地域人コラム



 KAI.VOL.3 季節に乗せて

 [執筆者]
 甲斐真后
 [紹 介]
 宮崎県椎葉村役場勤務。
 ひえつき節や平家の里として有名な宮崎県の椎葉村で、いろいろな地域おこしの活動をされており、神楽をはじめとした民俗芸能の研究家でもあります。



 NO.1 山野草 97.4.9

 樹々の若芽が萌え、道端の草木にも春のやさしさが感じられる季節です。静かな風景にもかかわらずなぜか生命の息吹が力強い季節です。

 山々の淡い緑の中の山桜。ゆっくりと土を持ち上げて顔を出す旬。春雷と雨。舞う花香るさわやかな風。豊かになっていく清流のせせらぎ。木陰で奏でる小鳥たちのメロディー。
 人が動き。人が出会い。人が旅立つ。さまざまな感情がさまざまな形で人の心を動かす季節「春」。そんな心の動きをなだめるかのような山野草。

 不思議なもので人は、いる場所が変わると気持ちも変わる。心機一転、改めて物事を始めるには、人が動くことが必須条件なのかも知れない。経営改革では、人心を一新する方法がよくとられる。経営合理化とかリストラとか人員整理とかあまりいい意味では語られないが、経営という概念からすれば重要な意義を持つ。個人の生活という側面から捉えれば、人員整理などナンセンス「ノー。」というのが当然だろう。しかし、経営となればそうすんなり「ノー。」と言うわけにはいかない。

 今、巷では行政改革が叫ばれているが、そういえば行政経営などという言葉を聞いたことがない。行政再建という言葉は政治の舞台でも新聞紙上でもNHKニュースでもよく耳にするが行政経営というのはない。その片方で行政計画という言葉は、聞きたくなくても聞こえてくるという不思議がある。
 これは、裏を返せば、計画はあるが経営はないということだ。そういえば行財政計画というのもある。これが行政経営計画のことか。とにかく行政で経営という言葉が使われるのは、公営企業会計くらいのもので他にあまりない。

 何れにしても計画はあるが経営がないのが行政だとすれば、財政再建も行政改革も納得できる。これまで経営感覚と無縁で公務をこなしていたとすれば、行財政改革などやろうとしてもそれはとても困難に違いない。
 しかし、地域おこしを行うことは、地方自治の実現という目標に向かって進むということだろう。地域に活力を求めるということは、地域自体の足腰が堅固にならなければならないのであって、間違っても大型の公共事業導入などという安易な考えをしないことではないか。
 一時的な景気対策で地方が救えるなら多くの自治体は、豊かで人々が溢れ過疎とか辺地とはおそらく無縁であるに違いない。

 こう考えるとやはりその地域の特性を生かし地域の人々が自助努力する以外に方策はないのかもしれない。その自助努力の方法に何かがあるはずなのだが、それを探し出すのがなかなか難しい。どれだけ多くの人々がこの課題に挑戦し悩んだことか。

 地域人は、雑草のように地中にしっかりと根を張り、周囲をよく見回し、多くの情報を求めて旅し、自分自身に色や味や香りを身につけることが大切だと思う。
 山野草は、そこにあるだけで多くのものを提供してくれる。道端の片隅にあってもそれは同じだ。踏まれても踏まれても力強く生き続ける雑草。山野草も雑草と言えば雑草だ。

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 NO.2 山民の暮らしが体感できる『椎葉民俗芸能博物館』 98.2.5

 昨春、民俗芸能をテーマにしたおそらく全国ではじめての博物館が、椎葉村上椎葉にオープンした。椎葉のみならず広く九州やアジアの民俗芸能を視野に入れた専門研究機関として注目を集めようとしている。

 人々の暮らしの中に意識されることなく自然に存在している様々な信仰や儀礼。わたしたち日本人の多くが忘れ去ろうとしている心そのものかもしれない。神仏や自然への畏敬。感謝。祈り。そして、祖先への供養。
 四季折々に催されるその時々の儀礼や祭礼を山民の暮らしとともに紹介しており、訪れる人々を魅了している。

 地方からの情報発信が叫ばれて喧しいが、どのように情報発信するかが難しい。最先端の技術を駆使してメディアを利用するのもいいが、静かに地味に地道に伝えるのも悪くない。情報の中身にもよるだろうが、打ち上げ花火やヤカンの煮えたぎる湯気のように激しく派手なことが、必ずしも素晴らしいとは限らない。勿論、起爆剤的効果がないとは言わない。むしろ、それはそれで凄い効果があるに違いない。ただ、民衆の地味な暮らしの中に息づく民俗芸能や山の文化などは、それになじまないのではないか。直ぐに消え去る情報発信であっては意味がない。

 この博物館の開館にも例にもれずマスコミ各社が駆けつけた。その中で気になる質問があった。「ここの展示目玉は、何ですか。」そう言われてみると特にない。お宝級のものなど特にこれと言って誰が見て一般的に貨幣価値があるものなど何もない。著名な作者による名品など一つもない。要するに目玉となる展示品など何もないのである。「へぇ〜そんな博物館ってあるんだな〜。」と言われそうである。
 まさにその通りで、記者の皆さんも取材のやりようがなくて大変困惑されていた。博物館とか美術館とか言うとどうしてもそこにお宝級のものがあってその展示品によって人を引きつけるというか。そう言った価値観に慣らされてしまい、展示品を骨董的価値で評価することになってしまっている。考古資料もその例にもれない。

 ここには、自慢じゃないがそんなものは一つもない。しかし、民衆の汗があり、涙があり、悲鳴があり、喜びがあり、暮らしのにおいがある。山の厳しい自然に立ち向かい日々の暮らしを切り拓いてきた先人達の誇りと自信がある。それが肌に感じる響きがある。展示品の一つ一つが、山の民の手造り品である。民衆の暮らしの中から歴史を探り出す民俗ならではの味わいがある。太鼓や鈴や笛の音が、鳥や獣の鳴き声が身体の何処かで響き出す。山間の木立から作業唄が、民謡が聞こえてくるような錯覚におちいるに違いない。

 日々の暮らしに疲れたら是非一度、椎葉の山の中にいらっしゃい。そして、雑踏の騒音を忘れて森の声に耳を傾けてみたら如何でしょう。何もない暇を持て余すだけのそれはそれは大変な超ど級の田舎ですが、それだけのそれなりの価値を感じていただけると信じます。
 ものの見方の切り口をかえる。価値観を見直す。そんな機会にしてみてはどうでしょうか。

 今、社会では、政治的にも経済的にも教育的にもスポーツの世界でも環境の面でもその常識や枠組が世界的に変革しようとしています。人もその意識や価値観を見直すときに直面していると考えます。
(椎葉村の役場のホームページを見る
(椎葉村松尾氏のホームページを見る

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