好奇心コラム



 YOS.VOL.2 悪役理論 96.12.1

 [執筆者]
 吉崎達彦
 [紹 介]
 1960年、富山市生まれ。
 一橋大学社会学部卒業後、企業PR誌編集長、シンクタンク研究員、経済団体職員などを歴任。現在は大手商社の調査部に勤務。



(0)はじめに…悪役はどこへ行った??

 フィクションは限りある時間や紙面で物語を完結させる必要があります。そのためには主人公(善)と敵対者(悪)を作り、悪を倒せば物語は終わる、という前提にするのがいちばんわかりやすい。現実の世の中はもちろんそんなに甘くはありませんが、フィクションの場合はエンディングで見るものに満足感を与えなければなりませんので、どうしてもこの形が都合が良くなります。
 たしかに、「勧善懲悪はもう古い」という声はあります。しかし、たとえ恋愛をテーマにしたものであっても、物語におけるちゃんとした対立軸は、選挙におけるちゃんとした政策と同じように重要なものです。魅力的な主人公と魅力的な悪役、これこそがフィクションを輝かせるために根本的に重要な要素と言えましょう。

 ところが悪役作りが難しい時代となってしまいました。最近では現実の悪者のほうがよっぽど怖かったりします。ポスト冷戦時代という環境もよろしくありません。「冷戦が終わると歴史が終わる」という議論が昔ありましたが、最近私が感じるのは「冷戦が終わって悪党が小粒になった」こと。
 共産主義の脅威はなくなり、ナチスの記憶は遠い過去となり、人種差別さえ制度としてはなくなってしまいました。後に残されたものといったら、貧困やら環境破壊やら学校のいじめやら、不特定多数が悪い、やり場のない不幸ばかりです。

 フィクションがこれらの問題に取り組むのもひとつのいきかたでしょう。ただし、それは映画なら2時間、本ならば1000ページ以内では片づかない大長編になってしまいます。しかもエンディングでの「大団円」は望むべくもありません。たった一人の悪者が善人たちの心胆を寒からしめることは不可能になってしまいました。これではフィクションも盛り上がりません。

 悪役はどこへ行ってしまったのでしょう。ちゃんとした、魅力的な悪役に出会いたい!!
 以下の小論は「フィクションにおける悪役」の類型を論じたものです。ここでは悪役とはかならずしも悪い人物であることを必要としません。社会通念上は善人であっても、物語のなかでは敵役になることもあります。また『マクベス』(裏切り者)や『ブラック・ジャック』(無免許医者)のように、悪者が主人公であるいわゆる「ピカレスク」ものもこの小論には含めません。ここでいう悪役とは、主人公によって倒されることを運命付けられた、魅力的な敵役の人物のことです。
 題材は広く小説、映画、テレビ、マンガなどから広く取材しました。さて、いちばん魅力的な悪者は誰でしょうか。

(1)派手な悪役

 この分野でまず思い浮かぶのは、私と同じ世代であれば当然、『宇宙戦艦ヤマト』のデスラー総統でしょう。これぞ悪役の紋切り型とばかりに、このタイプに代表的なあらゆる兆候を示しています。
 彼の性格をまとめてみましょう。

・よくしゃべる。機嫌のいいときは自分の計画や腹積もりを気前よく説明してくれる。
・よく笑う。しかし何がおかしいのか傍目にはよくわからないことが多い。おそらくは自分の偉大さを強調するために、無理をして笑っているのではないか。
・ナルシストである。自分が絶対に負けることがないと無邪気に信じている。主人公のことを半分ほど認めつつも、根本的にタカをくくっているので、序盤の少々の敗北は気にしない。かえって「そのくらいのほうが私も楽しみがあっていい」などと余裕のあるところを見せたがる。
・パラノイアである。とくに自分の趣味に関しては信じられないような性癖を持つ。その悪趣味のためなら、なにを犠牲にしても惜しくないという異常な感覚を持っている。
・ヒステリーである。とくに自分の信頼する部下が失策をやらかしたときなどはすぐに処刑してしまう。普段の思慮深さは一気に影を潜め、気まぐれな決断を下してしまう。

 こういった条件を満たした悪役は、実に安心して見ていることができます。
 要するに偽悪的な人物なのですね。実はアニメの世界では昔からこういった悪役が重宝されていて、『科学忍者隊ガッチャマン』あたりからこの手の悪役が幅を効かせています。しかしデスラー総統こそはこのパターンの完成形であり、その後に多くの模倣をもたらしました。

 映画でもシリーズ物となると、悪役は無難を選ぶせいか、ついついこのタイプになりがちです。『007』シリーズなどは典型的ですね。それからロール・プレイング・ゲームもそうです。『ファイナル・ファンタジー』シリーズが特に顕著です。なにしろ長時間にわたってプレイするわけですので、どうしてもラスボスは憎々しげであることが要求されるからでしょう。
 しかもこういった人物は、滅亡に至るまでの鉄壁のシナリオをもっており、そういう意味でも安心してみていられます。
 彼らの行動パターンはおおむね次のような順序を踏みます。

・まず自分の部下の四天王だの七人衆だのを差し向けるのだが、部下のプライドを慮って一人ずつ派遣する。結果として主人公はこれらを各個撃破してしまう。つまり戦術として絶対にやってはいけない「戦力の逐次導入」をやってしまう。
・部下が全部やられた時点でやっと本気になり、御大自らが出向く。
・あっけなく主人公を罠にはめ、必勝の体制を築いて高らかに笑う。
・そこで止めを刺せばいいものを、つい調子に乗って「説明」をしてしまう。手も足も出ない主人公に向かって「君の敗因は・・・」とか「この後、私はこうするつもりなのだ」などと教えてあげる。「冥土の土産に教えてやろう」などと意味のないせりふを口走ることもある。
・かくして主人公は起死回生のチャンスをつかみ、大逆転を演じて見事悪役を退治する。

 よく知られていることですが、デスラー総統のプロトタイプになったのはヒトラー総統です。ヒトラーこそはナルシストでパラノイアでヒステリーだったわけですが、実はこのタイプの悪役はもっと古くからありました。
 われわれはこのタイプの原型を『三国志演義』の曹操に見ることができます。彼自身の人となりはもっと魅力ある快男児なのですが、一般大衆の反感を買うためには、人物像をねじ曲げてでもヒトラーのようにする必要があったのでしょう。ともあれ、「派手な悪役」は物語の敵役としてもっとも無難な手口として愛用されています。

(2)冷酷非情な悪役

 派手な悪役と同じくらい月並みかつ無難なのは「冷酷非情な悪役」です。このパターンが生み出されたのはアメリカの西部劇によるところが多いのではないでしょうか。なぜなら西部劇には頻繁に「雇われ殺し屋」が出てくるからです。
 その草分けとしては、黒づくめの服装でいつもブラックコーヒーばかり飲んでいる『シェーン』の殺し屋、ジャック・パランスがいます。西部劇では、必ず最後に主人公との決闘が控えておりますので、敵役は「人間離れして強い」と思わせる必要があります。どうしたら強く見えるかという条件を 突き詰めていくと、ゴルゴ13的な人物像に行き着くのでしょう。

 このタイプは一見地味に見えることもありますが、とんでもない高い能力を持っております。そのため主人公が勝てる可能性は非常に低いケースがしばしばです。しかも当人なりにしっかりとした行動原理を持ち、強い意思を持って偶然を排除しつつ生きている面では、私たち凡人にとっては尊敬すべき点があります。すくなくとも(1)で挙げたタイプよりは、見習うべき点が多いと言えます。
 重要な点は、彼らは根っからの薄情者ではなく、多情多根な自分の性質を抑えつつ、必死で冷酷な振りをし続けているということです。いわばハードボイルドの悪役といえましょう。

 このタイプもまた(1)と同じく類型的になりがちです。しかし数が多いだけあって、これまでに多数の類型を生み出しています。
 シャープな頭脳をもつ犯罪博士であるモリアティ教授。ジェダイの騎士の生き残りなのにフォースの暗黒面に落ちてしまったダース・ベイダー。さらには未来から送り込まれてきた殺人兵器であるターミネーター。これらはそれぞれに「冷酷非情」の道を究めるべく生み出されたさまざまなキャラクターです。

(3)タフな悪役

 アメリカ映画が好む悪役として「タフな悪役」というジャンルがあります。これはもう、殺しても死なない、生命力の強い悪役です。(2)のタイプのように能力的にずば抜けたものを持っているというより、とにかく根性とか粘着力で勝負することが多いようです。
 困ったことに、この手の人物は純粋な正義感にかられて行動しています。そうして主人公を追い詰めるわけですが、故意による場合と誤解による場合に類別されます。

 前者のケースはロバート・ショーが得意としていました。『ロシアより愛を込めて』とか『スティング』での名悪役ぶりはつとに有名です。なにより実に憎々しげに演じていました。見るものは心から悪役を憎み、主人公に声援を送ることができました。この手の悪役は一言でいえば「確信犯」です。ですからいっそのこと、さわやかな印象を残すこともあります。
 サム・ペキンパーという監督は、単純明快な映画を得意としておりましたが、主人公をしつこく追い回す悪役を作ることに長けていました。彼の映画は非常にしばしば「主人公が偶然から追われることになり、メキシコ国境を目指して逃げる」のですが、簡単に逃げ込めるのでは話にならない。そこで強力な追いかけ役が必要になるわけです。私が個人的に好きなのは『コンボイ』で、主人公を追う保安官に扮したアーネスト・ボーグナイン。彼はしつこく主人公を追い回した挙げ句、ラストではまんまと出し抜かれるのですが、その瞬間心の底から楽しそうに馬鹿笑いをしてくれます。「いや、まいった。やられた」と男らしく負けを認めるので、それまでのフラストレーションは一気に解消します。
 このように、ときには一転してさわやかさを振りまいてくれることもあるのがこのタイプの特徴です。
 追いかけ役は多少頭が悪くとも、とにかく体が丈夫でしつこい、というのが適しているようです。アルセーヌ・ルパンを追うガニマール刑事、ルパン3世を追う銭形警部などもこの類型といえるでしょう。

 後者のケース、つまり誤解に基づいて主人公を追い詰めるケースで目立つのは、「無実の主人公を追い回す刑事」というジャンルです。
 すぐに思い出すのは『逃亡者』で無実の罪に追われる医師を追及する刑事。もっと手抜きをしてくれればいいのですが、なまじ正義感に燃えているだけに仕事熱心です。
 このパターンは歴史が古く、『ああ無情』でも『80日間世界一周』でも主人公は刑事に追われてしまい、大変な辛酸をなめる羽目になります。おかげで簡単に終わるはずの話は長引き、ラストシーンでは誤解が解け、「すまなかった」と謝り、主人公は快く許して両者はめでたく和解するわけですが、これが現実問題であったらそんなことは不可能でしょう。

(4)狂気の悪役

 最近、アメリカ映画でとみに増えてきたのが「狂気の悪役」です。ひとりの狂人が日常生活を破壊するという筋書きで、恐怖映画の傑作をいくつか生み出しました。
 これについては、狂気を演じる俳優の存在が大きくクローズアップされるように思います。『ケイプ・フィアー』のロバート・デ・ニーロのように、ちゃんとした俳優が演じないと物語は成立しません。
 その点、デニス・ホッパーなどはこのジャンルにはうってつけの俳優です。彼がこの手の役どころに開眼したのは、おそらく『ブルー・ベルベット』においてでしょう。何の理由もない絶対的な悪意の持ち主である彼の行動は、無垢な観客を恐怖のどん底に陥れました。なぜなら彼の犯罪はまったく非日常的であるくせに、ひどくリアリティがあるのです。『スピード』においても、彼が演じる爆弾魔には条理を超えて訴えかけてくるものがありました。
 アンソニー・ホプキンスもまた狂気を得意としています。『羊たちの沈黙』の精神異常者の博士はその大成功例でしょう。

 このジャンルは困難がつきまといます。リアルな狂気を描くことの難しさがその最たるものです。とくに映像化しようとすると、相当に優秀な役者がいないと失敗作に終わってしまいます。また精神異常をリアルに描くためには、表現上いろいろな制約がつきまとうことも否定できません。なにより困るのは、フィクションとしての「狂気の悪役」は、現実の社会の狂気による犯罪に比べると見劣りしてしまうことがあるからです。それでも近年、このジャンルの開拓が急速に進んでいるのは、やはり社会がそれだけ病んでいるからでしょうか。『12モンキーズ』では、かのテリー・ギリアムをもってしても、狂気を描くことは簡単ではないことが思い知らされました。

 日本ではまだまだタブーが多いだけあって、このジャンルへの挑戦は少ないのが現状です。そうしたなかにあって、直木賞受賞作となった『マークスの山』は狂人の心理をいかんなく描ききった傑作でした。

(5)卑劣な悪役

 大物の悪党にはなれないが、物語の序盤で殺されてしまうような小悪党に多いのが「卑劣な悪役」です。卑怯であればあるほど物語に貢献するという、悲しい性質を帯びています。
 われわれ誰もが身に覚えのある、卑近な卑劣さを物語のなかに上手に取り入れていたのは手塚治虫です。彼が描くマンガには、アセチレンランプ、ハムエッグ、金三角、スカンク草井など多彩な悪役の常連キャラクターが登場しますが、いずれも劣らぬその卑劣さは、物語を引き立てる上でなくてはならない存在でした。

 このタイプはどうしてもわき役に甘んじることが多くなるのですが、ときには「卑劣な悪役」が「冷酷非情な悪役」を乗り越えてしまった珍しい例があります。
 『仁義なき戦い』シリーズがそれです。毎回、ハードボイルドな敵役が登場しますが、見るものの目はどうしても金子信雄演じる親分さんへ寄せられていきます。まったく人並みはずれたあのずるさ、卑怯さには毎回あきれるばかりですが、当人がいわゆる"LIKABLE PERSON"で憎めないものですから、菅原文太を翻弄する彼の怪しい権謀術策に対する怒りは、ともすれば腰砕けになりがちです。

 しかしこのタイプの悪役を物語のメインに据えるのは考えものです。滅多にうまくいくものではありません。
 たとえば『ファイナル・ファンタジー6』では、このシリーズでは珍しくケフカという卑怯な小人物を前面に押し出し、ラスボスにしてしまいました。その結果、最後に苦労してケフカを倒しても「いま一つ納得が行かない!!」というプレイヤーが続出してしまいました。
 製作者としては、ケフカを前半では(5)タイプにして、後半では(4)タイプへ発展させるという展開を目指したのでしょうが、失敗だったのではないかと思います。卑劣なキャラクターをメインに据えることは、物語の格調を落としてしまいますので通常はお勧めではありません。

 それでもシェークスピアほどにもなると、『オセロ』のなかでイアーゴーという口八丁手八丁の卑劣な悪役の傑作を造っています。優れた才能を持ちながら世に受け入れられないイアーゴーの不満、オセロ将軍に対するねたみ、嫉妬などが丹念に描き込まれているので、物語はいささかも落ちておりません。
 文豪おそるべしと申せましょう。

(6)エリートの悪役

 日本では悪役といえば悪代官と相場が決まっています。つまり権威をかさに着ているやつがいちばん悪い。水戸黄門が根強い人気を保っているのは、小さな権威を大きな権威が退ける快感によるものでしょう。日本人の大ロマンである『忠臣蔵』は、吉良上野介という絶妙の悪役を得て成り立っています。なんとなれば彼は幕府の権威をかぶったエリート。
 エリートが権威を失い、みじめったらしい最期を遂げるとき、大衆は拍手を送ります。物語のカタルシスを高める意味で、エリートの悪役は有力です。

 アメリカでいうなら、『刑事コロンボ』シリーズの犯人がこれにあたります。(1)のタイプを小振りにしたようなものもありますが、確実に人気を取る手段としては有力です。
 しかし最近では困ったことに、現実の霞ヶ関官僚などが本物の悪役ぶりを発揮しており、この憎らしさは到底フィクションの及ぶところではありません。
 薬害エイズでは厚生省、住専問題の大蔵省しかりです。
 テリー伊藤の『お笑い大蔵省秘密情報』は、一読するとまるで本物の悪の権化と会話をしたような気分になることができるという変な本ですが、本物のエリートの悪さを描ききっています。しかるにこういう大蔵官僚が日本を支配しているのが現実だと思うと、何より先に不快感が生じてしまい、カタルシスを得るには及びません。願わくば、こういうリアルなエリートの悪を描くフィクションと出会いたいものであります。

(7)複雑な悪役

 ここまで延々と書いてきたような悪役を超えた、本当に魅力ある悪役。つまり理想の悪役とは、「つかみどころがない魅力的な人物」ということに尽きると思います。

 わかりやすい例を挙げましょう。『宝島』のジョン・シルバー。この物語の真の主人公である彼の活躍は、語り手である少年ジムの目を通して描かれます。シルバーはたびたび変身し、陽気なおじさんであったり、怖い海賊の親玉であったり、仲間割れに悩む孤独なリーダーであったりします。まったく彼の性格の複雑さは驚くばかりですが、そのおかげで彼の人物像はまことに立体的かつリアルになっています。これだけ魅力的な悪役は空前絶後ではないかとさえ思うほどです。

 魅力的な悪役と言えば、『第三の男』のハリー・ライムについて触れずにはいられません。オーソン・ウエルズ演じるハリーが暗闇のなかでにやっと笑う意外な登場シーン。観覧車で出会った昔の友人は情け容赦のない犯罪者に変わってしまっている驚き。その彼が主人公の裏切りによって追われ、地下水道のなかで絶体絶命になる悲しさ。ハリーもまた理解しにくい男でした。しかし彼を理解したいと思わせるだけの何ものかを備えたキャラクターでした。

 こういったタイプの悪役はめったに出るものではありません。人間に対する深い洞察力なしには造り得ないからです。文豪ドストエフスキーは『罪と罰』の中で、犯罪青年ラスコーリニコフを追い詰める敵役として予審判事ポルフィーリィという類稀れな人物を創造しました。ポルフィーリィは矛盾に満ちた人物であり、小説のなかでは3回ほど登場するだけですが、まったくなんという分厚い存在感でしょう。おもわず「ポルフィーリィのようなやつ」を身近で探したくなるような、不思議な魅力を感じさせます。
 正直言って、最近の映画や小説などでこのタイプの悪役に出会えることはあまりありません。強いていえば『機動戦士ガンダム』のシャアにその片鱗を感じたくらいでしょうか。
 こういう悪役と出会えるのは、本を読み映画を見る者にとっては至福の瞬間といっても過言ではありますまい。

(8)むすび

 いったい私は何が言いたくてこんなことを延々と書き連ねてきたのでしょうか。そう、私は真に魅力的な悪役に出会いたいのです。
 フィクションはストーリーではなく、キャラクターで読ませるというのは古典的な鉄則です。敵役が悪くて主人公が目立つことなどあり得ないではありませんか。悪役の創造は良いフィクションのための必須条件です。
 小論が、新たな魅力的な悪役を生み出すきっかけになれば、これに過ぎたる幸せはありません。
 それにしても悲しいことです。上に挙げたようなさまざまな悪党たちも、オウム真理教事件で一気に影が薄くなってしまいました。すごい悪党に出会えるのは、できればフィクションのなかだけにとどめておきたいものです。
(筆者への直通の電子メールは、ここ

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