生活人コラム



 〜OTA.VOL.1 雑感「イマドキの子供達」〜

 [執筆者]
 大谷浩一
 [紹 介]
 塾講師。工学修士。ボーイスカウトのリーダー。レコーディングスタジオ、クラブ等で演奏するギタリスト。
 また、専門誌にアメリカ音楽事情をレポートするなど多様な活動をされています。



 NO.1 あまりに無個性。このままでは.....。 98.1.31

 私がボーイスカウトのリーダーとして8年間、塾の先生として4年間子供たちに接してきて感じていることをこの場をお借りして述べてみたいと思います。

 最近の子どもに接していて感じることは、まず、余りにも指示待ちの子供が多いということです。例えるなら、コマンドを打ち込むまで何も反応しない、一昔前のコンピュータとでも申しましょうか、そのような子供が多いのです。
 例えば、先生が板書をすれば、それをそのまんまノートに写し取ってしまい、たとえ、それがまちがっていたとしても「先生、そこ違うんじゃないの。」という生徒は皆無です。もし間違いを指摘して、目立ってしまったなら「いじめ」の対象になりかねません。「周りを見てから行動する」というのは集団主義の日本人の典型的な行動パターンですが、いじめを恐れてか、その傾向が子供たちの間に特に強くなってきている気がします。
 文部省が個性を尊重する教育を提唱し、推進しようとしても、実際に子供が個性を発揮させてしまうとまわりから「いじめ」られてしまうので、彼らが事勿れ主義に陥り、のびのびできないのも当然といえば当然です。

 また、彼らはマニュアル至上主義でもあります。
 ファミコンの攻略本で育った世代なので、彼らの間にマニュアル至上主義が蔓延していても無理のない話ではあります。実際その方がゲームであれ、テストであれ、「スコア」を挙げることが出来るのが現実です。
 しかし、他人や攻略本からの受け売りのロジックより、自分自身で苦労し、考え、積み上げたロジックの方が後々有益であり、真の意味での勉強には試行錯誤が必要であるということは、このホームページにアクセスしていらっしゃる皆さんはよくご存知だとは思いますが、この試行錯誤を最近の子供たちは嫌うのです。なぜならそのような行為は「時間のムダ」にうつるからのようです。
 大企業神話や終身雇用制も崩壊し、さまざまな慣習(因習?)が消え去ろうとしている現在の日本において、新たな社会的価値観を創造するには試行錯誤を恐れていては何も始まりません。また、試行錯誤する過程において個性というものは発揮されて、育っていくものなのです。

 日本において、特にここ数年、国際人として通用するようにと、英語を、特にオーラルな英語を重視する傾向がありますが、そんなことは二の次でよいのです。英語はあくまでコミュニケーションの手段であって、真の国際人には、相手と自分の違いを認め、それを尊重する、という姿勢が必要最低条件であると私は思っております。
 ここにひとつ、面白い話があります。
 ボーイスカウトの創始者、英国人のベーデンパウエルは、明治時代に来日した際、203高地の戦いで著名な乃木希典と児玉源太郎の両氏と会見したそうですが、彼の日記には、児玉源太郎の方が国際的な紳士、というように記してあったそうです。ちなみに児玉源太郎は英語はまったくしゃべれなかったそうです。

 今、我々大人は、子供たちに「人と違うこととは素晴らしいことで全く恥ずかしいことではない、むしろ尊重すべきである」ということを、まず最初に教えてあげるべきだと思います。さもなくば、日本は余りにも無個性で非創造的、非生産的人間ばかりであふれかえり、新たな価値基準も確立できずに航路を見失い、沈んでいってしまうでしょう。 (文中敬称略)

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〜OTA.VOL.1 雑感「イマドキの子供達」【大谷浩一】〜

 NO.2 盲目的に塾に通わせてもムダ 98.11.4

 この不景気の中、お父さん、お母さんの交際費を削ってまでも塾に通わせるような親御さんには頭の下がる思いがします。どんなに苦しくとも子供にだけはきちんとした教育をと思っていらっしゃるのでしょう、教える側として日々その責任の重さを感じずにはいられません。

 ところで、塾に行く前と、行った後でのテストや成績を単純に点数で比較している親御さんはいらしても、その塾で行われている教育方針などを子ども本位に考えていらっしゃる親御さんはどれだけいらっしゃるでしょうか?最近、そんなことを思うようになりました。
 塾にもいろいろありますが、実態は、ほとんどが理解よりも暗記重視のところが多いようです。ここで気をつけなければならないのが、理解を深めるには多少の暗記は確実に必要になってくるわけですが、教える側がその境界線を見極めなければいけないということだと思います。この境界線を、教える側が見誤るとどのような事がおこるでしょうか?

 私のところにはいろいろな塾を渡り歩いてきた子供さんも来ていますが、例えば、ひたすら計算をパターン化させて解かせる塾があって、そのようなことに慣らされた子供の共通の特徴として、解いた経験がある問題は非常に早く「解く」のですが、問題がほんのちよっとひねってあると「このような問題は見たことがないので解けない。」と全く手をつけずに思考停止してしまうということがあります。前例がないと全く対処できない、どこかの国の役人達のような子供が最近は目立ちます。
 このようなパターン暗記型の授業を行うような所に子供を通わせても無駄でしょう。かえってこれからの世の中に適応できないような子供を作ってしまわないかと心配になってきます。第一、パターンを認識して単に素早く処理するだけなら人間のやる仕事ではありません。コンピュータの仕事です。

 残念なことに、塾の先生の側も、学生時代からこのようなパターン詰め込み式の勉強をしていた方が多いようです。所詮人間は自分の経験したことしか教えることができないもので、そのような先生が教えることといえば、やはり「パターン」を教え込むということなのです。以前は、まあそれで充分やっていけた時代だったのですから仕方がありませんが。

 「隣のだれだれちゃんもいっているから、うちのも通わせよう」という発想で塾の門を叩く方が多いのが現実です。
 しかし、どうせ大枚はたいて通わせるなら、子供に多くを教えすぎず、なるべく自力で考えるように導いてくれ、たとえ解答に達するのに時間かかったとしても、たとえそれが模範解答ではなかったにしても、自分自身で筋道を立てて考えたということに価値があるということを教えてくれる塾を選ぶべきでしょう。このような塾が近くにない(現時点では皆無に近いかもしれませんが)ようでしたなら、塾に通わせない方が逆にこれからの時代を生き抜かなければならない子供の将来にはプラスになるのではと思います。

 塾の教師をしていて何かそんな気がしてくるこの頃です。

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