仕事人コラム



 INO.VOL.5 仕事のメンタルヘルス
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 [執筆者]
 井上 透
 [紹 介]
 ブリヂストン健康管理センター勤務の産業医。大学講師。医学博士。
 企業の健康管理センタ−に所属して、社員の肉体的および精神的な方面まで含めた総合的な健康管理の仕事をされています。



 NO.11 自分と他人 98.12.31

 今までの自分の半生が不遇で失敗や挫折を繰り返してきた人の場合、時として「自分は望みもしなかったのに偶然にこの両親から産まれたんだ。生きている目的も理由もわからない。」と被害者意識の人生観で凝り固まってしまうケースもあります。しかし考えてみると、自分の生い立ちが理想通りにいかないのは万人にあてはまることです。たとえ逆境の家庭環境に置かれても、前向きの努力を重ねて魂の輝きを増していく人もいます。

 過去の人生で人には言えない苦難があった人もいるでしょう。しかしどんな人でも産まれてくる時は裸一貫でオギャーと泣いて出てきたのです。誰もが産まれて数ヵ月は純粋無垢な笑顔をふりまいて、素直な心を持っていたはずなのです。
 それから物心つくまでは両親・兄弟・先生・友人など多くの人々の恩恵を受けて育ちます。幼年期までは周囲の人が自分に対して愛情を注ぐのは当然の事と受け止め、感謝の気持ちはまだあまり湧いてきません。もう少し大きくなってからその頃の事を思い出して初めて感謝の気持ちが出てくるものです。

 これは一般的なケースですが、まれにこの物心つかないで無条件に愛情を注がれるべき年代に両親などからの幼児虐待の体験をすることが心の傷(トラウマ)として残り、それが成人になった時の精神疾患の原因になることもあります。ですから幼年期の愛情の注ぎ方は特に大切です。

 物心ついた子供が素直な心を見失って初めて苦しみの種を作るきっかけがあります。それは『他人との比較』を意識し始める頃です。
 兄・姉とのおもちゃの数の比較、同級生の着ている服の比較、おこづかいの比較、etc...。相手に比べて自分が恵まれていないと感じると不平不満が多くなり、だんだん心がすさんでいきます。子供の時に気にし始めた心のブレは大人になるにつれてますます振り子の揺れがひどくなるように大きくなっていきます。

 こんな人が大人になって会社人間となった時、自分が他人に比べてどのように扱われるかということにとても敏感になります。自分より優秀で優遇されている人がいれば、その人の事を思っただけでも心の中は不平不満で荒だってしまいます。
 不幸感覚の強い人は自分の不幸の原因をまず自分の外にあるもの(他人・生活環境)に責任転嫁しようとする傾向にあります。自分の至らない所を後回しに考えるのです。

 この『他人との比較』は大人になると2つのタイプの意味合いを持つようになります。
 1つは『他人との競争』という面でもう1つは『切瑳琢磨』という面です。この2つの面のどちらを重視する考え方を持つかによって、その人の将来に向けての人生は大きく変っていきます。他人との優劣の感覚だけで物事を考えると人生は苦しみの局面が多くなります。しかし『切瑳琢磨』という面でとらえようという考え方の習慣がつきはじめると新たな喜びの感覚が身についてきます。

 相手の優秀な所が目につくと自分がみじめに思われてむしゃくしゃする人の場合、はっきりしているのは『まだ本物の自分に気づいていない』ということです。「自分以外に学ぶべきものがない。自分が一番世の中の事を知っている。自分の考えが最高なんだ。」という信条の人は他人を寄せつけない孤独な人生を歩むでしょう。
 優秀な人に対して「すばらしいな」と素直に思えて、「自分にない長所・優れた所・美点を見い出して学んでいこう。自分より優秀な人が多いということは、それだけ先生が多いことになるし、教材も多いことなのだ。それを修得できればさらに伸びていけるんだ。ありがたい。」という感謝の気持ちが自然にわいてきたら、その人は無限に発展する道の出発点に立っていると言えるでしょう。
 優秀な人を肯定できるのは自分の目指す方向・目標がわかっていることです。とてもありがたいことです。そこから自信をもっての第1歩を踏み出していけるでしょう。

 「自分は多くの人から悪口をたたかれ、優しくされなかった。」という人は心のレンズが歪んでいるのだと思います。赤ん坊の時ゼロからスタートしてから現在の自分に至るまで、数多くの人の恩恵を受けていた事を忘れているだけなのです。よく思い出してください。他人のアラを見て批判したり怒ったりするのは簡単な事です。しかしそれを寛容な心でもって昇華し、相手への優しさでもって自分を表現するのはとても難しい事です。
 この違いが平凡な人と偉人とを区別する人生の分かれ目になるのだと思います。

 多くの人にすでに面倒をみてもらいながら、いつまでも不平不満を言いながら自分の殻に閉じこもって生きていくつもりでしょうか?あるいは感謝して世の中のお役に立てる人生を決意するつもりでしょうか?
 この心理的態度の違いで人生の幸・不幸は分かれていきます。

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 NO.12 指導力と決断力 99.2.1

 指導力と決断力は現代社会のトップにあたる政治家や会社の上層部の方達が特に身につけていただきたい資質です。

 指導力とは多くの人々を感化させる力、導いていく力、あるいは多くの人に新しい方向性を示していく力です。
 多くの人をさらに向上へと導いていく力であり、その前提として高次な視点に立って世の中を見渡す事ができる才能と心がけが必要です。指導力の源泉はその人の持っている人格的魅力が大きなウエートを占めます。その人の血統・容姿・知力に起因するのではなくて、その人の持つ高次な精神性・徳性が共感を受けて多くの人を動かすのです。人格からにじみ出る雰囲気・感化力が関連しています。

 優れた指導力を持っている人は優れた決断力を兼ね備えています。
 決断すべき時に決断できず、行動すべき時に行動できない人は人生の多くの宝を失っています。それはあまりにも深く考えすぎているために決断が遅れ、成功のチャンスを見逃してしまうからです。ですからリーダーになる人は決断が早く先見の明がある人が望まれます。

 決断力といえば右と言えば右、左と言えば左というような単純なものではありません。時間の経過や環境の変化に対応してどの方向に進めば良いかを瞬時に考えてまず実行に移し、間違いが判明したら即座に修正していける力でもあります。
 思慮深いだけでは決断力と結びつかず、かえって優柔不断となる場合もありますが、本当の決断力とは未来に向けて複眼的視点でもって透過し熟考して判断できる力です。難局を打破しようとする時は大局的(マクロな)視点で判断し、運命の流れを修正する時は小局的(ミクロの)視点で判断することです。刻々と変わる情勢を見ながらその都度自分の判断を修正していくことです。優れた指導者ほどこの修正は迅速です。

 部下が上司を言動不一致だと批判する時、実は上司はこの2つの視点で未来を見ながら判断している事を部下が理解できていない事もあります。
 決断力に富むということはいったん自分の決定した事項をひるがえさない頑固な人格を言っているのではありません。最初に決めた事はできるだけ貫こうとしますが、私利私欲を持たず多くの人々を生かす道はいかなる方向かを常に点検して修正しながら目標に進んでいく人格なのです。

 決断力の源泉にあるのは数多くの人々に対する思いやりです。
 ですから状況によっては、時には自分にとって不利な決断を下さなければいけないこともあります。以前決めた事がまちがった判断だったと分かった時にサラリとその非を認めても良いという大きな器の持ち主なのです。人の上に立ってプライドの高くなった人ほど自分の間違いは認めたくないものです。しかしその時に勇気を持って自分の方針を修正していく姿勢が多くの指導者に現在求められていると思います。

 長く人生を渡って行くには指導者には2つの資質が必要です。
 どんな困難をもはね飛ばす信念・強靭な意志の資質と繊細に状況を分析しながら柔軟に物事に対応していく資質です。この2つの資質をバランス良く発揮できた人こそ理想の指導者の姿だと言えるでしょう。

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 NO.13 勇 気 99.3.1

 私達が前例のない新しい事業を成さんとする時、勇気なくして道が開ける事はありません。
 もちろん『待てば海路の日和あり』の例えのように、時間に耐えて待つことにより人生が好転し道が開ける事もあるのは、以前に論述した通りです。しかしいざ動き出さなくてはいけない時、やむおえず決断して動かざるをえない舞台に出された時、迷って立ちすくんでいれば確実に敗北の憂き目に遭います。その時は意を決して開き直ってこの『勇気』のまさかりを振りかざして前進しなくてはいけない事もあります。

 世の中に道が開けないと不満を言っている人の中には「意志が弱くて動き出すのが怖い。」という弱い自己イメージに縛られている人も大勢います。自分の能力を限定した逃げの姿勢です。
 なかには勇気を出して行動できない理由・言い訳として、動き出せば他人に迷惑がおよび傷つけるのではないかと心配しているからだと言う人もいます。皆から優しいと言われている人の中には、ともすれば勇気が出てこないだけのこともけっこう多いようです。八方美人のように多くの人に好かれようと努めるため、他人の考えにあまりにも気を配りすぎてほんろうされ自分自身の不動心を見失っていくようになります。

 こんな人は本当の意味での『優しさ』と『意志薄弱による優柔不断』という2つの資質の違いに気付いていないのです。何でも他人の言う事に従うのが優しさだと勘違いしていないでしょうか?長い目で見た場合、相手の意向通りにいつも合わせて行動するのがその人の成長にとって本当に役立つかどうかはわかりません。
 一般的に言えるのは、私達人間は、安易な環境に長く置かれるとだんだん向上心が薄れてくることです。時には厳しい雰囲気が生まれることがマンネリを打破し、新たな発展のきっかけとなる事もあります。ある組織の体制に長年どっぷり漬かっていれば、内部の人間には意外とその問題点に気づかないこともあります。「人事異動で新しい上司に変わって厳しい指導をするために大変だ。」と愚痴を言う部下もいますが、実は、前任者の欠点を補う意味での良き効用となっている場合もあります。職場の上司が部下を叱ることがありますが、これは決して憎いからではありません。部下の将来を考え、正しく仕事がこなせるように導くために叱っているのです。心を鬼にして厳しい言葉を出す時も勇気を必要とします。これは『教導の怒り』というもので肯定されるべき言動なのです。
 資本主義社会は競争の厳しい社会ですが、能力を向上させる砥石としての効用があります。それに比べて、互いの傷をなめ合うだけの同情主義や競争のない共産主義では社会の進歩はなくて停滞しかありません。この事はロシアを初めとした社会主義国の崩壊がそれを証明しています。

 その他にも勇気を発揮しなくてはいけない局面は人生の中ではいろいろあります。
 気が弱そうで優柔不断で臆病そうな雰囲気を醸し出した時に、悪意のある人がいじめてやろうと攻撃してくることがあります。このように悪意を持った人を助長してはびこらさせないようにするために、その抑止力としても勇気が必要な事もあります。自分は謙虚なんだと正当化している人もいますが、実はそれが勇気のない意気地なしであるだけかもしれません。
 他人の批判や悪口をあまりにも恐れるあまり自己保身に入りすぎても駄目です。たとえ非難の雨・嵐が降り注いできたとしても、まず自分の今までの行動・方針をもう一度見直し、自分の心の中に一点の誤りもないと確信できたなら、迷うことなく勇気を出して断行していくべきです。批判や非難と言われるものの中には、相手に対する隠れた賞賛の裏返しであるケースもあります。もしかしたら周りの人が自分の成功に対して嫉妬・やっかみを言っているだけなのかもしれません。そうだと分かった場合は、自分を悪く言う人がいたとしても、自分を良く言ってくださる方もいるのだという観点も忘れず励みにしていくことです。

 ビッグバンという現体制の見直し改革を進めようとする時に、現状維持の価値観にとらわれて変化を好ましくないと考える方達の抵抗に合う事もあります。しかしそれでも多くの人々の喜ぶ調和された社会・組織をつくるためには、気力をしぼってこの勇気という武器をふりかざして前進しないといけない事もあります。
 『優しさ』と『勇気』の特性を単に分離するだけでなく、その共通部分を認識しその時の状況に応じた使い分けの妙を知って臨機応変に仕事をしていくことが望まれます。

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 NO.14 称 賛 99.4.1

 私達はうまく仕事ができて多くの人にすばらしいと評価・称賛を受けた時にとても喜びを感じます。
 中には有頂天になる人もいますが、そこに落し穴が待ち受けていることもあります。成功後の増上慢が転落の原因となるからです。今回の成功を謙虚に受け止めてさらに努力していこうと心がけるのならこれから先も大丈夫でしょう。ところがその実績が認められ、本来与えられるべき以上の立場が与えられた時に「これは当然の成り行きだ。いや、まだ自分は他人の評価が不足している。もっと優遇されてもいいぐらいだ。」という気持ちが芽生え始めた時が要注意です。
 そんな人の心象風景として「できるだけ自分を良く見せたい。自分をすばらしいと言ってもらいたい。」という他人の評価をさらに強く求めたい気持ちがあります。この気持ちが生じてくる根底には「他人が下がれば自分が相対的に上がるので、自分が偉くなった気がして嬉しい。」という発想があります。そしてその裏返しとして「他人が自分より偉くなれば、自分はそれだけ惨めになり、自分の価値が奪われた。」と感じてしまいがちです。

 人間はどんな人でも成功を求めたいという資質があります。成功するための野心や高い理想を求める考え方は文化・文明の開花する原動力となるので肯定されるものです。
 ところがこれに増上慢が加わった時に他人の幸せを願えない気持ちが芽生えてくる所が問題なのです。自己顕示欲でギラギラ燃えている人は、単に多くの人から称賛を得る事ばかりに思いが至り、他人への思いやりは忘れています。これは多くの人から愛情を奪いたい気持ちであり、悪く言えば精神的な吸血鬼の姿だとも言えます。

 自己顕示欲の奥底には劣等感が潜んでいることもあります。
 劣等感を抱いている人には2つのタイプがあります。劣等感ゆえに傷ついていてそれを不幸の原因としている人と劣等感の部分を補償・補完するためにそれをバネとして大きく道を開いていこうと背伸びをする人です。しかしどちらの場合も、それが心の傷となっていて安らぎはありません。

 劣等感の本質は自分は人から愛されていないという不満感かもしれません。
 「自分はこれだけの事をしたのだから、ここまでの評価は得て当然だ。」「自分はこれだけ相手に尽くしたのだから、感謝されて当然だ。」いつもこんなふうに考える習慣を持っていませんか?見返りを期待して尽くす行為は純粋な愛情に根ざしているとは言えません。
 劣等感に悩んでいる人が多いということは、愛情を求めている人が多いという事であり、世の中に遍満する愛の絶対量が足りないということです。これに気付いたらどんな境遇の人でもまず愛を与える事から始めていかなくては社会は活性化しません。

 私達は深く自分を見つめると足りない事がたくさんあるのに気付きます。未熟で至らない所は誰にもあります。成功を収めて有頂天になりそうな時も、まだ自分は完璧ではないのだと肝に命じて、目標・理想を追い求めるために次の出発点に新たに立ったのだと自分に言い聞かせましょう。いつも原点回帰できて仕事を励み続けることができた時、自分と他人の両方を生かしながら向上させていける繁栄の道が現われてきます。

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 NO.15 成功と失敗の分かれめ 99.5.1

 私達は、比較的成功をおさめてホっとした時に、ともすれば安易な生活に流れていつのまにか停滞型人生の中に埋没している事があります。過去の輝かしい実績が逆にあだとなり、自分はこのスタイルで良いのだという慢心がその人の成長を阻害して、世の中の移り変わりに対応できず転落の憂き目に遭う場合もあります。
 この時、現時点での自分あるいは自分の所属している部署の問題・課題を常に意識して、開拓していく領域・分野がどの方面にあるのか?自分の人生の前線基地はいったいどこにあるのか?を考え続ける人が、その次に大きな仕事を成し遂げるための出発点に立っていると言えるでしょう。

 未来に向けて進むべき方向が定まった時に自分を邪魔する障害となるのは何なのか?それをどのように克服していくか、という観点を常々忘れない事です。
 自分の進路に立ちはだかっている人がたとえいたとしても、その人は心底あなたを憎んで潰してやろうと考えているのでしょうか?大多数は本人が意識しないうちに結果的に相手を害してしまう場合がほとんどで、積極的に相手を潰してやろうと考えている人は少数です。刑法に触れる犯罪を犯した人であっても、事に及ぶまでの特殊事情や背景があって仕方がなかったのだと自己弁護する人がほとんどです。

 つまり、どんな人でも、自分を極悪人だと想定したくないと思っているのです。この心理は裏を返せば誰もが多くの人から愛されたいと願っているためだと言えます。
 愛されたい欲求が他人の欲求とぶつかり合った時に一時的に憎しみの感情が芽生えたり、興奮して相手を傷つけたりすることもありますが、いつまでも続くものではありません。時間に耐えればそのうちこの障害も新たな局面とともに乗り越えていけるのだと強く心の中で信じることです。そのためにも、常に創意工夫を怠らないことです。そして道を開いていけた時に、その感動を自分の人生のドラマの中で発見できた教訓として味わい、心に刻みこみ、少しずつでも伸びていける自分を再確認して道を楽しむことです。

 私達が人生の戦いにおいてできるだけ勝ち続けようとするためには、ある程度、今まで成功をおさめてきたんだと思わせる雰囲気を漂わせる必要があります。これは、自分の接するあらゆる事柄から教訓を学び、失敗の中から成功の種を探していこうとする積極的な姿勢を習慣づけることで自然と身についてきます。
 確かに、人生の途上で大事件に遭遇して苦しい事もあるかもしれないけれど、その苦難がやがて過ぎ去った時には心の糧として残っていくものです。失敗や苦難を乗り越えた上で手に入れた成功は格段の味わいがあります。

 世の中には、苦難や失敗の度に、多くの人の同情を受けるのを生きがいと感じている人もいます。仕事の上での些細なミスをものすごく大きな間違いのように受け止める人や、異性のなにげない一言を自分の全人格の否定のように捉えてしまう人もいます。いろんな考え方をする人がいます。なかには、仕事に取り組む前から自分が失敗した時の理由をあらかじめ考えてから行動を始める人もいます。
 こんな人の潜在意識には、成功して多くの人から誉められるよりは失敗して慰められる事でささやかな幸福感を味わいたいという傾向性があります。いつも言い訳を考えてばかりの性格は深層心理の分析からも決して本当の幸福感は味わえないと言えます。自分の中にもしもそのような性格傾向がある事に気付いたら、勇気を出して変えていくことです。自分はいつも積極的で開拓的で前向きであると自己暗示をかけて、そのような姿勢をかもしだすべきです。

 そして人生の途上においてすばらしい人に出会ったならば、素直に尊敬し良き資質を学んでいく。自分はこのような人にはなりたくないなという人に出会ったら、その人の欠点を研究して自分にもそんな所がないかを点検していきたいものです。反面教師として学び、自分はその逆をやっていこうと考える事が大切です。
 良い人とだけ付き合って嫌いな人とは会わないようにしたいのは誰でも一緒ですが、仕事の都合でどうしても顔を会わせなくてはいけない嫌な人もいます。人生で出会うすべての人がすべて学びの対象だという価値観を持った人にとっては、幅広い交際は自分の器を広げていける胸ときめく機会として映るでしょう。

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 NO.16 発展 99.6.1

 皆さんは『発展』という言葉からどのようなイメージを受けますか?現在の自分より能力が進歩した状態、知識が豊富に増えてきた状態、金持ちになった状態etc...。なかには良い仕事をこなして満足感・喜びの感覚が増していく事が発展だと思っている人もいます。
 共通して言えるのは、現時点よりも向上・進化していく姿をイメージしている人が多い事でしょう。その中には『発展』とは自分の事だけに限定して考えている人もいます。そんな人の考え方を探ると「自分が発展すれば、他人は発展を阻害され損をする。」という発想があります。こんな考え方をする人は本当の幸福感をつかむことはできません。

 個人としての成功しか考えない人は、他人の不幸を喜んだり、他人の幸福を妬ましく思います。不幸な人に対しては援助の手をさしのべるのが可能でも、その人が自分よりも幸福になっていくのを見たとたん手のひらを返すように、応援・祝福の気持ちが失せて距離を置いた付き合いに変わっていくケースもあります。虚しい生き方ではないでしょうか?他人が幸福を感じて素晴しい社会生活を営むのを目のあたりにして、どうして自分の不幸感覚が強くならなくてはいけないのでしょうか?
 真の『発展』の中には損得の要素はありません。損得を感じるのならまだ社会全体の幸福感の絶対量が足りないのです。「自分も他人も幸福感を増大していくのは可能であり、幸福とは限られた物ではないし、奪いあうものでもない。」という発想の転換が必要です。

 『発展』には、個人の向上だけにとどまらず、社会全体の進歩も平行して実践していくという意味があります。自己の発展的行為が、周囲の人々との不調和を作る原因となりそうだとわかったなら、いったん現状維持で踏みとどまるか、他の方法を模索して新たな発展の道を発見する配慮が必要です。
 それでは、自分も他人も発展していくためには各人にどのような心構えが必要でしょうか?

 まず最初に自分が不幸の生産者とならない事です。
 いつも暗い雰囲気を漂わせている人、暗い言葉を吐いてすぐに愚痴が出る人、明日は今日よりももっと悪くなると言って回る人、周囲には自分を裏切ったり虐げたりする人ばかりだと思っている人、他人の同情を乞う事ばかり考えている人etc...。これらの人々の心境には自分と他人が共に伸びていこうという発想はありません。もちろん客観的に見ても苦しいと思われる状況は誰にでもあるでしょう。しかしその時に、このようなマイナスの考え方を排して、どれだけ笑顔をふりまけるかが勝負です。実は苦しい状況の中にこそ、その後の人生に勝利できる鍵が埋もれているものなのです。

 『人生は1冊の問題集である。』という言葉があります。
 人生の苦難・困難はその人にしか解けない問題集です。他の人では解けない問題集です。その問題点こそがその人の人生がどんなものであるかを教えてくれるヒントなのだと思います。試行錯誤して努力して見事に解ききった時に人生のさらなる飛躍・向上がもたらされます。その経験から得られた教訓がその人にとっての貴重な宝物となります。この宝物は同じ問題で悩んでいる人を勇気づけ励ますためのすばらしい道具となります。自分の悩みだけにとらわれすぎず、他人の悩みに眼を向ければ、自分にも助けてあげられる言葉や行動にきづくはずです。その実践の時にこの宝物が役にたちます。苦しみや悲しみを透過してきた人は他人の苦しみが深くわかるという優しさがあります。このプロセスを通れば苦難というものも発展のための原材料へと転化されたと言えるでしょう。
 このような考え方を持つ人が増えていくのが発展的社会だと思います。

 仕事での発展も同様な事が言えます。
 単に自分の技能の向上だけで満足するのでは片手落ちです。仕事の成果が周囲の人にどれだけ良い影響を発揮できるかが大切なのです。個人レベルの成功で得られる喜びと多くの仲間と分かち合える成功の喜びとを比較してみてください。他人の喜びを増進できる業務に携わる事が自分の喜びの増大へとつながっていくのだと信じれる人は、発展的幸福に向けての出発点に立っているのです。これが本当の生きがいの発見です。
 私のコラムは、これを読んで人生の中でプラスになるヒントを手に入れ、喜んでいただける人が数多くできて欲しいなという願いをこめています。それが私の喜びだからです。

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 NO.17 自由と平等 99.7.1

 資本主義が社会主義に比べて優れている点として、各人の自由の意志で活動できる幅が大きい事があげられます。
 統制された社会主義の中では、民衆の個性は画一化され傑出した民が輩出されにくくなります。無個性の一律的価値観を持つ者同士が共同生活を営んでいった場合に、各人の求める価値観の需要は定型化していき、突出した営利・収益をあげるのには限界があり、その結果として経済活動の停滞を招きます。ロシア・北朝鮮が経済的発展をとげられないのは、社会主義・平等主義の価値観だけで民衆が染まりきってしまったからだと思います。

 それでは資本主義社会と言われる日本ではどうでしょうか?
 戦後の経済発展はめざましいものがありました。しかしバブル崩壊後の金融業界を中心とした経済的混迷を見ると、日本の経済人の中には経済活動の自由の意味を取り違えていた方も多かったのではないかと思います。アメリカと比較しても日本の資本主義には、一律平等主義・共産主義の思想をできるだけ盛り込もうとする多くの人達の意図を感じます。特に日本人は近年『差別』『弱者救済』を重視しすぎたきらいがあり、その結果、優れた才能を持った人の芽をつぎとってしまうシステムが構築されつつある危険を感じます。
 例えば若い人の場合、いじめの対象になる人は、昔は成績が悪かったり容姿が劣ったりなどの欠点のある人だったのが、今ではその他にも成績がずばぬけて良かったり、他の生徒よりも目だって個性が強い人へと対象が広がってきています。日本人のこのような行動変容の根底には自分より優秀な人に対する嫉妬心があると思います。流行を追い求めると言う人の中には、自分の嗜好に基づいて自然に求めているのならいいのだけれど、潜在意識では「他の大勢の人達と同じファッションでないと不安だから隣の人に合わせる。」という主体性の足りなさが目につきます。

 小学校の運動会のかけっこでも、最近は練習の時に前もって疾走タイムを測っておいて、本番ではタイムの近い者同士で走らせる所が増えてきました。このやり方を推奨する先生は「びりけつの人がかわいそうだ。」とコメントしています。しかしこれでは逆に努力して速く走れるようになった人が評価されずかわいそうだと私は思います。このままでは練習して速く走ろうという意欲を持った生徒はいなくなるでしょう。このような平均化の追及がエスカレートしていけば、運動会での競技はなくしてしまったほうが良いという極論に至るかもしれません。
 大人社会を見ても不思議な現象は多々あります。例えば累進課税制度です。現在の日本の税制は高収益の人の税率は外国と比べてもだんとつに高く、なるべく多く稼ぐ人から多く税金を取ろうという発想ですが、これも度を過ぎると悪しき平等主義に転落するきっかけになります。これらの社会構造は欧米の人の眼で見れば信じられないシステムであり、日本は資本主義と平等主義の二律相反する価値観が同居しているように思われています。

 自由と平等の価値観は、耳触りは良いのですが現実には両立しません。
 なぜなら、自由の基に行動を起こしそれなりの成果が得られた人に富(報酬)が集まるのは当然の帰結であり、差が出てくるのはあたりまえだからです。努力の上で手に入れた富は善なのです。ゆとり教育を強調して学歴競争社会を悪く言う人もいますが、どんな身分・境遇の人でも努力して勉強すれば、その成績に合わせて良い学校に入れる可能性が開かれているという意味ではとても公平なシステムです。将来への成功に向けての「可能性としての平等」「機会としての平等」を唱えるうちは良いのですが、「結果としての平等」を強調し始めた時から社会は衰退期にさしかかっていると言えるでしょう。
 このまま放置すれば破滅型人生を歩んでつぶれてしまいそうな人に対して弱者救済として手をさしのべるのは必要なケースもありますが、本人が自力で立ち上がって自助努力の姿勢で克服し伸びていける可能性があるのであれば、現在はいくらか能力的に不十分であっても、長い眼で見ればやや突き放して見守ったほうが教育的効果が大きいケースもあります。
 なかには平等主義は日本の特色だと言う人もいますが、日本の長い歴史を調べてもこのような時代はほとんどなくて、世界の一般的常識の視点から考えてみても異質な現象だと思われます。戦後の共産思想の影響を受けて日本人の常識が歪んでしまったのだと思います。

 また、マスコミによる有名な政界人・経済人などへの批判報道の中には過剰で度の過ぎた場合もあります。偉い人に対する嫉妬心の反映のように思える報道もあります。
 しかもどこかの報道機関が言い出すと、他のすべてのマスコミも同調して足並みそろえて画一的に騒ぎ出します。いろんな事件は真実を探る過程ではもっと多様な見方があっても良いはずなのに、なぜか同じ様な内容の記事の羅列が多いのが日本的特徴だと思います。これは独自の情報源や視点を持たないマスコミにとって、他社に比べて報道面で劣っている部分をカモフラージュしているともとれるし、あるいは便乗したほうが楽だという表われともとれます。独自の記事を出すのは勇気がいるし、他のマスコミの報道に合わせないと心配だという考え方もあるでしょう。
 この自信のない報道姿勢が生じる根底として、日本人の心の中に本当に信頼できる精神的支柱が欠如している事も一因だと思います。

 民主主義の中で重視される多数決の原理は多くの人々に支持されていますが、多くの人々の行動様式が正しい時代には大きな威力を発揮しますが、現代の様に価値観が氾濫している時代では、この考え方だけを重視すれば体制の悪化・混乱を助長する原因となることもあります。
 ですから、少人数の一見異説と思われる意見の中にも「それをくみ取ってヒントにしていけば社会制度がもっと良くなる題材が埋もれているかもしれない」という視点を忘れないことです。その可能性がいつもありえる事を配慮して、聞く耳を持つことです。決して「前例がないから」という理由だけで反故(ほご)にしないことです。特に現在のように社会システムの革新が叫ばれている時代こそ、少数の価値観を持った考え方が未来では主流になる可能性が強いと思われます。明治維新の改革も、それを断行したのは日本人の中でもほんの一握りの少数の人々(約3000人)の大志と勇気ある行動から始まりました。
 いつもアンテナをはって、社会現象の中でその兆候を早くからつかみ、システムの変革に早い段階で着手した人(企業)こそ来世紀の成功者となれるでしょう。そのためにも新しく役に立つ情報をいつも数多く取り入れて現在の自分の固定観念を入れ替える事のできる各人の柔軟な頭脳が要求されます。

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 NO.18 1日1生 99.8.2

 時には寝床につく前に今日自分の周りに起きた出来事を振り返ってみると、なぜ自分はあの時にあのように考えてあのような行動をとったのだろうか?もっと良いやり方があったのではないだろうか?と後悔する事も多いだろうと思います。
 人間は間違いを犯しても余裕がある時はその場で気づいて修正できますが、毎日忙しくバタバタと追いまくられるように働いている人にとって、自分を省みる余裕がなく、数日経つと記憶も次第に薄れていき、反省しても実感がわかなくなる傾向にあります。嫌な思い出も自分の間違いも時間の流れの中で自然と消えていくのだと勝手に解釈している人もいます。しかしこれではせっかくの失敗が教訓として生かされません。
 この2つはそれぞれ両極端なケースであり、どちらの考え方も不幸な人生観に陥る発端となります。この両極端を排した中道的価値観を大切にしていただきたいものです。

 毎日積み重ねた考え方の間違いは、日々少量のひ素を摂取しているようなものです。小さな塵も蓄積して巨大化した歪みになった時は一朝一夕には修正できません。毎日その都度、少しずつ修正していく努力が大きな実を結ぶ事となるでしょう。

 また、人間は将来の事が不安になります。多くの人の悩みの内容を分析してみると、現在只今をどうするか?という事ではなくて、漠然と未来の不幸を予想したり数年後の悩みを考えているケースが多いものです。
 本当に今すぐ片付けなくてはいけない悩み事は意外とそれほど多くありません。将来起こると予想される出来事も、事前に準備しておけばそれほどの問題とは感じないものです。何かトラブルが起きてもその時に臨機応変に考えて対応していこうという主義の人にとって、これは大問題ではなくてただ単にエキサイテイングな体験でしかありません。ですから取り越し苦労はその人の性格によるところが大きいと思われます。

 過去の事で悔やんでも悔やみきれない悩みを持っているという人も、毎日考え続けたなら決着つくというものでもありません。それはただ単に悩みの拡大再生産をしているだけなのです。誰かに失礼な事を言ったと思い立ったなら、できればすぐに直接会って謝ることです。会えなければ心の中で相手の姿を思い浮かべ、「ごめんなさい。」と手をついて謝ることです。そして一旦謝ればその悔恨の思いは断ち切って、視点を未来に向けることです。
 現在悩んでもしょうがない事を瞬時に選別して捨て去れるならば、身軽で心地よい人生観を持って歩んでいけるでしょう。

 悩みから脱出するもう一つの方法として細かく分断するというやり方があります。大きな山のように考えるから大変な問題のように思えるだけで、分断された一つ一つの問題はそれほど困難なものでもありません。悩みの分断がうまい人こそ人生の達人だと言えるでしょう。
 自分の一生をどうすれば最高度に輝かせる事ができるかを考えると、途方もなく難しいように思えますが、一日一日を地道にたんたんと歩んでいけば、その延長上に輝ける人生がもたらされるんだという希望を抱きたいものです。平凡で怠惰な毎日を後悔の念にとらわれて過ごすのではなく、起床時は「さあ今日は何を発見し工夫していこうか。」と希望に胸ふくらませて一日を始め、就寝前は「今日一日の体験から明日に生かせる工夫はないか。」を考えて一日を終わる。
 一日を一生の枠で考えて日々新しい出発を繰り返す習慣がある人は、いずれ人生の勝利を手に入れる事ができるでしょう。

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 NO.19 企業精神 99.9.1

 会社企業の定款には「内の企業はこういう事業をする。」ということが必ず書いてあり、その目的は利益の追及となっています。利益の追及は企業存続のための最低必要条件であり悪い事ではありません。しかしここで私は「利益をあげたらその会社は次の目的として何を求めているのでしょうか?そこの企業人達は心の中で何を考えているのでしょうか?」と問いかけたいのです。

 利益とは、本来は悪でも善でもない価値中立的なものです。それが善になるか悪になるかは、どのような目的のためにその利潤が運営されるかにかかっているのです。
 提供される物やサービスが多くの人が喜び役にたつ方向に使われば善の利益ですが、企業活動の過程と結果において、多くの人の生活を乱して心の荒廃を促し環境を破壊させる方向に使われるのであれば、本当の意味での会社の発展・繁栄とは呼べないでしょう。企業人達がその利潤をどのように使おうかという動機も鍵となります。

 特に大切なのは、会社を引っぱっているリーダー達の心構えです。
 仕事能力が高い管理職がいることは会社事業が円滑に流れるための潤滑油になるので大切な条件の一つですが、それだけでは不十分です。才能のある人は他の多くの人を指導することができます。ところが優秀な人は他人の長所・短所が良く見えすぎる所もあります。部下を評価するのは上司の業務の一つですが、上下感覚が鋭くなってきて他人の粗が見えすぎるようになった時が要注意です。
 この段階で満足して器が大きくならなかった時は、自分の立場や会社組織を守ることだけに固執して、人を物や機械の様に冷たい心で扱う傾向が出てきます。経営者の多くがこの部分で行き詰まっています。
 この境涯を乗り越えるために必要なのが、我慢を伴った許す愛です。最初から完璧な人はいませんし、注意してすぐにできるようになるとは限りません。能力はあるのに個性が強いために不適応をおこしている人に対して、その欠点を許して調整し長い眼で伸びていくのを見ていこうと達観していく忍耐が必要な事もあります。

 会社でも出世をめざす人の心の中を覗いてみると、大きく分けて次の2通りがあります。
 第1のタイプは、ただひたすらできるだけ自分への評価・成果・報酬を得るためだけに頑張る人です。動機の中味は自分への利益ばかりで満たされ、他人への利益は考えていません。他人に対しては悪口・愚痴・不満や環境への不満の感情しか出てきません。
 第2のタイプは自分が仕事の実績をあげる事で他人がどれだけ益するか、会社にとってどれだけ喜ばしい結果がでるかの視点で考えて行動できる人です。このタイプの人にとっての『出世』とは、自分の力を十分に発揮させて会社にもっと貢献するための手段としての意味を持ちます。

 皆さんは毎日心の中でいろんな事を考えてきたでしょうが、その内容についてじっくり吟味してみたことはあるでしょうか。毎日忙しくて自分の事を考えるのに精一杯で他人の幸福なんて考える余裕はないという人もいるでしょう。
 しかし、他人や社会の幸福を考えて行動する人には不思議と他の多くの人からの助力・信頼感が集まってきますし、このようなプロセスを経て出世した人には末永い幸福感を受け取る事ができるという、世の中の一般法則があります。他人への思いやりにどれだけ時間を費やしたか?他人を生かす方向で、許す方向で、慈しむ方向でどれだけ考えてきたか?その総量が徳となってその人をさらに押し上げる原動力となります。
 現在の数多くの指導者に要請されている大切な資質です。

 ブリヂストンの創業者である故・石橋正二郎氏は『最高の品質で社会に貢献』の社訓をのこし、この言葉を記した額縁が現在も社内のいたるところで掲示されています。現在のブリヂストンはまだ決して最高の品質を達成できているとは社員一同思っていませんが、このような理想・目標を描いて努力している各社員の結晶が、会社繁栄の原動力となっているのは確かだと思います。

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 NO.20 人生の意義 99.10.1

 数十年の人生を送り晩年になって振り返った時に、有意義で充実した人生だったと思えるには一定の条件が必要です。

 第1の条件は、周囲の人から「あなたがいてくれて良かった。」と言われる事です。
 逆に「いなければ良かった。」と思われれば最後です。存在悪のように言われるのなら生まれてきた値うちはないことになります。

 第2の条件は、人生の足跡を眺めてみると、自分はこれだけの積極的な物・事業を努力して残してきたという客観的な成果・痕跡を目に見える形で残してきた事です。
 仕事に生きる男性なら数字に裏うちされた実績でその達成状況を確認できるでしょう。主婦であれば家族(両親・夫・子供)の家庭内の満足度を見てユートピア達成度を測る事も可能でしょう。

 第3の条件は、自分の人生から培われた固有の思想を持つことができたかどうかです。
 多くの人にとって書物に残せる思想を披露したり、他人が客観的に学ぶ事のできる論文を書くのは難しいことです。そうではなくて「自分は数十年の人生でこのような教訓をつかんだ。この教訓は自分の後から来る人達にも参考になる価値あるものである。」というものをつかむことです。この内容が普遍性をもつ思想である程、後世の人達にとっての救済力は高まります。
 「今あなたにとっての教訓は何ですか?」と問いかけられた時、明確に他人に説明できるでしょうか?思想とは何もせずにある日突然と生まれてくるものではありません。前提条件として、普段から学習し情報を集めて考えて実践にうつし、その後得られた成果について成功・失敗の分析を繰り返す...その体験の積み重ねで得られたヒントが材料となって、すばらしいアイデアがインスピレーションとして浮かび、それを心の中に刻んで整理し、体系化したものが個人の思想となるのです。

 私の論考も皆さんが固有の思想を持つための題材としてもらって結構です。なるだけ多くの人にとって普遍的でためになる考え方を記しているつもりです。もちろん各人の置かれた特殊環境・個性・能力・職種によって思想は様々な色合いを持つことでしょう。その中でも多くの人にとって参考になる役に立つ思想をなるべくたくさん産み出したいものです。

 この思想が高まっていく状況を「悟り」という言葉で表現しても良いだろうと思います。
 果物や花にも独特の香りがあるように、皆さんの放った悟りの香りは周囲の人に何らかの余韻・良き影響をもたらします。そして各人の放った香りの総体が世の中の雰囲気を決めています。その香りが腐った臭いで不快なものであれば住みづらい世の中となるでしょう。しかし素晴しい香りが漂えば社会全体が潤い、幸せな人も増えていくでしょう。
 心地よい香りを放ち続けたという実績があれば、自分の人生は有意義だったと述懐できるでしょう。
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NO.21から後を見る

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