国際人コラム



 〜YUN.VOL.1 日常の日韓発見キーワード〜
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 [執筆者]
 尹 泰淑(ユン・テスク)
 [紹 介]
 1965年、韓国生まれ。
 韓国の大学(日本文学科)を卒業後、1990年に来日。主婦。地方都市に住み、有志を対象に小規模な韓国語講座の講師や韓国料理の紹介をしたりされています。



 社会シリーズ NO.1[遊び、人の関係、行動基準、習性] 98.8.5

 1. 遊び 『徹底的』と『ほどほど』

 前回の最後にお買いものについてお話ししましたので、楽しいついでに今日は遊びのお話から始めたいと思います。

 古今東西、遊びが嫌いな人はいないと思いますが、韓国人の遊び好きは生半可ではありません。去年くらいから経済がおかしくなって、海外旅行などのお金をたくさん使う遊びはさすがに火が消えたようになりましたが、むしろ、私が一番韓国的だと思うのはピクニック(のようなもの)です。

 春になると天気がいい週末はソウル近郊の山はいつも人でいっぱいになります。
 その混み具合は日本の比ではありません。足の踏み場がないくらいです。会社や学校の仲間、家族連れやご近所連れなどいろいろなグループで行きます。山歩きが目的ではなくて、山の中で楽しく騒ぐのが目当てです。こんな遊びを韓国語では『逍風(ソップン)』と言います。

 みんな昼食の用意をして山に遊びに行きます。
 昼食を用意すると言ってもお弁当を持っていく人は少なくて、多くの人が鍋やガスコンロや食事の材料持参です。近くまでは自家用車やバスなどで行けますが、小川のせせらぎのそばで食事をしながら楽しく騒げる場所が一等席になりますから、最後は歩くことになります。ですから荷物運びが大仕事です。若い男はもちろん、おばさん達や子ども達も一緒になって総出で荷物を運んでいるようすは、端から見ていると少し滑稽にも映ります。あとの楽しみが待っているのでみんな嬉々として大きな荷物でも運びます。
 そしてお昼ご飯どきになるとそこら中で焼き肉や鍋物などが始まって、まるで炊き出しのような騒ぎになります。宴が盛り上がってくれば踊りも始まります。

 韓国人の遊びは、徹底的に自分が楽しまなければ意味がありません。
 自分が楽しむためには少しくらいたいへんな目にあっても気にしません。みんなそうなのでお互い様と思うのでしょうか、多少は隣のグループに迷惑になっても不思議にグループ同士のもめ事などは起きなくて、お互いが徹底的に楽しむのです。

 日本人は遊び方についても韓国人とはだいぶ違います。
 私は日本では市が運営しているアウトドアスクールというのに参加しています。これは家族で参加するもので、月に1度、季節によって田植えとか稲刈りとかの体験イベントがあったりハイキングなどがあったりで小さな子どもは大喜びです。いつも30家族から40家族くらいが参加していてにぎやかな集まりです。また、それとは別に家族で天気のいい日にはピクニックに行ったり、たまにはキャンプに行ったりもしています。

 そんなところで感じるのは、日本人は、遊びについても何か燃え切らないな気がします。アウトドアスクールは半分は学校のようなものですから仕方がありませんが、どんなところにピクニックやキャンプへ行っても四角四面の枠があって、そこからはみ出すことがありません。
 どこへ行っても韓国に比べるときちんとした設備が整っていて快適な環境なのですが、遊びという楽しい活動を半分はいやいやながら整然と消化しているように見えます。迷惑にならないようにルールを守るというのはいい面なのですが、ほんとうに楽しんでいるのだろうかと感じるときもあります。日本人は整然とほどほどに遊ぶのです。

 2. 人の関係 『能動的』と『受動的』

 あまり直接の関係があるとも思いませんが、こんな傾向は人の関係(つき合い方)についても見られます。
 韓国では、幅広いつき合いがあり知り合いが多い人のことを『足が広い』というふうに表現します。日本で『顔が広い』と言うのとだいたい同じ意味ですね。どうでもいいことですが、私はこの表現の違いが以前から気になっていました。

 私はこの違いは大陸の国と島国という条件の違いからそうなったのではないかと思います。
 陸続きの大陸では、自分がその気にさえなれば自分の足だけで自由に動き回ることができます。自分の国はもちろんのこと、遠くの国にまでつき合いの範囲を広げることが難しくありません。その気になるという条件つきですが、自分の足さえあればどれだけでもつき合いを広げることが可能です。
 日本人にもお馴染みの『アリラン』という歌にも足のことが歌詞にでてきます。アリランの歌は、たいせつな自分を捨てて出ていく男は足が病気になってどうせ遠くまでは行けませんよというような、ロマンチックと言うよりも男の人にとっては恐い感じもする歌詞ですが、これも、大陸で生活する韓国人にとっては足がたいせつであるということを象徴しているのかも知れませんね。

 足に大きな意味を込めるというのは、つまりは、人の関係について直接的行動を伴うことを好むと言い換えることができるのではないかと思います。韓国人は、それほど親密なつき合いではないちょっとした知人の家にもあまり遠慮もなしに気軽に出かけます。ちょっと大げさですが、少しでも知った間柄であればもうその人の家は自分の別荘のような気分です。
 そんな感覚ですからできるだけ多くの人と知り合いになることを好み、そのためには気軽に押しかけるくらいの行動力が必要で、自分の足が何よりもたよりになります。

 島国の日本では足がそれほど大きな意味をもちません。
 遠くまでつき合いを広げようと思えば海を渡らなければなりません。現代ではそうでもありませんが、昔なら海を渡るために大きな船も必要でお金もたくさん必要になりますし、行ったり来たりするだけでも危険が伴います。たとえその気になってつき合いを広げようと思っても、そうおいそれとはいかないのです。何か特別に大きな目的でもないことにはつき合いを広げる気にはなれないのです。

 日本を紹介した本などには、日本人から家に招待されてもそれは単に挨拶としてそう言っているだけだから、それを本気にして押しかけたら迷惑な顔をされてしまいますよ、というようなことが書かれています。そういう一面もありましょうが、私は、必ずしもそれは的を得ているとは思いません。
 さっきお話ししたような理由から、日本人はつき合いを広げるのに必死の覚悟が必要なのです。だから、訪問するときにはそれにふさわしい、それらしい名目さえあれば安心するのだと思います。

 日本では、かなり深いつき合いがある関係でも、いつも、わざわざご丁寧にありがとうという決まり文句がつくくらいですから、相手のためにわざわざしてやっているという名目がたいせつになります。そんな関係では、お互いの表情の端々まで読みとれるほどの間柄にもなりましょう。そんなことから顔に大きな意味を込めるのではないかと思います。
 そういえば、人の関係にまつわることばとして『顔が広い』の他にも『顔つなぎ』とか『顔見せ』とか『顔見知り』など、何ともいろいろな表現がありますね。

 日本人は、どれだけ多くの表情まで読みとれるほどの深い関係があるかに価値を認め、そうなればしなくてもいい気苦労なども多くなりますから、逆に自分から積極的に人の関係を広げることに躊躇してしまうのだと思います。

 そうそう、ついでに思い出しましたが、韓国では自分より地位や立場が上の人のことを『手上の人』と表現しますが、日本では『目上の人』と表現します。人の関係のあり方については韓国人は手足に意味を込め(韓国では相手によって握手する時の左手の添え方を変えたりすることもこれをよく表しています)、日本人は顔に意味を込めるようです。
 私は、手足からは積極的で能動的な風景が思い浮かび、顔からはひかえめで受動的という風景が思い浮かびます。

 3. 行動基準 『正当』と『迷惑』

 島国と大陸の国という地理的な制約は、その他にもいろいろな考え方の違いを生むようです。

 さっきは迷惑ということばがでてきましたが、日本人が何かにつけてよく口にするのが、他人に迷惑にならないようにという意味のことばです。どこのお家でも、まず、子どもの躾でこんな意味のことを強調するようです。何か事件が起きたり仕事で大きな失敗をして関係者が謝るときも、必ずと言っていいほどみんなが口にします。
 『人様に迷惑をかけないようにしなさい』とか『皆様にご迷惑をおかけしてたいへん申し訳ありません』などが決まり文句です。他人に迷惑をかけることがいいわけはありませんが、日本ほどこれが何かにつけて強調されるのもめずらしいような気がします。

 人とのつき合いでもお話ししましたが、周囲が全部海で囲まれているというのは大きな箱の中にいるようなものです。何かが起きて逃げ出さなければならないようなときも自由には逃げられません。窮屈な中でなんとかうまく生活していくことが必要です。
 こんな条件の中でトラブルがないようにするためには、みんなが他の人を刺激しないでじっとして目立たないように暮らすのが一番です。できるだけ波風が立たないように生活することがみんなの一番たいせつな了解事項なのです。閉ざされた場所で波風(迷惑)を起こしてしまったら関係のない人まで溺れたり、それこそ一大事になるかも知れませんね。長い間に島国という条件が育んだ生活の知恵と言えましょう。

 韓国人には迷惑をかけて済まないという発想はあまりありません。
 もちろんはっきりと自分に非があれば謝るのですが、何かトラブルが起きたときでも、どちらかと言えば、まず自分がやっていることの正当性を主張するものです。これもまた、広い大陸で生活する者の知恵なのかも知れません。

 大陸では自由にどこへでも行くことができますから、何かトラブルが起きても自由に逃げ出すことができます。自由に逃げ出すことができますが、海のように乗り越えがたい高い丈夫な塀があるわけではありませんので、誰かがずかずかと入り込んでくることを物理的に防ぐことも困難です。そんな条件の中では、迷惑をかけて済まないという発想で控えめなことばかりしていたら、そのうちに自分の居る場所さえもなくなってしまいます。
 ですから、他から勝手なことをされないように常に自分の存在を主張し続けることが必要なのかも知れませんね。

 もめ事でもあれば韓国人は大声で怒鳴り合います。怒鳴り合うのですが、それは喧嘩をしているのとは少し違います。自分の正当性を主張していると受け取らなければなりません。大声で主張し、周囲にいる人達にも自分の方が正しいと納得させる必要があるのです。何としてでも周りの人もみんな納得させて論破しなければ、自分の方が間違っていることにされてしまうと思い込む傾向があります。
 だから、韓国人はいつもやかましいのです。

 4. 習性 『混合』と『融合』

 今日のまとめの意味で、次に日本人と韓国人の習性のようなことについてお話ししてみたいと思います。前々回の『ゴミ出し』についてのキーワードのところで予告していたこととも関係があります。

 前にもお話ししましたが私はお料理が大好きです。韓国料理もつくりますが、お友達に教えてもらったりお料理の本を見たりしながら覚えた日本のお料理もけっこうレパートリーがあって、私の自慢の種です。簡単なお料理の代表選手として、今日は『ビビンパプ』と『カツドン』のお話をしたいと思います。

 韓国では、お料理をつくる時間がないときやたいした材料がないときなどに家庭でもよくビビンパプをします。飲食店などではかなり手の込んだビビンパプもありますが、本来、ビビンパプは簡単に食事を済ませたいときの食べ物です。
 ビビンパプは、石製のドンブリを使って火を通したもの(トルソッビビンパプ)や金属製のドンブリを使い火を通さないものなどがありますが、両方とも中身はだいたい同じです。ドンブリにご飯を入れて、その上にニンジンやキュウリやもやしなどを軽く炒めたりしたものや有り合わせの生野菜をたくさん乗せて、コチュジャンというトウガラシ味噌のような調味料を添えます。ちょっと贅沢につくるときなどはその他にも卵とか挽肉なども使います。

 次はカツドンです。カツドンも、昔、東京かどこかの大学の近くの食堂のご主人が、手軽に学生さんに食べさせることができる料理として考案したものだとか聞いたことがあります。
 別にカツドンでなくても親子ドンブリでも同じことですが、カツドンは、ドンブリのご飯の上に、トンカツを中心にして卵とタマネギなどの少しの野菜を入れて醤油などで味付けしながら火を通したタレをかけてつくります。

 食べる前の両方のドンブリの中を見るとかなりようすが違います。
 ビビンパプは元の材料が何かが見るだけではっきりわかるし作り方もすぐに想像できますが、カツドンはちらっと見ただけでは何が入っているのかわかりません。食べればもちろんわかるのですが。つまり、ビビンパプは単に材料を寄せ集めて何とかおいしく食べようとする工夫なのですが、カツドンはそれ自体が一つのお料理であるかのようにオブラートで包んだ感じになります。

 さっきは島国という地理的条件のせいかどうか、日本人はつきあいを広げることに異常なほどに臆病になるというお話をしましたが、ある面では、カツドンがこれを象徴しているかのようです。
 日本のお手軽食事の代表選手であるカツドンは、トンカツと少しの野菜を入れた卵かけを一緒に食べているのではなく、カツドンというまとまったひとつのお料理です。ご飯の上にトンカツやその他のものをただ乗せるだけでは足りなくて、全体がひとまとまりであるかのように融け合った恰好に変えないと落ちつかないのです。

 一方韓国のお手軽食事の代表選手であるビビンパプは単に寄せ集めの食べ物です。でも、ただ寄せ集めるだけではおいしくも何ともないので、コチュジャンという韓国人の大好物の調味料をたっぷりと入れて、食べる前にはもとの材料の味が分からなくなるほどにドンブリの中でかき混ぜた後で食べるのです。日本人はビビンパプを食べるときにあまり混ぜないで食べる人が多いのですが、食べる前にドンブリの中でご飯と野菜とコチュジャンをしつこいくらいに良くかき混ぜて食べるのが韓国人の食べ方です。
 ビビンパプはもともとひとつに融け合っているわけではなく、単に材料を寄せ集めただけとはじめからそのつもりのものですから、あとでよく混ぜ合わせて食べなければ本来のおいしさが出ないのです。

 韓国人は単にたくさんのものを混ぜ合わせることで由とし、日本人はそれぞれがひとつに融け合うことをめざします。だから、恰好良く融け合わせるために材料を絞る必要も生じます。

 今日は少し理屈っぽくなってしまいました。ちょっとこじつけのような気もしますが、なかなかどうして、ほんとうのお国柄はちょっとしたことに表れるものだと思います。
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