経済人コラム



 YOS.VOL.1 アメリカ・ウォッチング(NO.21からNO.30まで)
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 [執筆者]
 吉崎達彦
 [紹 介]
 1960年、富山市生まれ。[直通電子メール
 一橋大学社会学部卒業後、企業PR誌編集長、シンクタンク研究員、経済団体職員などを歴任。現在は大手商社の調査部に勤務。共著に「日本の外交政策決定要因ーPHP研究所、1999年」。



 NO.21 カローラとアコード 98.9.1

 旅行で出かけたロサンゼルスのリトル・トーキョーで、レンタカーを借りたことがあります。
 日本では80年代前半によく売れていた、1500CCのセダンのカローラでした。黒い車体には無数の擦り傷があって、あっちにもこっちにも黒くない部分が出来ており、明らかなへこみもありました。これから助手席に座る予定だった女性は、露骨に嫌な顔をしました。仕方がないから担当者にクレームをしてみました。
 「ほかに小型車はないの」、「ありません」、「ここんとこなんか、へこんでるんだけど」、「分かりました。契約書に記載しておきますから、返却のときにあなたがつけた傷でないことは証明できます」、「(むっとして)そりゃ当然だよ」、「(無視して)ご承知かと思いますけど、ガソリンは満タンで返してくださいね」

 なんともいい加減なレンタカー屋でした。
 ところがエンジンのかかりはさすがカローラ、イグニッションを軽く回しただけで快調な音を立て始めました。走行距離は約10万キロ。日本のレンタカー屋なら引退確実の、歴戦のつわものといった感じでしたが、アクセルを軽く踏むだけで車体が敏感に反応する整備状態のいいクルマでした。何よりハンドルを握った瞬間に、「昔からこのクルマを知っている」ような安心感があったことは、知らない町でレンタカーを借りる身の上にはまことにありがたいことでした。

 結局、筆者はそのカローラを運転してサンタモニカに行き、そこで同乗した女性を降ろし、それから高速に乗ってロングビーチまで行って約束していた友人に会い、いささかの観光なども済ませ、夕方にリトル・トーキョーに帰ってきました。生涯初のロサンゼルスでのドライブは、こうして無事に終わったわけです。不思議なもので、クルマで走った町のことはいつまでたっても覚えています。風景、出会った人たち、そしてどんなクルマで、どんな気分でハンドルを握っていたのか。アメリカではいろんな町でレンタカーを借りました。いつも良心的で、相性のいいクルマばかりとは限りません。実際、運転していて「なんだよ、これは」と思ったことは1度や2度ではありません。そのほとんどはアメリカ車でしたが。ロサンゼルスで乗った大ベテランのカローラは、大当たりというか、実にいいクルマでした。

 カローラは1966年、英語で「花の冠」という意味から命名されて誕生しました。クラウン(1955年、語源は英語の「王冠」)、コロナ(1957年、語源は英語の「太陽の冠」)に続く主力車種として登場し、大衆車としての不動の地位を確立しました。余談ながらトヨタの主力車種のひとつであるカムリ(1980年)は、そのものずばり日本語の「かんむり」から命名されたそうです。「意味は冠で、Cで始まる名前」が、トヨタ車成功のジンクスのようです。
 カローラは国内の生産台数でも登録台数でも、2位以下に大きく水をあけた首位を続けているロングセラーです。最近はキリン・ラガーとか、少年ジャンプとか、かつて「ガリバー」と呼ばれた商品が不振になる傾向がありますが、カローラに関してはそういう話を聞きません。累計の輸出台数は990万台に達するそうですから、おそらく今現在も世界中で何百万台ものカローラが走っていることと思います。この間に何回のモデルチェンジがあったか知りませんが、クルマという人の命にかかわる商品で、これだけの信頼を得ているのはすごいことだと思います。

 さて、在米時代の筆者が自家用車としていたのはホンダ・アコードでした。
 1988年の4ドアセダンで、つい最近までそこら中で走っていたタイプです。アメリカでは毎年恒例のベストセラー・カーで、最近になってフォードのトーラスに1位の座を譲りましたが、顧客満足度調査ではかならず上位にくるクルマです。が、なぜか日本ではさほど人気がありません。現に生産台数でも登録台数でも、国内ではベストテンにさえ入りません。「アコードは、アメリカで人気があるからモデルチェンジができず、そのために日本ではますます売れない」という不思議な現象があったほどです。

 これは日米でクルマに対する評価基準が違うからでしょう。
 アメリカで体験するアコードは、機能といい安定性といい、価格といいスタイリングといい、ハンドルの軽さといい燃費のよさといい、あらゆる面で不満のないクルマです。取りたてて個性はありませんが、少なくとも走るという基本性能に関しては非の打ち所がない。また、中古車市場がしっかりしているアメリカでは、リセール・バリューが高いのも美点のひとつでした。一言でいってしまうとリーズナブルなクルマという印象があります。
 ところが不思議なことに、日本に帰ってきてホンダベルノ店を覗いてみると、そこに並んでいるアコードは右ハンドルであること以外はアメリカと同じなのに、今一つぱっとしない上にいささか割高な値札がついているのです。むしろシビックの方が魅力的に見えてしまうのは、いったいどういう理屈なのでしょうか。おそらくアコードは、ほとんどアメリカ市場が育てたクルマだからなのでありましょう。筆者が乗っていたアコードは、オハイオ州の工場で作られた米国仕様車でしたし、今でもクーペとワゴンのアコードは、日本で走っているのも含めてすべて米国産のはずです。本田技研は日本の企業であるにもかかわらず、これだけアメリカ人のテイストをつかんだクルマを生み出したということは、これもまたすごいことだといわざるを得ません。

 アメリカにおけるクルマ環境には、日本にない要素がたくさんあります。安いガソリン、どこにでもある駐車スペース、広いけれどもけっして平坦ではない道路、料金を取らない(もしくは極めて安い)高速道路、州ごとに違う免許証と交通法規とナンバープレート、高い自動車保険料とたくさんの無保険車、やたらと多い窃盗事件と様々な防犯用具、そして人口比で日本の倍以上の交通事故死者数など。アメリカはまた、自動車文化の祖国でもあります。そもそも"Automobile"という言葉も米語として誕生しました。かつて西部開拓時代の馬が、人々にとって単なる移動手段を超えた存在であったのと同様に、自動車は現代アメリカ社会において生活手段以上のなにものかとなっています。
 平均的なアメリカ人のライフスタイルを評して、よく「牛乳1本買うのにもクルマで出かける」という表現があります。これをもって不健康だとかエネルギーの浪費だと批判することもできますが、人口の大部分が公的交通機関の届かない場所に住んでいる現実を考えれば、日常的にクルマとつきあうのは必然的なことといえます。「週末に1時間だけ乗って、1時間かけて磨く」ような日本のドライバーとは根本的に価値観が違ってきます。こうして世界一クルマを愛する、クルマにうるさいアメリカの消費者が成り立っているのです。

 日本の自動車メーカーはこの厳しい市場での競争に参加し、かくかくたる戦果を収めてきました。1996年のアメリカでの乗用車販売台数は、トーラス、アコード、カムリ、シビックの順になります。ベストフォーのうち3つを日本車が占めているのです。ちなみに、同じ年の日本における乗用車販売台数はカローラ、クラウン、マーチ、スターレットといった顔ぶれが並びます。日米のこのギャップ、まことに興味深いものがあります。
 もし、トヨタや本田が日本市場だけで勝負していたら、つまり日本の道路を走る日本人向けのクルマだけを作っていたら、とても今日のようにはならなかったでしょう。両社が今日、グローバル企業として高い評価を受けているのは、アメリカの道路を走る、アメリカ人のためのクルマを開発してきたからだと思います。カローラやアコードは平凡なクルマですが、この偉大なる平凡さを生み出してきた日本人は、きっと平凡で偉大な人たちなのでしょう。普通のセダンとクルマのある生活を愛する一人として、彼らに心から拍手を送りたいと思います。

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 NO.22 曲がり角の米国経済 98.10.1

 「台所を片づける仕事とは、ファーストフードの紙袋を捨てることである」
 「長い間両親と連絡を取っていないのは、彼らがe-mailアドレスを持ってないからだ」
 「今日こそはお昼を食べなきゃ、お風呂に入らなきゃと思っているが、つい忘れてしまう」
 「社内便を郵送したときの中2日は、耐えがたいほどに遅いと感じる」
 「色とりどりのポストイットを見て、自分の考えがまとまったと思う」
 「土曜日になるとうれしくなることがある。――明日は普段着で出勤できるぞ!」
 「日常の出来事を説明するにもパワーポイントが必要だと感じる」
 「自動販売機でお昼を済ませた日に、夜は街一番のレストランに行くことがある」
 「ご近所さんよりも空港の係員の方をよく知っている」
 「今日は半日仕事、という日は5時半に仕事が終わる」

 これらは最近の米国製ジョークで、「あなたが90年代に生きているしるし」と題されているものです(例によってちょっと「意訳」しております)。米国経済が絶好調を続けているために仕事は忙しいし情報通信革命にも追いつかねばならないし、みなさん大変に忙しいようです。日本でもバブル期には「24時間戦えますか」というCMが流行りましたが、あれと似たような状態が生じている様子です。80年代末期の日本と、今日のアメリカに共通するのは以下のような現象です。

 ・ 会社ではみんな忙しく、慢性的な人手不足
 ・ トレンディなスポットはどこも満員
 ・ 財テクがブームで周囲には株成り金が大勢
 ・ 大規模な企業のM&Aが続出している
 ・ 高額消費がさかんで、世の中全体がなんとなく浮ついた感じ

 では米国経済はバブルなのでしょうか。また、バブルだとしたらいずれ崩壊するのでしょうか。バブル崩壊後のつらさを身にしみて知っている日本人としては、ちょっと気になるところではあります。
 今月はこの問題について真面目に考えてみます。

 「バブルの経済学」(野口悠紀雄著)の定義を使うと、バブルとは株価なり地価なりが、利回りでは説明できないほど高い状態になることを意味します。利回りを計算するには、株価であればPER、地価であれば収益還元法という尺度がありますが、こうした理論値が無視されるようになり、「みんなが上がると思うから上がる」ような現象をバブルと呼ぶわけです。

 ただしこういう状況になると、「高値を説明する新しい尺度」が登場したりしますから要注意です。いわゆる「後づけの理屈」というやつですが、これを著名なエコノミストがしたりするので、ついだまされることがあります。後から考えれば庶民の直感が正しかったということは、よくある話です。

 さてウォール街の株価は、7月のダウ9337.97ドルを最高値に下落し、現在は8000ドルを挟んで上下しています。ここからアメリカ発の世界同時恐慌を懸念する人が増えています。たしかに上値が限られているときの株価は下値を試そうとするものですが、筆者は株価が7000ドル台を大きく割り込んで下げる可能性は低いと見ています。

 なんとなれば、PERから見るとダウ8000ドル前後は20倍程度とほぼ妥当な水準であるからです。これとは対照的に、日本の株式市場は日経平均1万3000円台と低迷していますが、企業業績から考えるとまだまだ高いという見方もできるのです。
 またミューチャルファンドなどを通した「安定株主」が多い米国市場に比べ、企業の持ち合い解消が続いている日本市場は需給関係が悪すぎるという比較もできます。いずれにせよ、「アメリカは高過ぎるから下がる、日本は安すぎるから上がる」という見方は、単純すぎるようです。

 米国経済はまだまだ大丈夫と考えられるもう一つの材料は、いざとなれば政策当局には「利下げ」と「減税」という手が残されていることです。利下げについては案の定9月29日に実施されましたが、この秋中にもう一段の利下げもありうると思います。
 また、米国財政収支は1998年度に29年ぶりに黒字に転換しますから、議会共和党を中心に減税を推進する動きが急を告げています。おそらく11月3日の中間選挙までには減税の実施が決まる公算は大と考えます。

 こうした利下げと減税効果は、1991年から続いている米国景気の拡大局面をさらに持続する効果をもたらすでしょう。幸いなことに世界的なデフレ現象も手伝って、米国内にはインフレをもたらす懸念は低くなっています。景気刺激策を行ってもインフレを引き起こす可能性は低そうです。また(日本と違い)、政策当事者が現下の世界経済の不安をしっかりと把握していることも大きな信頼材料です。

 と、以上はエコノミストのはしくれとしての筆者のオフィシャルな分析ですが、ここで冒頭に挙げたジョークをもう一度思い返してみましょう。好況でアメリカ人は疲れ始めたようです。こういうときは、そろそろ不況が恋しくなるときです。
 経済は所詮気の持ちよう。米国経済は徐々に減速に向かい、景気は下降曲線をたどるような気がします。こちらは庶民の素朴な直感というやつで、経験的にいってこちらが当たる方が可能性が高いのはなんとも不思議なところです。

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 NO.23 アメリカ型資本主義・再考 98.11.2

 今から5年ほど前に、「資本主義対資本主義」という本が評判になったことがあります。この本の趣旨は、冷戦は終わって「歴史は終わった」という人もいるけれども、それは資本主義対社会主義の対立が終わったに過ぎず、これからは資本主義同士の競争の時代に入りますよ、ということでした。

 資本主義にはいろいろなタイプがあり、とくに米英を中心とした純粋資本主義とも言うべき「アングロサクソン型」と、独仏に顕著な労資の協調を重視する「ライン型」には大きな差がある、と同書は指摘します。著者がフランス人経営者であることも手伝って、後者に肩入れしていることが興味深いところです。もちろん世界には、80年代に輝かしい成功を収めた「日本型資本主義」もあるわけで、90年代は資本主義同士の競争の時代、という指摘はまったく正当であったと思います。

 さて、それからわずか5年しかたっていないのに、今となっては「アングロサクソン型」が、ほぼ完全にこの競争の勝利者となりつつあることに驚かされます。
 欧州を代表する企業であるダイムラーベンツがクライスラーと合併するなどというのは、いかにアングロサクソン型が世界の主流になっているかを示している事例といえるでしょう。今やドイツやスイスの大企業の間では、取締役会を英語で行うところが多くなっているようです。

 具体的に「アングロサクソン型資本主義」なるものの特徴を挙げてみましょう。
 このページの読者にとってはとくに真新しい話は少ないと思いますが、90年代におけるアメリカ経済の成功は、以下のような経営手法によってなしとげられたものです。

・ 株価重視経営――経営の成功不成功の尺度として株価を重視する。
 ストック・オプションなど、高い株価をインセンティブにする手法が発達している。成功報酬の高さは、ベンチャービジネスへの参入を活発にする。

・ ROEの重視――投資効率を重視する。
 単純に規模の拡大を目指すよりも、儲かる仕事を選んで行う。儲からない事業は大胆に切り捨てる。事業を再構築するためにM&Aもさかんに実施する。これらの決断が非常に迅速に行われることも特徴。

・ 投資家の保護――企業は株主のもの、という原則が明確。
 そこでコーポレート・ガバナンスの確立、ディスクロージャーの徹底、企業格付けの制度など、投資家を保護する仕組みができている。

・ 労働者の軽視――企業のトップとボトムで賃金の差が大きい。
 労働組合が弱く、経営者はリストラのために首切りをすることに抵抗が少ない。労働市場の流動性が高く、企業年金などは会社を移っても不利になりにくい仕組みができている。

 アングロサクソン型が勝利者となったのは、一言で説明すれば「グローバリゼーション」によるものといえるでしょう。
 冷戦が終わって世界の壁が崩れたあとは、国境を越える資本の自由な動きが加速するようになりました。そうなるとマネーはリターンの高いマーケットに集中します。投資家にとっては、自分たちを優遇してくれるアングロサクソン型のマーケットは、利回りの低いライン型や、透明性の低い日本型のそれよりも魅力的に感じられます。かくして世界のマネーがアメリカに集まるようになり、ニューヨーク株式市場は繰り返し高値を更新し、アメリカ企業に潤沢な資金を提供するようになりました。

 この間、途上国は自由化や民営化を競い合うようになり、有望な地域には先進国のマネーが大量に投資されました。いわゆるエマージング・マーケットはこのようにして形成されました。とくに東アジアは製造業の拠点が次々と建設され、「世界の成長センター」と呼ばれるようになり、90年代前半は高度成長の黄金時代となりました。これもまた、グローバリゼーションのおかげであったといえるでしょう。

 こうした歯車が狂い違いはじめたのは、アジア通貨危機が発生した昨年7月からです。タイの通貨バーツが、マーケットの売り圧力に耐え切れず変動相場制に移行してから、アセアンや韓国の通貨と株が暴落するようになりました。今年8月にはロシアでも金融不安が発生。間もなく中南米にも混乱が波及し、国際的なマネー市場の危機は全世界に広がってしまいました。

 こうなると現金なもので、グローバリゼーション自体が悪であるかのような受け止め方がされるようになってきました。最近は欧米のマスコミでも、"Global Capitalism"という言葉は否定的なニュアンスで使われるようになっています。
 とくにヘッジファンドという貪欲な存在が、世界の金融システムを不安定にしていることが問題視され、国際的な短期資金の流れを規制すべきだという考え方が勢いを得ています。マレーシアのマハティール首相などは、ヘッジファンドこそ諸悪の根元と批判し、自国通貨リンギットの交換を規制するようになりました。

 しかし1997年までの東アジアの繁栄を可能にしたのも、国境を越えるマネーの力だったわけですから、あまりに手のひらを返すような態度をとるのもいかがなものかと思われます。直接投資は歓迎するけれども短期資金は欲しくない、という気持ちは理解できますが、実際問題としては非常に難しいでしょう。「投資」と「投機」の線引きを、誰がどうやって決めるのか。それを考えるだけでも、規制が困難であるのは明らかです。ヘッジファンド自体もなぞめいた存在であるだけに、いわれのない批判を受けているように思われます。

 現在の国際金融マーケットの問題は、典型的な「市場の失敗」です。しかし市場の失敗は、やがて時間が経てばそれ自体のメカニズムによって安定に向かうでしょう。それは過去の歴史が示すところです。
 それよりも恐いのは「政府の失敗」であり、社会主義政権や独裁政権がどれだけ長期間にわたって国民を不幸にした か、いくらでも実例を挙げることができます。仮に各国政府が今回の「市場の失敗」に過剰に動揺し、グローバル化を否定して保護主義に走るとすれば、それはまごうことなき「1929年の再現」となってしまいます。「市場が駄目だから政府の出番」という発想は、単純すぎると同時に危険な考え方だと筆者は考えます。

 とはいうものの、アングロサクソン型資本主義に一定の限界があることも、われわれは心得ておくべきでしょう。たしかに成熟した先進国であるアメリカのような経済では、このモデルは非常にうまく機能します。とくに時代の先端をゆくIT産業などにとっては、アングロサクソン型の仕組みは好都合です。即断即決のスピード経営、株式公開による資金調達、社員の高い流動性などのアメリカ企業の経営スタイルは、これまでのIT産業の発達に重要な役割を果たしてきました。

 しかし発展途上国にとってはどうでしょうか。資本の蓄積がなく、国民の生活レベルが高くなく、労働者の技能も限られているような国では、純粋資本主義の原理を実践すれば昔の植民地主義に近い状態が実現してしまいます。そもそもアングロサクソン型には、「産業の育成」とか「雇用の安定」といった発想が欠如しています。「儲からなければすぐに手を引く」という経営をやっていたのでは、自国に国際競争力のある産業を育てることは不可能ですし、失業の増大が社会を揺さぶってしまいます。

 途上国がテイクオフする時期には、アングロサクソン型では足りない何かが必要なのです。
 何よりアメリカ自体が、19世紀には高い関税を課し、自国産業の発展を第一義に考える国だったことを忘れてはなりません。この点で、わずか半世紀の間に途上国から一気に先進国に駆け上がった日本のケースは、経済の高い成長と貧富の差の少ない社会を同時に実現した意味で、有力なモデルであることは疑いないのですが、あいにく金融問題に代表される最近の体たらくでは、諸外国の信頼を得ることは難しそうです。

 ひとつだけいえるのは、資本主義同士の競争はまだまだ終わってはいないということでしょう。アングロサクソン型に対抗できるモデルの登場が待たれています。

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 NO.24 タウン・ミーティングの効用 98.12.5

 先月、クリントン大統領が訪日しました。日米首脳会談もあったようですが、何を話したのやらよく分かりません。今回の訪日に当たり、米国側は「日本政府よりも、市民と直接話がしたい」と事前に申し入れてきたそうです。公式訪問だというのに、相手国政府はどうでもいいというわけですから、考えてみれば失礼な話です。ただ、小渕さんと話したところで、楽しくもないし手柄にもならないと先方が考えるのは、十分に納得できることですので、この際とやかく言うのはやめましょう。そして実際、TBSのニュース番組に登場したクリントンは、見事な政治ショーを演じてくれました。

 実は筆者はあの番組を見ていません。しかしTBSのホームページでは、番組のスクリプトを日英両方で掲示していますので、これを読みました。非常に面白く感じました。
 ご関心のある方は、[http://www.tbs.co.jp/uspresident]をご覧ください。

 番組では、東京と大阪で観客を集めて、大統領へ自由に質問させるという形式で行われました。この手法は日本のテレビではあまり使われません。事前に打ち合わせをしておいても、本番でとんでもない質問が飛び出したり、ゲストが立ち往生してしまうリスクがあるからでしょう。まして生放送です。日本の芸能界では、「困ったときは中居に振れ」といわれているそうですが、SMAPの番組ならともかく、世界最強の国の元首をスタジオに招いておいてアドリブがきかなかったら大変です。
 案の定、番組ではクリントン大統領に向かって、不倫問題について尋ねた大阪の主婦が現われました。「ガツン」と言った主婦は、日本国内はもちろん、CNNでも取り上げられて世界的な有名人になりました。そのやりとりをTBSのホームページから引用しましょう。

 視聴者(女性) クリントンさん、はじめまして。私は2人の子供がいる主婦のドバシハツエです。よろしくお願い致します。モニカさんの件で、お聞きしたいんです。ヒラリー夫人と娘さんにどのように謝りはったんかお聞きしたいんです。それからね私やったらね許されへんわとか思うんですよ。でもあのお二人は本当にね、許してくださったんですか?

 大統領 非常に単刀直入に、直接的に謝って受け入れてくれたと思います。これは私よりも彼女らに聞いていただいた方がいいんじゃないでしょうか?

 質問は柔らかい感じになっていますが、英語に訳すと
>>How did you apologize to Mrs. Clinton and Chelsea? And I feel I would never be able to forgive my husband for doing that, but did they really forgive you, Mr. President?
 と、当り前ですが大阪弁のニュアンスは伝わらず、いささかきつい聞き方になっています。
 まあ、NHKだったらこういう質問は出なかったでしょうから、話題を作ったTBSはしてやったりといったところでしょう。再放送も決まったそうで何よりです。ちなみに司会の筑紫哲也さんはちょっとあせったようで、この質問のあとは、

 筑紫 どうもありがとうございました、大阪またいきますが。さて、話題を変えていきたいと思いますが…
 などと逃げを打っています。意外に小心ですね(笑い)。

 ところで大統領に対し、こういう質問は失礼だったのでしょうか。
 おそらくクリントンはまったく気にしないどころか、むしろ歓迎したのではないかと思います。そもそもこの手の質問は本国でさんざん聞かれ慣れているし、予想の範囲内というか、少なくとも「ガツン」とは感じていないはずです。また、この番組が話題になって大きなニュースになることは、それこそ彼が望むところであったでしょう。おそらくあの番組の後、日本でのクリントンに対する好感度はアップしたのではないでしょうか。

 スクリプトを読むと、実にいろんな質問が飛び交っています。沖縄の基地問題くらいは事前に想定問答ができているのでしょうけど、「2008年のオリンピックは大阪か北京か」なんて質問は予想外だったでしょう。それでもとっさに、「いやー良かった。その頃には僕はもう大統領じゃないから」と切り返すのだから見事なものです。また、日本の教育の現状を嘆く発言が飛び出すと、いや日本の教育は海外では評価が高いですよ、と持ち上げてから、非常に真面目な議論に発展させていったところなどは心憎い手法でした。

 実はクリントンはタウン・ミーティングの名手として知られています。
 これはもともと選挙戦術として行われているもので、有権者と候補者が一問一答する場なのです。選挙戦のさなかともなると、会場に来ているのは支持者ばかりとは限りません。それこそ反対陣営からやってきて、「あいつを立ち往生させて人気を落としてやろう」と目論む者がいるかもしれません。候補者にとっては文字どおり真剣勝負の場です。

 上手に、無難に答えることだけがいいとは限りません。
 1992年のニューハンプシャー州予備選のときのことですが、国民保険問題を論じていたクリントンに向かって、「だって今じゃ薬を買うお金だってないんだよ!」とかみついた老婦人がいました。このときのクリントンは一瞬あっけにとられ、次にその老婦人に駆け寄って、抱きあって一緒に泣き出したそうです。演技かどうかはともかく、困っている人を見て本気で同情できるのは、彼の政治家としての重要な資質の一部です。あれだけマスコミで叩かれながら7割近い支持を維持しているのも、こういう「庶民派」の要素があることが大きく手伝っています。

 タウン・ミーティングにおいては、候補者が接することができる有権者はせいぜい1回につき100人程度です。時間がかかる割に効果は薄い、と考えてもおかしくはありません。しかしメディアを多用する選挙が当たり前になって久しいアメリカでは、再びこうした顔と顔を突き合わせたコミュニケーションを重要視する傾向にあります。

 いろいろな理由が考えられます。まず、マスコミ報道への信頼性が低下していること。ふだん私たちがマスコミを通じて知る情報はあまりにも多く、自分の目と耳で接することに比べてうそ臭く感じられがちです。全国ネットのニュースが連日大統領の悪口を言っていても、1回見た実物が思ったより感じのいい人だったら、有権者が信じるのは後者の方でしょう。

 タウン・ミーティングでは口コミの効果も期待できます。実物のクリントンを見た人は、かならずいろんな人に言いふらしてくれるでしょう。口コミの情報はマスコミの情報に比べてはるかに説得力を持ち、広がり方も早いというのはコミュニケーション論の常識です。

 何よりタウン・ミーティングは、やり直しのきかない真剣勝負の場です。それだけに指導者としての資質がよりきびしく問われることになります。あら探しやためにする質問を含めて、当意即妙に、内容のある答えを、しかも魅力的に返せるかどうか。これを受けて立つこと自体が、政治家として相当の力量と覚悟を示すことになります。
 視線を下に落としてただ紙を読むだけの人に比べ、手に何も持たず、質問者の目を見据えて即座に自分の言葉で語ることのできる人はなんと魅力的に見えることでしょう。指導者としての姿として、どちらが望ましいかは言うまでもないことだと思います。

 まして政治家がテレビの生放送に出て、あらゆる質問に答えるという態度を示すのは、大きなリスクに身をさらすことになります。残念なことに、同じことができそうな日本の政治家を筆者は思い付きません。日本ではせいぜい、田原総一朗や久米宏の質問に耐えられれば、「テレビに強い政治家」と呼んでもらえるのですから。(きっとCMの時間になると、「田原さん、困るよ!」などと談笑していることでしょうけど)。

 政治家が自分の言葉で有権者に接することは、日本でもアメリカでも政治の基本といっていいでしょう。まして外交の世界では、「ワールドポリティクスはワードポリティクス」といわれるようになっています。冷戦後の世界では、政治家は言葉を持って戦うことが必要なのです。「俺はボキャブラリーが貧困だから」などと言ってのけるリーダーを担ぐどこかの国の現状は、なんとも寒いものがあります。

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 NO.25 陰謀論に異議あり 99.1.3

 アメリカウォッチングは月1回の連載を始めてからこれで丸2年になります。先日、あらためてバックナンバーを読み出したら、自分でもよくこれだけ書いたというか、あまりに長いので驚きました。原稿用紙にしたらおよそ200枚くらいになるでしょうか。その時々の話題を取り上げていますので、今となっては古くなっているものも少なくありませんが、どなたか出版関係者で単行本にしたいという奇特な方がおられましたら、筆者としては大いに乗り気ですのでご連絡ください。

 ま、それはさておいて、今日は正月に読んだ『マネー敗戦』(吉川元忠著・文春新書)を取り上げてみたいと思います。
 本書は、日米間の経済関係をマネーの流れという切り口で振り返っているものです。そして、日本が「ドルを守るという以外にマネー戦略を持たなかったために」今日のような現実を招いたと指摘しています。事実関係は正確ですし、なるほどと感じさせるところが少なくありません。そもそも吉川氏は日本興業銀行を経て、神奈川大学で経済学を教えているような方ですから、筆者ごときがコメントするのはいささか片腹痛いと思われるかもしれません。とはいえ、「これはちょっとまずいんじゃないかい?」と思う部分があるので、あえていちゃもんをつけてみたいと思います。

 『マネー敗戦』に流れる問題意識は、「日本はアメリカにやられてしまった」という一種の敗北感です。「世界最大の債権国(日本)が、最大の債務国(アメリカ)にいいように扱われて、国富の大部分を失ってしまった」という思いが、この本を書かしめたといってもいいでしょう。
 ここから先は、石原慎太郎氏のように「日本はアメリカの金融奴隷になってしまう」という極端な見解まであとわずかです。吉川氏はそこまでは言っておらず、エコノミストらしい冷静な筆致で、プラザ合意、日米構造協議、円高ドル安などの事実を淡々と描きつつ、日本がマネー敗戦に至った経緯を解き明かしています。ひとつ間違えばよくある類の「ユダヤの謀略」みたいな話に堕してしまうところを、かろうじて踏みとどまっています。ただし本書から、「日本を陥れようとするアメリカの悪意」があったという意図を読み取ろうとすることは、きわめて容易であるといわざるを得ません。

 ここで明確にしておきたいのは、筆者はあらゆる種類の「陰謀論」を否定するものです。
 「世間の誰もが知らないけれど、自分たちだけは本当のことを知っている」などと口にする人がいたら、ほとんどの場合間違っているのはその本人であると断じて良い、とさえ思っています。最近、石原慎太郎氏を含めて「日本はアメリカに陥れられた」的な発言が多くなっているのは、不正確であるばかりか、問題を転嫁してみずからの弱点に目を閉ざしてしまうことになるのではないかと懸念するものです。

 物事がうまくいかないときは、他人のせいにすることがもっとも容易な解決法になります。そこで不運なときには、陰謀論がつい心地よく響いてしまうのです。
 1991年頃に筆者がアメリカに滞在していた頃には、「世界を席巻する日本の陰謀」という話を嫌というほど聞かされました。「日本企業は人為的に株価を上げて、低コストの資金調達を可能にしている」「系列という仕組みが外国製品の輸入を妨げている」「円高を利用してアメリカのすべてを買い占めようとしている」など。今から思えばお笑い草です。
 今は立場が逆転して、日本がアメリカの陰謀を口にしています。ほんの7〜8年しかたっていないのに、今度は日本側が「日本の銀行はBIS規制によって破綻した」「日本のマネーでアメリカ人が豊かな暮らしをエンジョイしている」などと口にしています。しかし本当のところ、なぜアメリカがここまで立ち直ったかといえば、それは陰謀がうまく成功したからではなく、冷戦の終了による平和の配当を得たからであり、企業が血のにじむようなリストラをしたからであり、世界経済のグローバル化にうまく適応したからであり、情報通信技術の革新に成功したからにほかなりません。

 最近はやりの「アメリカ陰謀論」には、おかしな点がたくさんあります。あまりに数多く接するために、筆者としては以下のようなことを強調したくなります。

(1) 日本とアメリカの経済は、基本的にゼロサムゲームではない。
 1980年代後半以後は、たまたま片方の好況期には他方が不況になるという関係ができているが、それはマクロ政策の調整がうまくいっていないからに過ぎない。日米の相互依存関係は深まっているし、両国はともに国際政治でいう「現状維持勢力」であり、むしろ共存共栄の関係にある。「片方が相手を犠牲にして繁栄を謳歌する」などという関係ではない。

(2) いかにアメリカ政府といえど、為替相場を自由に動かすことなどできない。
 陰謀論者は、アメリカ政府が円高円安を操っているかのように言うが、1994年に口先介入でドル防衛を図ったときのように、不成功だったケースも少なくない。そもそも口先介入で為替を動かせるのであれば、当事者は億万長者になれてしまう。市場はそんななまやさしいものではないはず。この件に関しては、「円高になっては脅え、円安になっても恐がる」という日本人のメンタリティーがちょっと異常なのではないか。またアメリカの金融当局が気にしているのは、対円レートだけではなく、対欧州や対中南米を含めたレートであることも忘れてはならない。

(3) アメリカの政策は首尾一貫したものではない、というより、猫の目のように変わるものである。
 「5年たてばすべての人が入れ替わる」ワシントンの現状を思えば、これは自明のこと。だのに陰謀論者は、レーガノミクスからクリントン時代まで、いつもいつもアメリカが日本を手玉にとっていたかのような「絵」を描いてくれる。反証をひとつだけ挙げれば、今をときめくルービン財務長官がその座を射止めたのは、1994年に前任者のベンツェン長官が癌の治療のために退任したからに過ぎない。彼の病気がなければ、ドル安論者のベンツェンが金融政策を仕切り続け、ドル高論者のルービンの出番はなかったはずである。

(4) ヘッジファンドはアメリカ政府と気脈を通じている、なんてことはありえない。
 ヘッジファンドの約半分はケイマン諸島などに籍を置き、米国企業ですらない。そもそもが「仕手筋」みたいなものであり、要は儲かりさえすればいいという連中である。また、そういう連中でなければ、金持ちが自分の資金を預けようとは思わないはずだ。1992年にジョージ・ソロスが、イギリス政府を相手にポ ンド売りを仕掛けたときのように、アメリカ政府が相手でも勝てると思えば勝負に出るはずである。「1997年にASEANがミャンマーを加盟させたから、ヘッジファンドがタイ・バーツを売った」などというのは馬鹿馬鹿しい話である。

(5) 同様に、格付け機関がアメリカ政府のお先棒を担いでいる、というのも真面目に取り合うべき話ではない。
 外国人アナリストは、80年代から一貫して日本企業(とくに金融機関)の経営はおかしいと言い続けてきた。ところが結果として、高収益高株価が続いていたから、しょうがなく高い格付けを与えてきたに過ぎない。今ここへ来て、日本企業の経営がおかしくなったのだから、格付けを下げるのは当然である。アナリストは各自が個人業主だから、彼らが一番恐れるのは「高い格付けを与えていた企業が破綻すること」である。そこで少しでも怪しいと思ったら、「とりあえず下げておこう」と考える。彼らが傲慢だから下げるのではなく、身の安全を考えて下げるのである。

(6) 日本人だけが米国債を買い支えているわけではない。
  米国債を一番たくさん持っているのは、言うまでもなくアメリカ人である。外国人が保有しているのは全体の4分の1程度である。しかも昨年、日本は米国債の保有高第1位の座をイギリスに明け渡した。「日本が米国債を売ればアメリカは困る」のはたしかに事実だが、米国債が値崩れすれば日本も困るし、だいたい売ったときに代わりに何を買うのか。また、日米は一貫して金利差があるので、長期国債の場合は為替差損もクリアできるかもしれない。

 切りがないのでこのへんで止めにしますが、上記は「よくある陰謀論」に対する異議申立てであり、『マネー敗戦』が主張している点ではないことを注記しておきます。本書はそんな極端な話を展開しているわけではありません。

 『マネー敗戦』が主張しているのは、日本が早めに円の国際化に踏み切り、アジアで円が流通するようになり、日本の投資先が米ドル一辺倒にならなければ、今日のような事態には至らなかった、ということです。まったく同感です。ただし遠慮なくいえば、円の国際化はできるに越したことはありませんけれど、アメリ カからは「できるものならやってみな」と見透かされるのではないかと感じる次第です。

 ドルが世界の基軸通貨になったのは、第一にアメリカの軍事力の裏付けがあったこと、第二にマーシャルプラン、ベトナム戦争などによって、常にドル紙幣を海外に還流させつづけたこと、第三にドル取り引きに対する規制を少なくし、世界中の誰もが自由に扱えるようにしたことが大きかったのではないかと思います。
 それに比べて円はどうでしょう。軍事力についてはいうまでもありません。また日本は慢性的な貿易黒字国で、ほっておけば外貨を溜めてしまう体質があります。大規模な円建てODAをやるとかして、円の大盤振る舞いをする覚悟があるならともかく、外国人に円を保有してもらうことはそう簡単ではないでしょう。さら に円は規制が煩瑣で、使い勝手が悪い通貨として有名です。これからはビッグバンで規制緩和を進めるということですが、はたして間に合うでしょうか。

 最後にしつこいようですがもう一言。
 陰謀論者が好んで使う表現に、「日本人は汗水たらして働いているのに、アメリカ人は楽をして繁栄している」というのがあります。これはとんでもない勘違いだし、そもそも失礼というものです。年間の労働時間はすでに日米でほとんど差がなくなっていますし、丸の内のサラリーマンとシリコンバレーの起業家のどちらが勤勉かは比較するまでもありません。
 不況に対して90年代前半のアメリカが実践したのは、厳しい構造調整であり、破綻した金融機関の処理であり、企業のリエンジニアリングでした。今日の日本は不況を克服するために赤字国債を発行して、公共事業を積み増し、銀行に公的資金を入れ、果ては商品券まで配るという大サービスです。どっちがアリでどっちがキリギリスなのか。ちょっと心配になってくるではありませんか。

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 NO.26 レディファーストは何のため 99.2.1

 エレベーターというのは、手前の人から降りて順に奥の人が出ればいいようなものですが、あいにくと社会的な規範というものがあってそうはまいりません。降りるのはまず偉い人から。もし自分がいちばん下っ端だと思ったら、「開」のボタンを押しつつ最後まで待っていた方が無難です。その分、エレベーターの動きは遅くなりますが、これがまぁ、社会人のお約束ということになっております。

 筆者が勤めている会社では、「エレベーターでは一般職社員(ほとんどが女性)は総合職社員(ほとんどが男性)が出るまで待っていろ」という教育を人事部がしているらしく、早い話が限りなく男性優位ルールになっています。これはまぁ、社内にいる女性はほとんどが当社社員であるのに対し、男性のなかには少なからぬ外部からのお客さんが含まれているから、という理由があるからだと思います。(つまり女性のお客さんは少ないという現実がある)。
 結果としてレディ・ファーストと正反対の習慣となっているので、外国から帰ってきた直後はちょっと戸惑います。

 さて、ここでこんな疑問が生じます。レディ・ファーストはグローバル・スタンダードなのでしょうか。もしそうだとしたら、公的な場所での禁煙と同じく、い ずれ日本でも定着してしまうでしょう。そうだとしたら、早いとこレディ・ファーストに慣れておいた方がいいかもしれません。
 しかし筆者の経験から考えるに、レディ・ファーストは世界でも比較的限られた地域にのみ存在しているように思います。アジアは全般に男性優位ですし、イスラム圏は言わずもがな。やはりレディ・ファーストの本場は欧米です。それもアメリカが特にそうで、欧州はあまりうるさくないようだし、旧共産圏は結構男性優位だったりすると聞きます。やはりこの習慣はアメリカン・スタンダードではあるまいかと考える次第です。

 カップルでレストランなどに行ったとき、女性を奥の席に座らせることは、今では日本においても普通になっています。が、本場のレディ・ファーストはさすがに種類が豊富です。エレベーターの降りる順番はもちろん、ドアを開ける、荷物を持つ、席を譲る、などなど、配偶者だろうが知らない相手だろうが、いつも気をつけなければなりません。
 ではなんでアメリカはレディ・ファーストなんだろう。以下に述べるのは筆者の推測であり、確かな証拠は何もないことをあらかじめ強調しておきます。

仮説:アメリカ男性がアメリカ女性を優しく扱うのは、歴史的な罪悪感を持っているからである。

 だって考えてもみてください。
 アメリカを建国したのは欧州で食いつめて海を渡った移民たちですが、そのほとんどは男性でした。まず男性が新天地に渡り、土地を手に入れて開拓し、どうにか住めるような状態にして、それから故郷に帰って女性たちを連れてきたわけです。しかし大西洋を越えて知らない土地に行くわけですから、女性たちも簡単には同意しません。
 そこでどうしたか。騙したんですよ、きっと。「アメリカはすばらしい土地だ」とか何とか言って。どうかすると力ずくで連れていったかもしれません。だって男たちだけでは、植民地はいずれ滅んでしまうはずですから。

 しかし新天地に植民してきた人々の暮らしはきついものでした。
 当たり前です。当時はまず人が少ないんです。独立戦争のきっかけとなったボストン茶会事件のとき、ボストンの人口はわずか2万5000人でした。今の世の中で人口2万5000の街を想像してみてください。この程度では社会的分業は成立しません。家庭の主婦は、生活に必要なことは全部自分一人でやらなければなりませんでした。まだ社会保障も電気製品もない時代です。しかも周囲には、頼りにできる親戚もいなかったのです。

 開拓地の女性たちはさらにたいへんでした。料理をし、育児をし、洗濯をし、農作業を手伝い、水だって井戸から運んだはずです。石鹸だって自分たちで作ったでしょう。さらに彼女たちを悩ませたのは孤独でした。隣の家があるのははるかに先ですし、男たちに比べれば女たちははるかに社会的に孤立していたのです。
 「精神病院の3分の1は農家の女性で占められていた」と、『フロンティアと摩天楼』(野村達朗/講談社現代新書)は指摘しています。

 それでも新天地の建設には、女性の力が絶対的に必要でした。「父親がいなくなると家族は打撃を受ける。母親がいなくなると家族は消滅する」(イタリアのことわざ)といいます。18世紀、19世紀のアメリカ男性たちは、どれだけ女性たちに助けられたことでしょう。この落とし前は、安くはすみません。当然のことながら、女性は大切にされるようになります。レディ・ファーストはこういう経緯で定着したのではないかと思うのです。
 つまりアメリカ男性たちは、女性にエレベーターで先を譲ったり、ドアを開けるたびに、「昔は迷惑をかけたよね」と謝っているのではないかと。

 しかし一方、新天地の生活は女性たちをたくましく変えました。
 アメリカ女性たちは、レディ・ファーストというベネフィットに満足することなく、積極的に社会に進出しました。粘り強い運動の結果、1920年には婦人参政権も獲得しました。 フェミニズムにおいてもウーマンリブにおいても、アメリカはいつも先進国でした。アメリカの女性たちが得た権利は、時を経て他国の女性たちも享受するようになりました。そして今日、ヒラリー・クリントンからシャロン・ストーンに至るまで、世界中でこの国にしか存在しないような強い女性たちを輩出するに至ったわけです。

 この話をするたびに思い出す一枚の絵があります。
 全然有名な絵ではないので、タイトルも作者の名も覚えていません。しかしその絵は、ワシントンのNational Museum of Women's Arts、つまり「国立女性画家美術館」にあります。あまり有名な美術館ではありませんが、有名な女性画家の絵はたいがいここに揃っていますのでお勧めです。

 その絵はこんなふうです。
 部屋の奥の方に老夫婦がいます。二人は疲れた顔をして、肩を寄せ合って座っています。二人が見つめているのは手前に立っている彼らの娘です。娘は背をそらして窓の外を見ています。外はアメリカ西部と思しきが広がり、彼女の視線の先には一台の馬車がこちらに向かっています。中に誰がいるのかは分かりません。だが、彼女の視線は希望に満ちています。
 老夫婦は欧州で生まれ、植民してきた世代なのでしょう。そして娘はアメリカで産まれた第一世代なのでしょう。親たちには、今日まで根を詰めてがんばってきた疲れが見られます。ともすれば気持ちは過去を追い、「もしもこの国に来なかったら・・」という思いもあったかもしれません。しかし娘はまっすぐに未来だけを見つめています。やがてこの娘は年老いた両親のもとを去り、自分の人生を切り開いてゆくのでしょう。

 新天地にたどり着いた人たちは、それぞれにいろんな目的を持っていたことでしょう。皆が幸せになったわけではもちろんありません。しかしアメリカにたどり着いた人たちは例外なく、過去のしがらみを捨て、自由を得ていました。そしてアメリカで生まれ育った次の世代は、生まれながらにして自由でした。彼らが親を捨てて旅たつときがきても、親たちにはそれをとがめる権利はありません。
 なぜならそれは、彼ら自身が旧大陸でやってきたことと同じなのですから。

 こうしてアメリカでは、古い価値観や家のしがらみから解き放たれた強い女性たちが誕生しました。その一方で、「レディ・ファースト」という習慣も残っていて、「男性たるもの、か弱い女性は大事にしなければならない」というわけですから、考えようによってはこれは矛盾です。
 それでも筆者は、これはアメリカの歴史にふさわしい美しい習慣だと思うのです。
 建国後のアメリカでは、男たちは荒れ地に鍬を入れたり、街を作ったり、インディアンと戦ったり、石油や金鉱を掘ったりしました。しかしそれもこれも、女たちがついてきてくれたからこそではありませんか。アメリカの男たちはこの歴史的な記憶が完全に風化するまで、レディ・ファーストという形で義理を果たしつづけるのかもしれません。

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 NO.27 奇跡はいかにして起こったのか 99.3.1

 その人は背が低く、顔には深いしわが刻み込まれていました。年は50歳を少し過ぎ たくらいだったでしょうか。品のいい初老の婦人なのですが、意志の強そうな尖った あごと、タカのように鋭く、知的な目が印象的でした。
 「ですから、アメリカにはbudget deficit ではなく、budget surplusが必要なのです」というのがその人の結論でした。講演が終わって休憩時間になると、出席者たちは口々にこんなことを言っていました。「まいったぜ、あのおばちゃんには。財政黒字だなんて、そんなもんどうやって実現 するのさ」
 講演会場はワシントンの有名シンクタンク、ブルッキングス研究所であり、その日の講師はアリス・レブリン主任研究員でした。民主党系の財政学の研究者であり、「財政タカ派」としてその名を知られた人です。ただしその日の講演に対しては、聴衆の一人だった筆者も周囲と同感でした。財政黒字なんて、できるわけないじゃん!

 アメリカの財政赤字が深刻になったのはレーガン政権からです。年間2000億ドルを超えたあたりで、さすがに「これではいかん」ということになり、1987年には有名な「グラム・ラドマン・ホリングス法」が超党派で成立します。この法律は、「1993年度までに財政を均衡させる」ことを政府に強制するものです。しかし次のブッシュ政権になると、不況もあいまって財政赤字は年間3000億ドルにも達しました。財政均衡の達成目標は95年に先送りされる始末。"Read my lips, No new taxes!"(よろしいですか、増税はしません!)を公約して当選したブッシュ大統領も、1990年には仕方なく増税に踏み切ります。しかし景気はますます悪く、赤字は一 向に減らないのでした。

 流れが変わったのは、1992年にクリントンが大統領に当選してからです。経済再生を旗印に当選したクリントンには、2つの選択肢がありました。ひとつは彼自身が公約していたことですが、「中間層への減税と投資の増加により景気を回復し、しかるのちに財政を均衡させる」シナリオ。もうひとつはグリーンスパン連銀総裁などが提案した、「まず財政赤字を削減し、長期金利を下げることで景気回復を図る」シナリオでした。
 いずれにもそれなりの説得力がありました。
 たとえていえば病気の子供に対して、アメをあげてから後でお薬をあげましょう、というのが前者の作戦です。うまくいけば、経済再生と財政再建の二つの目標を、痛みもなく達成することができます。ただし先にアメをなめてしまった子供が、あとでちゃんと薬を飲んでくれるかどうかは分かりません。後者は先に薬を飲ませてから、あとからアメをあげましょうということになります。当面は不評を覚悟しなければなりませんが、楽しみはあとにとっておこうという作戦です。

 クリントンは後者が正しいと思ったらしく、あっけなく自説を撤回します。そして公約を破棄して、「先憂後楽」型のシナリオ、つまり財政再建を優先することを決断しました。
 クリントン政権には、自薦他薦を問わず「経済のプロ」たちが集結していました。ブレーンの中にはロバート・ライシュ(ハーバード大講師)のような財政拡大派もおれば、ロバート・ルービン(ゴールドマン・サックス会長)のような財政均衡派もおりました。激論の末、彼らの中でも、後者のグループが重要なポストを押さえます。タカの目をしたおばちゃんことアリス・レブリンも、OMB(政府予算管理局)の副局長として招聘されます。かくしてクリントン政権は発足後いきなり増税を実施することになりました。

 アメリカでは1982年と86年にレーガン政権が大規模な減税を実施し、税の区分はわずかに2段階、最高税率は31%(90年までは28%)という簡素な税制になっていました。1993年、クリントン政権はこれを5段階、最高税率を約40%にしました。要は「 金持ちからもっと取る」ことにしたわけです。
 歳出削減も大胆に行われました。「連邦職員の10万人削減」をぶちあげ、まず手始めにとホワイトハウスの職員を減らすことから始めました。フランス料理を得意としたブッシュ時代のシェフは、真っ先に首切りにあいました。冷戦は終わった、ということで軍事費もどんどん削減します。米軍が「世界の2個所で同時に活動ができる」ことを最低線とし、予算を大胆にカットしました。もっとも、この間に社会保障費や老人向け医療費など、増大しつつある項目もありますから、90年代を通してみると歳出額自体は減るどころかむしろ増えています。

 ところがクリントン政権下でアメリカ経済は7年連続の成長を続けます。この間、税収は伸びる一方でした。特に高所得者の収入が伸びたために、93年の増税がじわりと効いてきました。そして、な、な、なんと1998会計年度(1997年10月―98年9月)において、連邦政府の財政は約700億ドルの黒字を計上したのです。
 驚くべきことが実現しました。さらに現在進行中の99会計年度では、財政黒字は793億ドル、2000年度には1173億ドルを見込んでいます。もはやアメリカは「赤字をどう減らすか」ではなく、「黒字をどう使うか」を議論するようになったのです。

 クリントン大統領は、今年1月19日に行われた一般教書演説において、アメリカ連邦政府が財政均衡という大目標を達成し、さらに黒字を計上していることを高らかに報告しました。しかしクリントンは同時に、高齢化の進展により、2020年には社会保障制度が破綻するかもしれない、と警鐘を発します。そこで「今後は財政黒字の65% を社会保障基金に組み込む」ことを提案します。そしてこう訴えます。

 「私は1946年生まれで、ベビーブーマーの最初の世代です。私たちの世代は、子供たちが耐えられないような負担を残すべきではありません」

 なんともうらやましい話ではないでしょうか。ひるがえって日本では、赤字国債の増加や年金制度への不安が問題になっています。さて、私たちがアメリカの財政再建 から学び取れる教訓とは何でしょうか。
●どんなに不可能に見えてもあきらめることはない。(――意外と早く問題が片付く可能性だってあるのだから)。

●財政均衡のためには、歳出減よりも歳入増の方が効果的である。(――行革をあれだけやったアメリカでも、歳出額を減らすことは容易ではない。「増税なき財政再建」というのは虫のいい考え方である)

●「先憂後楽」は「先楽後憂」よりも賢い考え方である。(――増税や行革は景気にマイナスに働く。そのため95年頃までのアメリカ経済はJobless recovery(雇用なき回復)、growth recession(実感の湧かない成長)といわれる局面が続いた。しかしその後は息の長い景気上昇が続いている)

●在野の有能な人材を大胆に政権に取り込むべし。(――アリス・レブリンはその後OMBの局長に昇進し、現在はFRBの理事となっている。財政拡大派のブレーンたちは、クリントン政権の2期目ではほとんどいなくなり、ルービン財務長官、サマーズ副長官などのおなじみの面々が、今日も腕を振るっている)

●政策の一貫性が重要である。(――大統領制のアメリカでは、政権は最低4年間、 安心して仕事に取り組むことができる。クリントンが93年に「先憂後楽」型のシナリオを決断した理由の一つは、「当初は悪くても、4年後に成果が出ればいい」と考えたからであろう)

 不況もあいまって、日本の財政赤字は日に日に危険な水準に膨れ上がりつつあります。しかも、世界でもっとも急速な高齢化時代がすぐそこまで来ています。日本にとって、財政黒字は当分の間は無理でしょう。でも、少なくともアメリカの事例は、奇跡は起こりうるということを私たちに示してくれます。何にしろ、あきらめちゃあいけません。

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 NO.28 経済摩擦が懐かしい! 99.4.1

 先月、PHPから『日本の外交政策決定要因』という本が出ました。2700円と安くないですし、固い内容ですので「買ってください」とはお願いしにくいのですが、この本の第10章を筆者が執筆しております。今度、本屋で手にとっていただければ、幸いです。
 この本はタイトルどおり、日本の外交政策を研究した本です。筆者が担当したのは「経済・通商部会」で、93年から95年にかけての日米関係を取り上げました。そう、日米通商摩擦がもっとも激しかった時期です。

 日米通商摩擦のパターンはいつもこんな感じです。
 1. アメリカがかなり無茶な要求をする。
 2. 日本側は抵抗するが、最後には「ご無理ごもっとも」と受け入れる。
 3. 首脳会談で劇的な妥協策が浮上して、両者めでたく握手して文書にサイン。
 4. あとから文書の解釈をめぐって新たな摩擦が起きる。
 日本のマスコミはこんなふうに伝えます。「米国議会で対日強硬論浮上」「○○大統領が制裁を示唆」「XX首相急きょ訪米へ」「深夜の交渉、土壇場で決着」「疑問残る“玉虫色”の妥協」「日米関係は戦後最悪の状況へ」。ーーこんな新聞の見出しを、これまでに何回読んだことでしょう。

 こういう繰り返しに変化が生じたのが、93-95年の日米関係でした。この時期、米国側では民主党のクリントン新政権が発足し、日本側では55年体制が崩壊し、細川―羽田―村山と政権が目まぐるしく変化しました。米国はすでに景気回復の途上にあったものの、まだ実感はとぼしく、対照的に日本は急速に経済が悪化し、大型の景気対策を乱発し始めた時期です。対米貿易黒字が急増し、日米通商摩擦は非常に深刻な状況を迎え、為替市場では円高が進行して日本の輸出産業を脅かしました。
 94年2月には細川クリントン会談が決裂し、「日本が戦後初めてアメリカに『ノー』を言った」ことが大きなニュースになりました。日本政府は、アメリカが要求する「数値目標」とは、管理貿易を招く不当な要求であると言って頑張りとおしました。
 95年6月には、日米自動車協議がWTOの場で争われ、制裁一歩手前まで行ったこともありました。とまあ、この辺の話は本に書いてありますので、ここでは繰り返しません。とにかく93年から95年前半までの日米関係は、きびしい通商摩擦の時代でありました。

 代わって95年の後半から、日米間の重要テーマとして浮上したのは安全保障問題です。この背景としては、94年3月頃から北朝鮮の核開発疑惑が問題になってきたこと、95年9月に沖縄で米兵による少女レイプ事件が発生し、沖縄基地問題が大きくクローズアップされたことが挙げられます。さらに96年3月には、台湾で総統選挙が行われているさなかに、中国軍が演習と称して台湾沖にミサイルをばんばん撃ち込み、米海軍が空母を出動させるという緊張もありました。
 一連の出来事から、日米間では「冷戦は終わっても、極東はまだまだ不安定だ」という認識が高まります。両国は日米同盟の重要性を再認識することとなり、96年3月には日米安保再定義、97年5月には沖縄基地特別措置法、97年9月には防衛新ガイドラインが策定されます。(ご承知の通り、ガイドライン法案は現在、国会で審議中です)。
 多少補足しておきますと、冷戦時代の極東においては、敵はソ連と分かっていましたから、日本の自衛隊はサッカーのゴールキーパーよろしく、ソ連の軍艦や潜水艦が日本海に出てこれないよう、じっと身構えていればそれで良かったのです。あとは全部アメリカがやるという了解でした。ところが冷戦後の極東では、どこから弾丸が飛んでくるか分からない。いわばバスケットボールよろしく、選手全員が走り回るゲームに変質してしまったのです。ゲームのルールが変わるとともに、自衛隊に求められる役割も従来とは違うものになったわけです。
 ともあれ、95年後半から97年に欠けての日米関係は、安全保障を軸とした比較的、安定した時期となりました。

 問題はその後の日米関係です。98年からこのかたの日米関係は、再び「アメリカが要求し、日本がそれをしぶしぶとのむ」という繰り返しになってきています。

*98年1-3月:アメリカが恒久減税と財政の出動を要請
 →98年4月に日本は16兆円の景気対策を決定。

*98年6-7月:アメリカが金融システムの改革と強化を要請
 →98年9月に日本は金融再生法、早期健全化法を成立。

*99年1-2月:アメリカが量的緩和など一層の金融緩和を要請
 →99年2月に日銀が短期金利を実質的に「ゼロ」に低下。

 対日要求が、いわゆるマクロ政策になっていることが特徴です。こういう要求があるたびに、日本国内では「まるで内政干渉ではないか」という怒りの声も聞かれます。しかし、97年4月に消費税を引き上げして以来、日本の景気がどんどん悪化し、世界経済の不安定要因になっている事実を直視すれば、アメリカにうるさく言われるのも仕方がないことではないでしょうか。

 たとえば昨年の年初に、アメリカが減税しろとしつこく要請しなかったら、日本が財政構造改革路線から路線変更するにはもっと時間がかかったことでしょう。金融安定化にしても、昨年6月に円安是正の協調介入が行われた直後に、サマーズ財務副長官が来日して関係者をどやしつけたことで前進しました。悲しいかな現下の経済不振に対し、日本政府には事態をマネージする能力がないと見られているわけです。もっとも、この見方に賛同する日本国民は少ないないでしょうが。

 しかし毎度毎度、アメリカが正しいアドバイスをしてくれるとは限りません。とくに気になるのは、最近の「マネタイゼーション」、つまり金融の量的拡大の要求です。日本は資金の流通量を増やして、期待インフレ率を高めなさいと言われているわけですが、こればっかりはちょっと心配です。
 たしかに日銀は、各方面からの国債の引き受け要求を拒否しました。しかし、短期金利は実質ゼロ近くに低下していますし、銀行に対する7兆5000億円の資本注入の原資の大部分が、日銀から預金保険機構への貸し出しという形で行われることを考えると、量的緩和は実質的に始まっていると考えることも可能です。3月に入ってからの株価の上昇は、こうした金融の量的拡大を歓迎してのことかもしれません。

 調整インフレ論の是非について、ここでこれ以上論議するのは避けましょう。ただし、非常に危険な政策ですから、やるからには誰の責任で踏み切るのか、はっきりさせておく必要があると思います。「アメリカにいわれたから」では困ります。だって将来、日本で狂乱インフレが生じたときに、困るのはアメリカ人ではなく日本人なのですから。

 93-95年の通商摩擦時代、95-97年の安全保障時代、そして98-99年のマクロ政策時代。こう並べてみると、日本側の力量がどんどん低下し、アメリカ側の立場がどんどん強まっているように感じます。通商摩擦の時代には、それがいいかどうかは別にして、日米は対等に喧嘩をしていたのです。ある意味では、戦後の日米がもっとも「イコール・パートナー」であった時期という見方ができるかもしれません。
 ほんの少しばかり前の話なのですが、なんとも遠い過去のように感じられます。

 最後に念のため。最近のアメリカでは、鉄鋼輸出のダンピング提訴とか、スーパー301条の復活とか、通商摩擦の再燃を予見させるような動きがあります。ただし筆者の見立てでは、ほとんど心配は不要です。その辺の事情はまた来月にでも。

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 NO.29 ベンチャーを成功させるには 99.5.2

 最近読んだ中で、抜群に面白かった本に『社長失格――僕の会社がつぶれた理由』があります。これはある起業家が、みずからの成功と挫折の経験を描いたノンフィクションです。詳しい内容はここでは述べませんが、ともかく日本のベンチャービジネスを取り巻く環境は、非常に厳しいということがよく分かりました。

 日本経済にとって、新しい産業を興して雇用を生み出すのが重要であることは、今さら繰り返すまでもありません。そこで最近では通産省などが音頭を取り、ベンチャー振興策を検討しています。とはいうものの、なかなかうまくいかないのは、担保がなければ金を貸さない銀行とか、新参者に冷たい大企業とか、日本社会に特有な問題がいろいろあるからでしょう。

 さて、筆者はアメリカのあるサクセスストーリーを思い出しました。

 ときは1930年。大恐慌時代のアメリカです。ペンシルバニア州に住むセールスマン、チャールズ・ダロウはご多分にもれず、失業者となりました。彼の周囲の友人たちもそろって失業し、暇を持て余していました。毎晩誰かの家に集まってはおしゃべりする毎日。大勢で熱中できるような暇つぶしはないか・・・・手先が 器用でアイデアマンだったダロウに、ある考えが浮かびました。

 景気が良かった頃、ダロウはよくアトランチック・シティに遊びにいきました。これはまぁ、アメリカ版の熱海みたいな行楽地です。ダロウはまず、懐かしいアトランチック・シティの通りの名前を思い出し、テーブルクロスに書き出しました。それから色見本をもらってきて通りの色を決め、次に材木の切れ端を拾ってきて、家の形に加工しました。それから鉄道会社、公共会社などの名前を決め、カードを何枚も作りました。こうして原材料費はほとんどタダで、新しいゲームが生まれました。ただしこのゲームをプレイするには、少々のドル紙幣を必要としましたけれども。

 間もなく、彼の家に集まってきた友人たちは、この新しいボードゲームの面白さに時間がたつのを忘れるようになりました。ダイスを振ってコマを進めるというところは「すごろく」ですが、このゲームにはゴールがありません。代わりに「ボードウォーク」とか「ニューヨーク通り」と書かれたマスを売買し、家やホテルを建てて資産を増やします。そのうち破産したプレイヤーが次々に脱落し、最後にはただ一人の勝利者が盤面すべてを支配することになってゲームは終わります。

 もうお分かりでしょう。そう、『モノポリー』というゲームはこうやって誕生したのです。全世界で1億セットを売ったというゲーム史上最大のヒット商品は、チャールズ・ダロウのアイデアの産物だったのです。

 やがてゲームが気に入ったダロウの友人たちは、このゲームを作ってくれ、と頼むようになりました。ダロウは何しろ暇でしたから、1日2セット、3セットと作っては分けてやりました。ゲームは口コミで広がり始めます。試しに近所のデパートで置いてもらったところ、たいへん好評でした。ダロウはゲーム生産に精を出し、この知的所有権を商売にすることにします。しかしすぐに限界に気がつきました。増え続ける需要に対し、彼の手作業ではとても生産が追いつかないことがわかったのです。

 ゲームはついに、大手ゲーム・メーカーであるパーカー・ブラザース社の社長の目に留まります。同社はダロウに対し、莫大な印税と引き換えに『モノポリー』の権利を買い取ることを申し出ました。ダロウは契約に応じます。彼は早々と引退し、牧場の主となり、全世界を旅行し、珍しい蘭を収集するなど、趣味人として余生をまっとうしました。

 筆者は『モノポリー』のファンの一人ですが、このゲームの誕生について感心している点が2つあります。
 ひとつはこのゲームを、途中で誰も真似しなかったこと。そしてもうひとつは、ダロウがこのアイデアを、大企業に売ってしまったことです。いずれも日本社会では考えにくいことだったと思います。

 筆者が子供の頃、国内ゲームメーカーE社の「バンカース・ゲーム」というものがありました。今から思えば、これは『モノポリー』のあからさまな模倣商品でした。要するに知的所有権の侵害だったわけで、昔の日本は結構野蛮なことがまかり通っていたのです。
 同様にダロウが『モノポリー』のアイデアを思いついた時点では、誰でも――彼の友人、デパートの仕入れ係や他のゲームメーカーなど――は、類似商品を開発するチャンスがあったのです。しかしそうはならなかった。なぜでしょう。ダロウの著作権がいつの時点で確定していたのか、あいにく筆者は知りませんが、アメリカという国は、知的所有権に対して独特の考え方を持っていることを指摘しておきたいと思います。

 日本や欧州など、世界のほとんどの国では、同じアイデアの特許が2件申請された場合は「先願主義」、つまり先に申請した人に権利が発生します。
 これに対し、アメリカでは「先発明主義」といい、先に発明した方が権利を得ます。たとえばベルとエジソンが同時期に電話を発明した場合、どっちが早かったかを第三者が判定するわけです。実際問題としては、「先発明主義」は事実認定が難しく、WTOなどでは「先願主義」をグローバル・スタンダードにしようという動きがあるようです。が、ここで重要なのは、アメリカ人はいまでも「先発明主義」にこだわっており、その根底にはアメリカらしい素朴な正義感が横たわっているということです。

 オリジナリティを大切にするアメリカの風土、ということは、おそらくベンチャービジネスを育てる上で非常に重要な要素であると思います。ダロウのアイデアが誰にも盗まれることがなかったのは、法的に争った場合に勝ち目がなかったからか、そもそもそんなことを思い付く人が少なかったからか、あるいはその両方でしょう。逆に大手企業が素人のアイデアを盗んでも、いささかも恥じることのない日本の社会では、ベンチャー企業が育つのは非常に難しいことだといえます。

 第2点に話題を変えます。
 ダロウはこの権利を売り渡すときに、大いに悩んだだろうと思います。徒手空拳の失業者であった彼にとって、『モノポリー』は唯一の財産であり、愛着のある商品だったはずです。ことによると自分自身の手で、ゲームメーカーを創業することだって考えていたでしょう。ところが名創業者は、かならずしも名経営者と限りません。すごいアイデアを生み出すことと、まともに会社を経営する才能はまったく別物ですから。『社長失格』の著者もその例にもれませんが、ベンチャー企業が陥りやすい罠がここにあります。
 結果的には、ダロウのアイデアと、パーカー・ブラザース社の販売力がうまくかみ合って、『モノポリー』は世界的な成功を収めました。ダロウは『モノポリー』を手放したことで、巨万の富を得ます。ところが若くして成功を収め、その後は悠々自適の生活を、というのは日本ではなかなか難しいことのようです。反対にシリコン・バレーなどでは、創業のプロと経営のプロが両方いて、うまく分業体制ができているようです。

 しかし、日本ではベンチャーが育たない・・・なんてことはけっしてないはずです。ほんの少し時代をさかのぼれば、ソニーもホンダも京セラもベンチャー企業でした。「オリジナリティを大切にする風土」と、「商品開発と経営の分離」という2つの課題は、これらの企業は巧みに解決してきたのだと思います。
 80年代に出た『メイド・イン・ジャパン』という本の中で、盛田昭夫氏はこんな話を紹介しています。ソニーがトランジスタで有名になりはじめた頃、どこかの菓子メーカーが「ソニー・チョコレート」を売り出しました。盛田氏はこの商標侵害に怒り、全力を挙げてつぶしにいったそうです。"SONY"というブランドを育てるという発想が、当時からあったのでしょう。

 日本の企業風土が、ベンチャーを育むようはできていないのは、残念ながらある程度は事実でしょう。問題はそれを意思と工夫でどう切り抜けるかです。それにしても、E社の「バンカース・ゲーム」や「ソニー・チョコレート」みたいな情けない商品は、消費者は許しちゃいけないと思うんですがどうでしょう。

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 NO.30 ガイドライン法案、ホンネの話 99.6.2

 来日中のジム・アワーさんに会ってきました。
 ヴァンダービルド大学教授のアワーさんは、米国海軍のOBで、国防総省で対日関係を担当したことがある防衛政策のプロフェッショナルです。日本語も得意で、「自無亜和」という名刺を持っています。「自らを無にして亜細亜の平和に尽くす人」という意味なんでしょうね。一貫して日米の防衛協力に貢献してきたアワーさんの心意気を感じます。

 「アワーさん、お久しぶり。日米間は安全保障面では前進がありましたけど、今度は経済がいちばんの問題ですよ」

 「そうでしょうか。本当に前進したんでしょうか。ガイドライン法案はできたけれど、中身は変わってないでしょう?」

 「表面的かもしれませんが、少し前までは考えられなかったような変化ですよ」

 「ガイドラインによって、日米の同盟関係が強化されて、他の国を牽制できたことはいいことだと思います。でも本当に日本の近くで危機が起きてしまって、アメリカ兵が戦闘で死んでも、日本はあくまで後方支援だけ、ということがあったら、アメリカも侵略国も納得しないんじゃないでしょうか」

 「それはそうでしょう」――だいたい、日本の近くで危機が生じたときに“対米協力”なんて言ってるんだから、土台が非常識な議論をしているわけです。アメリカにしてみれば“対日協力”なのですから。

 「そんな事態が起きたら、アメリカ人はこう言いますよ。『日本がいっぱい持っているF−15とかイージス艦てのは何のためにあるんだ?』、それから『なぜアメリカが日本を守らなきゃならないんだ?』って」

 おっしゃる通り。実はガイドライン法案が成立しても、実態はそれほど変わらないんです。「よくやった」なんて喜ぶほどじゃないし、「戦争に巻き込まれる」と脅えることもない。それでも、あれが成立しなくて大騒ぎになるよりは、ずっと良い結果だったとはいえるのですけれども。

 アワーさんだけじゃありませんが、軍人は偶然や期待を排除し、最悪のケースを想定して行動するものです。また軍隊というものは、本質的に自己完結型の組織であり、極力、外部の力を当てにしないようにできています。
 彼らのホンネを率直に言えばこんな感じになると思います。
 「有事の際に、日本が協力してくれるのはありがたい。その代わり、どこからどこまでできるのかを、あらかじめはっきりさせておいてくれ。リップサービスだけで、本番では『やっぱり駄目でした』なんて言われても困ってしまう。そんな可能性があるのなら、最初から日本を当てにしないで自分たちだけでやるさ・・・・」

 実際、いろんなケースが考えられます。
 たとえばアメリカの軍艦が日本の港に入ってくるときに、反戦団体が小船を出して海上にピケを張ったら。戦場の近くに野戦病院を作ったけど、日本のお医者さんや看護婦さんが集まらなかったら。米軍用に食糧や医薬品を用意したけど、業者が現金で払わないと渡さないと言い張ったら。これらの場合、期待させておいて裏切ることになりますから、米軍にとってはかえって始末が悪いことになります。
 反対に、日本の協力が「ここまでなら」というベースで100%当てにできるとしたらどうでしょう。いざとなったら日本の民間飛行場や港湾が使えると分かっていれば、たとえば沖縄の米軍基地はあんなにたくさんは要らないね、となるかもしれません。弾薬や燃料が日本から借りられると分かっていれば、在庫を山のように積んでおく必要も減るはずです。いずれにせよ、日米の防衛協力が緊密になれば、1+1は3にも4にもなりますから、双方にとって悪い話ではないはずなんです。

 そういう議論を抜きにして、いきなり臨検ができるのできないの、国連の議決は必要かどうか、なんて話をしてしまったので、ガイドライン法案はきわめてテクニカルな議論に終始してしまいました。正式名称は、「周辺事態に際してわが国の平和および安全を確保するための措置に関する法律案」というのだそうですが、これでは国民的な関心を喚起することは不可能といえます。
 ガイドラインというのは、本来は日米安全保障条約をどのように運用するかという話です。安保条約とは、たとえていえば「日米は地震のための備えをします」という二国間の取り決めです。条約には、本当に地震が起きたときの、避難袋の持ち出しとか緊急連絡先といった細かい話は含まれていません。そこで普段のうちから、「こうなったらこうする」というマニュアルを作っておきましょう、というのがガイドライン法案の主旨なのです。

 今までは、ソ連が日本を直接攻めてきたときのケースについてだけ、ガイドラインが作ってありました。しかし冷戦が終わると、その可能性は非常に低くなりました。かえって心配なのは、近隣国の動乱とかテロ、難民の発生といった事態です。そこで今度は周辺地域での有事マニュアルを作ったわけです。
 ですから、一部の野党が言った「ガイドライン法案によって日本は戦争に巻き込まれる」というのは実に奇妙な主張なんです。「避難袋の用意をすると地震が来る」わけはありませんし、だいたい地震の備えをするってことは、すでに条約で決めてあることなのですから。

 さて、日米関係の基本と言うべき日米安保条約ですが、あらためて読んでみると実によくできた条約です。長くなりますが、以下その序文を引用します。

 日本国およびアメリカ合衆国は、両国の間に伝統的に存在する平和および有効の関係を強化し、ならびに民主主義の諸原則、個人の自由および法の支配を擁護することを希望し、→(1)理念

 また、両国の間の一層の緊密な経済的協力を促進し、ならびにそれぞれの国における経済的安定および福祉の条件を助長することを希望し、→(2)経済協力

 国際連合憲章の目的および原則に対する信念ならびにすべての国民およびすべての政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認し、→(3)国連中心主義

 両国が国際連合憲章に定める個別的または集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、→(4)自衛権の確認

 両国が極東における国際の平和および安全の維持に共通の関心を有していることを確認し、→(5)極東への言及

 よって次の通り協定する。(以下略)

 日米安保条約は、前段で(1)民主主義や人権などの共通の価値観、(2)経済的協力の促進、(3)国連を中心とする平和主義、の3点の理想を掲げています。1960年に署名された条約ですが、今日でもまったく文句のつけようがありません。
 後段では、日本とアメリカがともに個別的自衛権、集団的自衛権を持っていることを表明し、極東の平和と安全が両国にとって大切であることを宣言します。これでなおかつ、政府見解が「わが国は、集団的自衛権を保有するが行使できない」なんていうのも、まことにおかしな話であります。

 ちなみにここでいう「極東」とは、フィリピンから北の日本とその周辺の地域であって、韓国や台湾もこれに含まれる、という政府見解があります。ですから中国が、「ガイドライン法案の“周辺地域”に台湾を入れるのはけしからん」というのはおかしな話で、そもそも日米安保条約の時点ですでに、台湾は“極東”に入っているのです。安保条約の実践マニュアルであるガイドライン法案で、突然台湾だけが対象からはずれるのは筋が通りません。

 ガイドライン法案について、アワーさんはこう言いました。「ファースト・ステップとしては良いことです。でもここで満足しちゃいけません。大事なことは、柔軟に防衛力を行使することです。とくに集団的自衛権の問題は、きちんと整理すべきでしょう。これはアメリカがどうこういう話ではありません。日本が自分で決めるべきことです」

 私事ながら、筆者は安保条約が誕生した1960年の生まれです。今年で38歳ですが、同じだけの年月を経たこの条約は、いささかも古びていないスグレモノであると思います。不幸なことに成立時に猛反対を受け、その後議論すること事態がタブーとなり、内容を詳しく知られることもなく、今日に至ってしまった感があります。
 何度も言いますが、ガイドラインはあくまでもマニュアルであって、肝心なのは日米安全保障条約です。日本とアメリカは、条約という形で理想と現実を確認し、数十年にわたって両国関係の基盤としてきました。日米安全保障条約という、この短い条約を一度読んでみてください。「世界でもっとも重要な二国間関係」の基盤がここにあります。
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