことをするわけではありません。ただ、ちょっとしたお節介をさせて頂きます。

 「旅」といえば旅行。しかも団体旅行。その先には、観光旅行が存在し、それも物見遊山と決まりきった感がします。最近は、海外旅行にも日本型団体旅行が導入されている有り様です。
 友人におもしろい人がいまして、南米諸国をひとり旅。それも、ブラジルをベースに月か年単位で滞在し、周辺の国々を巡り勝手気ままに楽しんでいます。世界の人々との交流があり、手作りの日本料理が好評だったとか。一昨年、旅先で知り合ったフランス人に誘われて彼女の家を訪ね、一週間滞在したそうですが、普通の旅行では味わえないフランスの普段着を見てきたとのことでした。
 昨年は、再びブラジルに渡り、この春、妹の結婚のため帰国し、現在、三度目をめざして充電中です。ちなみにこの友人、女性。資産なし。年収?普通の看護婦さんなんですからして・・・。

 物見遊山の旅行から「五感」が活きるようなそんな旅行を贈りたい。旅の先には「ふるさと」があり、あなただけの世界がある。そんな旅を贈りたい。そしてその旅人を迎えて送るこころを育てたい。そんな温もりのあるふるさとを創造し、それが地域おこしになればいい。

 とある田舎の入り口にあったとさ。「訪ね来る者にやすらぎを。去りゆく者に幸せを」。

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 NO.2 夏風味「枝豆君」 96.7.31

 暑い夏の日、夕暮れ時ともなると大きなビールジョッキの群がいくつも揺れる。豪快に一気に飲み干され、次々と運ばれるビールジョッキ。テーブルの上には、枝豆の皿の山。
 そこには、一日の疲れをいやす世界が広がる。

 枝豆といえばおもしろい話しがある。昨夏のことだが訪れた知人を迎えた時のことである。もてなしのメニューは、鹿肉のシャーベットに猪肉のバーベキュー。胡瓜の酢もみに竹の子の和物。漬物。青菜のお浸しにえのは(山女)のせごしと、地どれの品を用意した。
 地どれじぁないが、メニューには新鮮な枝豆も添えられた。この枝豆の皿を取っ替え引っ替えパクパク、ムシャムシャ、時折クビー。その豪快な食べっぷり、飲みっぷりには、同席のみんなが、唖然。知人は、「ん・・・。どうしたの。」とパクパク、ムシャムシャ。
 「枝豆、そんなに美味しいかい。」「旨いす。美味しいです。」答える間もパクパク、ムシャムシャ。「うちでは、めったにこんな旨い枝豆は、わたりませんよ。」「こんな新鮮な生ものの豆なんかないすよ。」「冷凍品なんですかねえ。スカスカして硬いし、美味しくありません。料亭にでも行けば別でしょうが、庶民にはねえ。」
 料亭で枝豆でもあるまいと思うのだが、本人は一向に気にせず。旨そうにパクパク、ムシャムシャ、グビー。
 せっかく用意した地どれのメニューには目もくれず、ただひたすらに枝豆オンリー。いやぁ〜参った参った。早速ついた彼のニックネームが「枝豆君」。

 枝豆君のおかげで思わず考えさせられてしまった。地どれの素材がどんなに素晴らしく自慢に耐え得るものであっても、使う人のニーズに合わなければ価値のないただの素材でしかないということである。
 枝豆が彼にとっては、料亭のメニュー並に美味しかったに違いない。その味わいが感動を呼ぶほどの味わいであったことに注目したい。

 食べ物の味わいは、場所や季節、気候や温度、景色や雰囲気などで随分と変わる。どんなに自慢の一品であってもその使い方を誤ったらその価値を失ってしまう。料理が旬や素材を如何に大切にしてきたかが分かる。

 一年中、食べられないものはほとんどない。食の世界から旬が消えてしまって久しい。日本中どこに行っても同じものが味わえる。会席料理など金太郎飴みたいになってしまった感がしてならない。こだわりの店などごく一部だ。庶民からは遠い存在になってしまった。
 むらおこしや特産品にも同じことが言える。素材が同じなら似たりよったりだ。どこがむらおこしか、特産品かといいたくなる。
 特産品を手がけたくなったら大手デパートや大手スーパーなど量販店の食品売り場に行ってみるに限る。飽食の世界が展開する現実に触れるべきだ。見かけも味も品質もみな一流だ。そうでなければ生き残れない。そんな現実を実感することが大切だ。それで自信が持てるなら覚悟を決めて挑戦することだ。

 枝豆君に伝えたい。今夏も訪ねていらっしゃい。ひと味違う山料理。楽しんでもらおうじゃないの。夏風味。えのは(山女)のせごしに紫蘇、胡瓜、茄子を加えた酢揉みの一品。

 涼感漂う渓流に「えのは」を求めて川遊び・・・と・・・。

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 NO.3 民謡雑感 96.9.1

 √ 秋のもみじと十九の花が
     ホーイヤレ 十九の花が
   散らせともない
     ヤーホイ ヤイヤ 山かげに ホーイ


 秋節の一節である。秋節は、秋にしか唄えないものとされている。そのためか、伝承者が限られている。独特の節回しのため難しい民謡の一つである。

 季節感あふれる山の民謡。それは、作業歌であり、創作歌であり、恋の唄である。掛け合いがあり、歌垣がある。ほんのり色気をにじませた歌詞、素朴な調べ、繊細な旋律、的を得た憎らしいほどの表現。唄うにつれて調子が良くなるノリ、動作。囃子、拍子取り、合いの手、掛け声。即興創作も可能な謡。民衆の生活に培われ地域に根ざした芸術とでも表現しようか。
 そこには、作曲家も作詞者も存在しない。当然のことながら専属歌手も存在しない。蔑視も格差も差別もない民衆に共有された世界が存在しているだけである。

 民謡には、正調とか、元唄とか、早調とかの言葉ができ、いつの間にか流派が生まれてしまった。その流派の家元みたいな存在が正調何々節というとそれが正調となり、本来の民謡は正調でなくなってしまうという不思議な現象が現れる。本当は、自称正調なのだが、レコードになり、CDになってしまうと、一般的に社会ではそれが正調として認知されてしまうから面白い。日曜日のお昼の「のど自慢大会」といえば、だれでもが知っていることだが、そこから地元では聴いたこともない「正調何々節」が流れてくることがある。実に愉快である。

 ある人が、これは可笑しいぞということで、流派の家元みたいな存在の方に「なぜ、正調なのですか。」と聞いてみたところ、「正調は正調ですよ。地元の民謡は、元唄ですから。」と答えたそうな。なるほどそうなのかと納得したいのだがなぜか納得できなかったそうだ。
 ある著名な民謡研究家が椎葉村を訪れ、地元の「ひえつき節」を聴いた。もちろん初めてのことである。大変興奮して、「えっ、これがひえつき節っ。」と驚いて叫んだ。専門の研究者でも「正調何々節」を信じていたのかなとますます可笑しかったが、この研究家が音楽研究の世界で「正調」の何たるかを熱心に説いて頂いたお陰で地元の「ひえつき節」は、流派の家元みたいな方のいう「元唄」として、本来の正調として証明され、広く全国に認知された。

 毎年9月に椎葉村で「正調ひえつき節日本一大会」が開かれるようになって久しいが、今では、民謡の世界で正調といえば地元の唄いづらい節回しのひえつき節のことだとだれもが認めている。
 この大会、今年も9月7日〜8日の二日間開かれる。会場となる上椎場の街中は、朝から夕方まで「庭の〜。庭の〜。庭の〜。」の声が実に様々な音色で、聞き辛い音色もあるが、響きわたるのである。大会会場に2時間もいようものならまず三日間はその音色が耳から消えないこと請け合いである。

 ひえつき節に限らず数多くの民謡が生きている。山の生活に密着してそこに暮らす人々とともに静かにやさしく生きている。これらの生きた響きに触れるときなぜか魂が微かに震えるのをおぼえる。

 春節は、春に唄う謡とされ、秋節と同じ節回しで唄われる。春には、春らしい響き、秋には、秋らしい想いがあふれている。

 √ 春は花咲く ホーイ
     木萱も芽立つ ホーイ
      立たぬ名も立つ
        ヤイヤ 立てられる ホーイ


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 NO.4 夜神楽 その1. 96.10.1

 数ある民俗芸能の中で最もポピュラーなのが神楽であろう。神楽と言えば神社。神社と言えば神道と考える向きもいる。しかし、神楽伝承の変遷をかじればそうでないことに気づく。
 神楽は、もともと民衆のものであり、その地域のものである。特定宗教の儀式と勘違いされるきらいもあるが、断じてそうではない。民衆の祈りや様々な願い、感謝などの対象として催されたと考えられ、人々の日常生活の中で最も身近な信仰であった神々や仏様が混淆している状態で執行されてきたとする方が自然だろう。

 躍動する舞い、ばちさばき、笛、太鼓の音、そのエネルギーが神楽を通して民衆に伝わり、そこに感動が生まれる。人々は酔いしれ神秘の世界に陶酔する。しばしの間、生活のしがらみを忘れその年の恵みと幸せに感謝する。
 舞いの華麗さや曲の優雅さも神楽の魅力だが、その伝承形態が示す人々の生活、つまり、民俗も大きな魅力である。

 椎葉神楽の伝承は、芸能としての変遷の過程に地域的特色が顕著に示されていることや、廃仏棄釈による唯一神道の影響を受けず神仏混淆の古態のまま伝承されている点が、貴重とされている。このことから国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 神仏混淆とは、山の神や水神さん、農耕神、仏様など様々な信仰の対象が共生している状態を言うが、山村では何も珍しいことではない。

 しかも、26カ所に伝承されていて、そのひとつひとつにそれぞれ特色があり、個々の神楽にそれぞれ民衆の生活と関わりの深い信仰や儀礼が生きているという。例えば、狩猟の儀礼や山の神信仰が、神楽の曲として舞いとして執行されている。
 これらの資料的価値は、神楽に使われる採物や面、供物の外、唱行や書き物の記録などに数多くみられるという。

 神楽が芸能だからと言って何も見せ物にする必要はない。集落でそこの人々が日々の生活に感謝して淡々と執行されていればそれでいい。そこに喜びや楽しみを求めて集う人々がいてもそれはそれで結構だ。ただ、観せる ために本来の伝承形態を崩して欲しくない。観客に媚びる芸能であって欲しくない。
 しかしながら過疎の村で集落で古態のまま伝承することは容易ではない。在郷の村人で維持することなど到底、至難の業に等しい。不可能だ。
 神楽に限らず民俗芸能の活用を考える中で、保存伝承の方法を模索できないものかと思う。

 そんな考えから椎葉神楽を宮崎で公開する「夜神楽ライブin宮崎」を提唱し開催してから今年で4年目を迎える。見せ物にして欲しくないのになぜ。一見矛盾しているようだが、この思いを聞いて欲しい。
 この公演では、集落で執行しているそのままの神楽を披露することが条件となっている。だからオールナイトだ。衣装も道具も全く同じものを使い、内容も絶対変えない。舞台芸能ではないから座席も畳敷きだ。装飾も例祭に準じる。観客に媚びる演出など一切しない。主催は、民間の実行委員会。出演する村人達のために入場料は頂いているが、過去3回は、見事な大赤字、大欠損だ。だが、今年もめげずに開催する。
 12月7日〜8日に開催する。

 見たいと願っても見ることが叶わない都会の人々に神楽を楽しんで貰いたい。そして、山の文化を理解して欲しい。そんな願いが、模索につながらないかと思うのだが・・・・・。

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 NO.5 夜神楽 その2. 96.10.22

 今回は、神楽に関する催しを紹介させていただきます。

「夜神楽ライブin宮崎」

問合せ・前売  マップ 電話0985-27-1888
開 催 日   12月 7日(土)
時   間   18:00開催〜翌朝6:00終演
会   場   宮崎市 MRTmicc
前 売 券   3,300円


 村の民俗芸能や民謡の数々を披露する椎葉村最大のお祭り「椎葉平家まつり」が近づいてきた。
 この祭りは、椎葉村が平家伝説の村として、平家と源氏の壇ノ浦合戦後800年を記念して始まったイベントである。遠く源平時代の姿を偲ぶ時代絵巻が展開される祭りとして好評を頂いておりファンも多い。今年は、国道265線のトンネル開通もあり、例年より多くの観客が訪れるとの期待が大きい。

11月 8日(金) 「鶴富姫法楽祭」「神楽」

 この日は、前夜祭として伝説の姫「鶴富」の法要を想定した厳かな鶴富姫絵巻が国の重要文化財である「鶴富屋敷」の座敷を舞台に展開され、その中で神楽が数曲披露される。
 参加は自由で焼酎なども振る舞われる。例年多くのファンで賑わっている。

11月 9日(土) 源平鶴富姫絵巻武者行列
11月10日(日) 源平鶴富姫絵巻武者行列


 この両日に村の中心、上椎葉街道に祭り最大の呼び物である武者行列が登場する。平家や源氏の武者が当時の姿に扮し、それに伝説の姫が艶やかに華を添えて古の舞台を再現する。

11月 9日(土) 郷土芸能の夕べ

 地元の神楽や民謡だけで構成した感動の世界が展開される。神楽の壮厳な舞、椎葉民謡の数々がたっぷりと堪能できる。民俗芸能の神髄にふれる一時が約束されよう。
 このほかにも特産品の即売や数々の物産展など多彩な催しが街中を会場として展開されており椎葉の秋をたっぷりと堪能できる。

問合わせ・詳細は、椎場村役場企画開発課むらおこし係へ
電話0982-67-3111 FAX0982-67-2825


 このように地元の地域おこしにも活用される神楽であるが、いよいよ夜神楽の季節が到来する。11月中旬から、12月下旬にかけて村内の20数カ所で開催される。
 夜神楽に参加するにはマナーが必要だ。夜神楽の開催費用は、その集落の人々の負担で賄われている。集落以外の村人は、そのことを知っていて奉納として御神酒や数千円のお祝いを持参する。酒食のもてなしもあり礼儀として若干のお祝いを奉納することが常識となっている。

 夜神楽に出掛けるときは、充分な防寒対策を忘れないことが大切だ。注いだビールが凍るほどの寒さもある。
 その前に集落内に不幸があると神楽が執行されない場合があるので、事前に村役場に連絡して確認してみるのが便利である。詳細な日程も役場で教えてくれる。

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 NO.6 夜神楽 その3. 96.12.1

 今、椎葉の山々では、夜になると神楽太鼓が至るところで鳴り響く。夜神楽の例祭は、ほとんど土曜日か日曜日だが、本番前の「ならし」が始まるため毎夜鳴り響くことになる。「ならし」とは、練習のことだが、稽古と言ったほうが適切かもしれない。

 「ならし」は、集落の重要なコミュニケーションの場となっている。神楽の稽古を通じて老若男女の世代間交流や世間話がゆっくりと気楽に進められる。ならし宿は、各戸回しで行われるため、その年の気持ちの行き違いや感情のもつれなどの解消にも役立っている。

 例祭の執行態勢や役割分担などもこの「ならし」の中で決められる。老いも若きもそれぞれ決められた自分の役割を果たさなければ神楽が執行できないことになるため、それぞれが一生懸命になる。このようなシステムを築き上げた先人たちにただただ驚くばかりである。

 椎葉の神楽には狩猟儀礼や山の神信仰が影響していると言われるが、事実、狩猟儀礼の唱えごとや狩猟の様子が見られる曲を伝えているところがある。また、猪の生首や肉を供えるところもある。これは、山村の生活の中で狩猟の獲物が野菜や穀物などの作物と同じように大切な生産物であることを物語っていよう。

 狩猟と言えば、数日前の朝、友人から突然電話があり、猟をやる私の弟に連絡を取りたいという。早速連絡を入れてみた。幸いにして歯痛とかで在宅しており、友人は、弟に会うことができた。最初は、猟犬を見ながら話し込んでいたが、なぜか歯痛が止まったのか今から猟に出ようということになった。午前11時30分。二人は、猟犬4頭を引き連れて勇んで山の中に消えた。昼食もとらずにである。午後1時40分。突然二人は、傷ついた1頭と疲れきった3頭の犬と共に帰ってきた。友人が異常に興奮している。どうも落ちつきがない。傷ついた犬の様子からどうも大きな獲物が獲れたらしい。「兄貴、長靴を履け。一緒についてこい。」という。続いて友人が「とても二人では抱えきれんわい。凄いわ。100キロはあるが。」という。なぜかこちらも興奮してきて、大急ぎで山支度をし、一緒についていくことになった。

 なるほどでかい獲物であった。確かに90キロは越えているのがわかる。軍手をはめ3人がかりで道路まで運ぶことになった。いざ持ち上げてみるとその重いこと。とてもじゃないが一気にと言うわけには行かず、かけ声をかけること数十回、ようやく道路に運び出したときには、3人とも猪と共に座り込んでしまった。

 傷ついた犬君は、脇腹をその鋭い牙で一突きされ小さな穴が空いていたが、獲物を仕留めた満足感からかなぜか落ち着いていた。傷口を覗いた二人の猟師は、「肋骨で止まっとるな。」といいながら安心したように犬の頭を優しくなでた。

 狩猟は、犬の善し悪しで決まるという。猟師にとって猟犬は、一心同体の存在である。どんなにいい獲物が目の前にあっても猟犬の安全が優先する。猟犬が銃の射程距離内にあれば絶対に引き金を引かない。
 猟犬が猪と戦って負傷した時は、猟犬としての誇りや名誉が守られるものであるから仕方がないことだという。しかし、猟銃で傷つけた場合は、猟犬に対して猟師が礼を失したことになり、許されないことだという。
 なかなかいいことではないか。狩猟も儀礼を守れば価値がある。先人たちは、素晴らしい。

 果たしてこの猪の首は、神楽に供えられるか。現在、冷凍保存中である。
(椎葉村の役場のホームページを見る
(椎葉村松尾氏のホームページを見る

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