経済人コラム



 YOS.VOL.1 アメリカ・ウォッチング(NO.11からNO.20まで)
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 [執筆者]
 吉崎達彦
 [紹 介]
 1960年、富山市生まれ。
 一橋大学社会学部卒業後、企業PR誌編集長、シンクタンク研究員、経済団体職員などを歴任。現在は大手商社の調査部に勤務。[直通電子メール



 NO.11 ワシントンの不思議な魅力 97.11.1

 ワシントン、正しくはワシントンDC(District of Columbia)が、アメリカの首都で世界の政治の中心であることは子供でも知っていることでしょう。ただし、この街は「政治の都市」という一言では到底言い尽くせない魅力と奥行きを持っています。
 今回は筆者がかつて一時期を過ごし、今も限りない愛着を持つワシントンDCについてお話ししてみましょう。

「計画都市」
 アメリカ合衆国は発足当初、首都が定まっていませんでした。そこで新首都を作るために、当時の13州の北部と南部が協議し、1790年にメリーランド州とバージニア州の中間の10マイル四方の土地に建設することを決定しました。選ばれたのはポトマック川の河口に近い湿地帯で、たいへんに条件の悪い場所でした。
 埋め立てによって、湿地は今ではモールと呼ばれる美しいグリーンベルトに生まれ変わり、ワシントン・モニュメントやリンカーン・メモリアルなどで知られるスポットになりました。つまり、今で言う「首都機能移転」を200年も前にやったわけです。ワシントンは史上初の計画都市であるともいえるのです。

「政治都市」
 誰でも知っているとおり、ワシントンには行政府であるホワイトハウス、立法府である議会、司法府である最高裁判所などが集まっています。3代目のジェファーソン以後のすべての大統領がワシントンに住み、この街で執務をしました。
 これらの建物の特筆すべき点は、非常に開放的なことです。すべての建物に観光コースがついていて、最低限の約束ごとを守ればだれでも簡単に中に入ることが出来ます。とくに議会は、セキュリティ・チェックさえ済ませれば、市民がぶらりと入って傍聴してもお咎めを受けることはありません。

「金融都市」
 財務省はもちろん、アメリカの中央銀行であるFRBがあります。世界の基軸通貨ドルの動向を決めるワシントンには、常に世界中の眼が注がれます。国際機関である世界銀行やIMFがあることから、途上国にとってはとくに見逃せない場所といえます。世界経済のグローバル化が進む今日、その重要性はますます高まっています。

「頭脳都市」
 こうした政治経済上の判断を支えるインフラとして存在するのが、ワシントン市内に数多くある大学やシンクタンクです。高名な学者たちが、自由な立場から政策立案を行っており、政治、外交、経済、地域研究、軍事などあらゆる分野のオーソリティがそろっているのがワシントンの強みです。
 アメリカのもうひとつの頭脳都市であるボストンとは、シャトル便が30分おきに飛んでいます。彼らの研究は実際の政策に実用されたり、また研究者が政権内部に起用されることもめずらしくありません。

「情報都市」
 ワシントンでもっとも値打ちがあるのは情報です。情報を求めて、世界各国の企業やジャーナリスト、研究者たちが集まってきます。もちろんスパイもです。アメリカの情報機関であるCIAは、ワシントン郊外のラングレーという街にあります。
 ワシントンで、「あなたはどんな仕事をしているの?」と尋ねて、"I am working for the government."(政府の仕事をしている)、と答えるやつがいたらそいつはCIAだ、と語り継がれています。

「外交都市」
 ワシントンには、世界中の国が大使館を置いています。日本も含めて、どの国でも駐米大使は外交官として最高級のポストです。国務省は、フォギーボトムという街(偶然ながら、日本語に直せば「霞が関」)にありますが、エントランスにはアメリカと外交関係のあるすべての国の国旗が飾られていて圧巻です。かくしてワシントンは、世界各国の外交官が智略を尽くす舞台でもあるわけです。
 このことの副産物として、ワシントンは世界中の料理が食べられるグルメの街でもあります。

「観光都市」
 ついでに、ワシントン市民の少なからぬ部分が観光をなりわいとしているのもよく知られた事実です。実際、これだけ多くの観光資源を持つ都市は少ないでしょう。モールの両側に広がるスミソニアン博物館では、歴史、科学、美術、宇宙航空などの数々の展示物が並び、すべて無料で公開されています。他にもアーリントン・セメタリー、ペンタゴン、国立公文書館、国立動物園など見るべき場所はいくらでもあります。
 ワシントン郊外のアレクサンドリア、ウィリアムズ・バーグなどもお勧めスポットです。

 さて、ワシントンの地位は冷戦時代には「資本主義陣営の総司令塔」でした。冷戦構造の崩壊によってその意味が失われた頃、ワシントンの地位の低下が心配されました。しかし、今日になってみると、どうやらそれは杞憂だったようです。以前に比べ、むしろワシントンの地位は高まりこそすれ、一向に低下してはいないのです。
 理由は簡単です。
 世界の政治・経済・軍事構造が「アメリカ一極体制」に限りなく近づいたからです。今ではアメリカに対抗できる国は存在しません。おかげでNATOの東方拡大問題、対イラン・ミャンマー制裁、アジア通貨危機対策、臨界前核実験、そして地球温暖化防止のための京都会議など、最近の国際問題では、「アメリカが言い出したら、他国が何を言っても聞かない」というケースが目立ちます。良きにつけ悪しきにつけ、アメリカの国内政治が世界中を振り回しかねない現実を、われわれは直視せざるをえません。

 アメリカの大国としてのエゴをいかに食い止めるかは、今後の日本がつきあっていかなければならない難しいテーマです。しかしながらアメリカという超大国は、ありがたいことに次のような美点も兼ね備えています。

・独裁者が出ず、おおむね国内世論に従って政策が決まる。
・自己の価値観を他国に押しつける癖があるが、変な野心はない。
・情報公開が進んでいて、政策決定の透明性が高い。

 つまり、政策決定プロセスを十分に理解していれば、アメリカの次の出方を読むことが容易になる。ワシントンに強くなることが、これからの国際政治にはますます重要になるわけです。

 たとえばアメリカでは、4年に1度の大統領選挙がすべてのリズムを生み出します。
 このことをわれわれはよく覚えておく必要があります。オリンピックと同じ4で割り切れる年には、大統領選挙がやってきます。このバイオリズムがアメリカの国内政治を動かします。環境問題に熱心だったはずのゴア副大統領が、なぜ京都会議では二酸化炭素の排出削減に消極的なのか。これは2000年の大統領選挙を意識して、今から労働組合勢力の支持を取り付ける必要に迫られているからです。環境保護団体に比べれば、圧倒的に労働組合の方が勢力が上ですからね。

 これだけ重要性を増すワシントンですが、一方で政治不信による「反・ワシントン感情」がこれまでになく高まっているのが、最近のアメリカの興味深いところです。最近の話ですが、シアトルから来たボーイング社の人が日本で挨拶をしたとき、「私たちワシントンから来た者は・・」と言いかけてから、「同じワシントンでも“いい方”のワシントンですよ」(シアトルはワシントン州)とやって爆笑を誘ったそうです。

 国内では嫌われ、海外からは注目される。ワシントンは本当に不思議な街です。

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 NO.12 アメリカ外交のゴーマニズム 97.12.1

 今年の世界経済をひとことで表現するとすれば、「アメリカの楽観論とアジアの悲観論の年」ということになるでしょう。
 長期的な安定成長を続けるアメリカ経済に対し、「ニューエコノミー論」という解釈も浮上しました。10月末のニューヨーク株価の下落も、一時的なものに終わったようです。それに比べ、日本を含むアジア経済への認識は、この1年で「世界の成長センター」から「世界の不安定要因」へとすっかり変わってしまいました。

 当「アメリカ・ウォッチング」のコラムも、毎回アメリカを肯定的な立場から描いてきたつもりです。ただし、筆者もなんでもかんでも肯定しているわけではないので、今年最後のコラムでは「大丈夫かなぁ」と不安に思っていることを取り上げたいと思います。それは「外交政策」です。

 アメリカ外交の最大の特徴は、傲慢さと寛大さの2つの面が同居していることです。寺島実郎氏はこの癖を「抑圧的寛容」と命名しています。自国の価値観を押しつけてくる点では抑圧的であり、それを受け入れてしまえば寛大になる、という意味の上手なネーミングです。

 アメリカ外交の2つの面を、もっとも身にしみて体験したのは20世紀の日本でありましょう。つまり、太平洋戦争の間は原子爆弾まで用いた徹底的な姿勢で臨み、戦争が終わると同時に今度は信じられないほど寛大な占領政策をとったことです。日本人はきわめて柔軟な民族ですので、「鬼畜米英」から「アメリカさまさま」に見事に適応しましたけれど、普通だったら相当なショックを受けてしかるべきところです。

 傲慢さと寛大さは、どちらもこの国の理想主義の反映であると考えると理解がやさしくなります。アメリカ人は自国こそが最高であるという信念を持ち、それに合わない思考や信条にきびしく反発します。そのため、共産主義やイスラム原理主義には徹底した非妥協的な態度で臨みます。ところが、いったん相手がアメリカの要求を受け入れると、手のひらを返したように優しくなります。
 今世紀だけを取り上げてみても、第1次世界大戦後はドイツに有利な条件を出し、第2次世界大戦後は日本の同盟国となり、冷戦後のロシアは、今日ではアメリカがもっとも信頼する国のひとつになっています。

 さて、問題は最近のアメリカ外交から「寛大さ」が失われ、「傲慢さ」ばかりが目立つようになってきたことです。今年目立った例をいくつか挙げてみましょう。

・デンバーサミットの席上で、各国首脳にカウボーイハットとブーツの着用を要請。コール首相やシラク大統領はこれを拒否。クリントン大統領は、「アメリカ経済がいかに好調か」を長々とスピーチし、周囲の神経を逆なで。

・NATO東方拡大問題では、欧州各国の希望をいれず、ポーランド、ハンガリー、チェコの3か国に限定すると初めから主張。ボスニア問題でさえ米軍なしには解決できないのが現状であり、欧州各国はしぶしぶアメリカの主張を飲んだ。

・中東政策では、明らかに和平の障害になっているネタニヤフ政権の強硬姿勢を甘やかしている。国務長官、国防長官がそろってユダヤ系なことも手伝って、中東諸国は急激にパレスチナ側に傾斜。

・あいつぐ経済制裁。イラン、イラク、リビア、ミャンマーなど対象地域は拡大する一方。クリントン政権第1期の4年間で、世界35か国に対して60回の経済制裁が行われた。しかも、同じような人権問題があっても、経済的なメリットの大きい中国は別扱いにするという恣意的な運用が目立つ。

・アセアンの通貨危機に対して冷たい対応。「アジア通貨基金」構想は、IMFとのダブルスタンダードを作るとして反対。マハティール首相の「ソロス悪玉論」はいささか的外れとしても、アメリカに対する敵意がその根底にある。

・従来の寛大な移民政策の急激な変容。カリフォルニア州、テキサス州などでは、移民の制限が最も重要な政治課題となっている。

・そして今現在行われている京都会議での地球温暖化防止交渉での頑なな態度。世界でもっとも二酸化炭素を大量に排出しているのはアメリカなのに・・・

 これらの「ゴーマニズム」に敏感に反応したのは、おそらく世界で最もアメリカを憎んでいるイラクのフセイン大統領でした。この秋、国連による大量破壊兵器の査察問題で、イラクとアメリカの間で丁々発止のやりとりがありました。イラクはもとより、アメリカと軍事的に事を構える意思も能力もなかったと思います。ただし国際世論の風向きを読み、勝算ありとふんだのでしょう。

 実際、安全保障理事会の5大国のうち、今も対イラク強硬姿勢を維持しているのは米英だけであり、仏、ロ、中は風向きが変わっています。フランスは石油商談を勝手に進めていますし、ロシアは昔売り込んだ兵器の代金を取り立てたくてしょうがありません。中国はイラクに密かに武器を売っているようですし、アメリカを牽制する意味からもイラク寄りになるのは無理からぬところです。
 イラクのブラフは、アメリカの外交政策への国際的な同意が弱まっていることを見越した、一種の「瀬踏み」だったのでしょう。実際、アメリカは微妙な立場に立たされました。対米強硬策をアピールすることは、フセインにとっては国内を引き締め、経済制裁への不満のガス抜きにもなります。余談ながら、イラクは危機を引き起こす直前に、石油先物市場で大量の「買い」を入れて、一儲けしたとする消息筋の見方もあります。いずれにせよ、フセインとしては満足のゆく結果だったといえましょう。

 この事件であらためて明確になったのは、唯一の超大国となったアメリカの外交的な孤立です。軍事的にも経済的にも、いまやアメリカの優位を揺るがす相手は見当たりません。しかし、足を引っ張ってやろうという相手は世界中にいるわけです。アメ リカが当てにできるのは、いまやイギリス、カナダ、それに日本くらいといっていいのではないでしょうか。
 これはアメリカ自身の責任でもあります。この秋、元国防長官のシュレジンガー氏は「分裂と傲慢――アメリカのリーダーシップの危うい基盤」という論文を発表して、この点をきびしく批判しています。

「冷戦後の外交では世論の支持が重要なことは言うまでもない。しかるに世界でいちばんまとめにくいのがアメリカの世論なのである。国民は外交にそっぽを向いてしま った」

「世界の国々が喜んで従う外交政策とは何か。それは首尾一貫し、常に予測可能な政策である。残念なことに、現在の米国の政策は気まぐれとしか形容のしようがない」

「冷戦が終わり、周囲に挑戦者を失った米国は傲慢になった。・・米国は他国が米国流を見習いたいと思っており、米国の指導を受けたいと思っていると錯覚している」

 同論文は、経済制裁の濫用や首尾一貫しない外交政策を戒め、もっと同盟国を思いやるように結論づけています。アメリカの同盟国、日本としては「ごもっとも」としか言いようがありません。アメリカ外交を憂える声が、国内から飛び出すようになっているのは心強い話だと思います。

 アメリカという国は、他国の忠告に従ったことはありません。ときには歯止めがかからなくてひどい行き過ぎをやらかします。しかしアメリカの良いところは、間違いに自分で気づいて自分で修正することにあります。禁酒法も人種差別も「赤狩り」もベトナム戦争も、行き過ぎはありますけど、それを糺すのもまたアメリカ人なのです。
 外交政策の「ゴーマニズム」化も、アメリカはどこかで気づいて改めるものと筆者は信じます。ただし、これは相手のある問題です。早く軌道修正しないと、世界中の国がアメリカの足を引っ張るようになってしまいます。その点を心配しています。

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 NO.13 ニューエコノミー論の再検証 97.12.30

 先月分「アメリカ外交のゴーマニズム」は、MSNの「他のサイトで読みごたえのあるコラム」に選ばれたおかげで、たくさんのアクセスをいただきました。
 この場を借りて御礼申し上げます。なんだかんだで当コラムは2年目に突入。今年もしっかりとアメリカを監視しましょう。

 さて、米国経済は好調を続けています。1998年は景気回復が7年目となり、戦後最長の景気拡大局面となる公算が大です。具体的にどこが良いのかを列挙してみましょう。

・鉱工業生産指数は一貫して上昇。製造業稼働率も8割を越えている。

・失業率は5%以下で推移しており、1973年以来の低水準。賃金は3%台の伸び。

・消費者物価は前年同月比2%程度で推移し、生産者物価はマイナスの伸び。
 つまりインフレ懸念が少ない。98年はドル高でさらに輸入物価が下がる見込み。

・ルービン財務長官、グリーンスパンFRB議長などの経済運営手腕への信認が高い。

・財政赤字はすでに対GDP比で2%以下。98年は税収の伸び次第で財政黒字化の可能性も。

・アジア通貨危機、欧州の通貨統合の不透明を嫌って、海外のマネーは米国に集中。長期金利はついに6%割れ。

・米国企業は空前の利益を上げつつも、リストラの手をゆるめていない。労働市場の柔軟性が、大胆な構造変革を可能にしている。

・時代の先端をゆくInformation Technology(IT産業)が成長の牽引役。ハイテク・ベンチャーが、将来性を担保に潤沢な資金を得て育っている。

・株価は好調を続け、97年夏には8000ドル台を突破。97年10月の香港発世界同時株安もなんなくクリア。

 このような絶好調経済についたあだ名が「ニュー・エコノミー論」です。
 従来の経済理論によれば、「高度成長+低インフレ+低失業」という理想的な組み合わせは長続きしません。米国経済の場合は、成長率が3.5%を越えたり、失業率が5%を下回るようなら、インフレが生じるのがこれまでのパターンでした。インフレは金利の上昇を招き、経済は下降局面を迎えます。しかし90年代の米国経済は、このような過去の繰り返しを脱却したように見られます。

 昨年春頃から、「グローバル化や情報通信技術の発展により、米国経済の生産性は大きく向上した。今後は景気循環の波は小さくなるので、景気過熱を恐れる必要はない」という楽観論が浮上しました。これが「ニュー・エコノミー論」、あるいは「ニュー・パラダイム」などと呼ばれているものの正体です。
 そういえば、当コラムが昨年夏にこの話を紹介した際は「新経済派」と呼んでおりましたね。

 ところがその後、この「ニュー・エコノミー論」の評判は芳しくなく、クルーグマン教授などから反論が寄せられています。アメリカの生産性はそれほど向上しておらず、グローバル化の影響も限定的であるという理由です。総じてエコノミストの多くはこの説には否定的です。日本の経済企画庁も反論をまとめ、『世界経済白書』やホームページで公表しています。(他国の好況にけちを付ける暇があったら、自分の国の不況の原因でも分析して欲しいところですが)

 ニュー・エコノミー論の支持者はむしろ、ビジネスやマーケットの現場に参加している人々の中にいます。彼らは、「このようにでも考えないと現状の説明が付かない」と理屈より現実を優先します。現在の経済統計は実態を正確に表してはおらず、アメリカの90年代のインフレ率はもっと低い、つまり実質成長率はもっと高いのだ、と指摘します。

 ニュー・エコノミー論は、過去をベースに考えれば理論的にあり得ないが、現実をベースに考えれば有力なアイデアのひとつ、といえるでしょう。ただし、なぜ景気循環の波が小さくなるかといった細部のメカニズムなどは、論証不十分な部分が多いことも否定できません。経済理論として受け入れられるためには、一層のブラッシュ・アップが必要でしょう。
 このニュー・エコノミー論は、98年の米国経済がいきなり失速するようなら、来年の今頃にはただの徒花としてとうに忘れ去られているでしょう。しかし私見を申し上げるならば、98年の米国経済は緩やかに減速しつつ、2%台の成長率でソフトランディングを目指すものと思います。世界的なデフレ傾向を考えれば、低インフレ基調は今後も継続するのではないでしょうか。これはきわめて理想的な展開といえます。

 現在のニューヨーク株式市場はダウ30種平均が7000ドル台半ばですが、これも大きく下げるようなことは考えにくいと思います。ただし8000ドル台を大きく上回るようですと、企業業績から見て上げすぎになりますので、警戒が必要になると思います。いずれにせよ、政策当局の堅実な運営が今後も続くことを期待して、株価は堅調に推移し、バブル崩壊のような危険は小さいと考えます。

 アメリカがグローバル・スタンダードの発信地となり、世界経済の牽引役となっているのはだれもが認めざるを得ない事実です。しかし世界経済に「一人勝ち」がありえないことは、かつての日本が身を持って証明したところです。今年の半ばごろには、アジア経済の調整がじょじょに影を落とし始めますので、米国経済は減速気味になってくると思います。米国経済はかつてにくらべて輸出依存度が高まっていますので、この効果は無視できません。

 では、ニュー・エコノミー論をめぐる議論はどうなるでしょうか。筆者はこの議論は98年も継続すると考えています。なんとなればこれは、「情報通信技術の劇的な進化が経済をどう変えるか」という世紀の大テーマをめぐる議論であり、その結論が簡単には出るはずがないからです。以前も書きましたように、その結論が出るのは遠い未来であり、現在の情報通信革命が一段落したあとのことになるでしょう。
 その意味では、当面の現実を考える際には、従来からの理論を前提に考えざるをえません。「短期的には古くからの教え(景気循環論)の方が、新理論より役立つだろう」(ローラ・タイソン、前米大統領補佐官)という言葉を紹介しておきましょう。経済学の歴史はけっして古くはありませんけれども、景気循環論は捨て去るにはあまりにももったいないアイデアです。

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 NO.14 日本の夢、アメリカの夢 98.1.31

 「努力、友情、勝利」といえば、少年ジャンプの3大原則として知られています。
 この3つの要素を踏まえたストーリーを作るというのが同誌の創刊以来の方針であり、「男一匹ガキ大将」の昔から「リングにかけろ」「ドラゴンボール」に至るまで忠実に踏襲されてきました。この手法は幅広い支持を得て少年ジャンプの快進撃を助けました。

 思えば日本人の大ロマンといわれる「忠臣蔵」なども、努力、友情、勝利の物語だといってさしつかえありません。司馬遼太郎の「坂の上の雲」や黒沢明の「七人の侍」などもそうですね。苦労を重ねて仲間に助けられて最後に勝利を得て共に喜ぶというのが、もっとも日本人のハートをうつサクセスストーリーなのでしょう。

 ではアメリカ人の場合はどうでしょうか。
 アメリカの夢はやはり日本の夢とは違う独特のカラーがあります。あえて3条件を作ってみるならば、「機会、個性、成功」ということになるでしょうか。それぞれについて日本との違いを考えてみましょう。

 まず「機会」です。
 アメリカン・ドリームの特色は何よりもその性急さにありま す。つまり「ある日突然に」訪れるものであって、間違っても「苦節数十年」などという悠長なことはありません。典型的なアメリカン・ドリームの物語である「ロッキー」(1976)を思い出してみましょう。
 ヘビー級チャンピオンであるアポロは、元日に控えたタイトルマッチの相手に不都合ができたので急遽無名のボクサー「ロッキー」を相手に指名します。ロッキーはすでに盛りを過ぎたボクサーですが、エイドリアンという恋人を得たことで勇気づけられ猛練習に励みます。ところで、ロッキーとエイドリアンのデートはサンクスギビングの日でした。つまり11月の最後の木曜日です。ここから考えるとロッキーが猛練習に励んだのは12月だけ、実質1ヶ月に過ぎません。それで元日にはチャンピオンと互角に戦ってしまうのですからすごい話です。
 別にいちゃもんをつけるつもりはありません。アメリカ人にとっての成功はかくも素早くやってくるものだという典型的な例のひとつです。
 実際問題、アメリカン・ドリームを実現した人々はごく短期間に成功の糸口をつかんでいます。ウォール街3強の一角、トラベラーズグループの総帥ワイル氏は12 年前は失業者でした。デル・コンピュータとゲートウェイ2000の創業者はいずれも30代前半です。タイガー・ウッズは2年前には無名のプレイヤーでした。それぞれに苦労や我慢の時期があったには違いありませんが、日本人の基準から見ればうらやましいほど早く、若くして成功しています。

 次は「個性」です。
 日本で成功者といわれる人は、人格円満ないわゆる「まっとうな人」がほとんどです。角が立つ人は振るい落とされてしまいます。「いばる、怒る、すねる」で総理大臣になった橋本さんなどはおそらく希有な例といえましょう(失 礼!)。
 ところがアメリカの成功者はユニークな人ばかりです。ビル・ゲイツはおそろしく短気だそうですし、クリントン大統領の身辺は不倫だらけとか。普通の市民生活を営むにはいささか問題があるような人が成功者となっています。
 話題の映画、"Men in Black"(1997)を見てましたら、「近頃のアメリカには地球人に化けたエイリアンが大 勢住み着いている。現にあいつもこいつも実はエイリアンなんだ」といって、O.J. シンプソンやギングリッジ下院議長が紹介されていたのには大笑いしました。「ヘンな奴」が成功者となるアメリカにおいては、まじめな優等生よりも自分自身に正直に生きる人が評価されるようです。

 最後に「成功」のイメージについてです。
 アメリカ社会で成功するというのがどういうことか身をもって体現している例としてだれでもが知っている人を取り上げましょう。それはアーノルド・シュワルツネッガー。
 もともとオーストリアからの移民である彼は英語だってあまりうまくありません。身一つの彼が世に出るための手段は肉体を鍛えてボディ・ビルダーとして有名になることでした。チャンピオンになって名前を売り、そうして手に入れた映画初主演作は「コナン・ザ・グレート」(1982)でした。ほとんどセリフがない役でしたが、映画評では「主人公はドイツなまりだが、これはかえって有史以前という時代背景には適している」などと皮肉られました。
 しかし「ターミネーター」(1984)でブレイクするようになると、SF超大作からコメ ディまで幅広い仕事が寄せられるようになります。「こいつはいける」となったら周囲がよってたかって持ち上げるのがアメリカ流。当然のことながら彼は巨万の富を手中にします。
 90年頃からは共和党の有力な支持者として頭角を顕わし、ブッシュ大統領とも仲良くなります。私生活でも名門ケネディ家の女性を夫人にするなど、名実ともに上流階級の仲間入りを果たします。最近やっている"DirecTV"のCMのように大統領候補になることは不可能ですが(憲法上の規定により生まれながらの米国市民でなければ大統領にはなれない)、カリフォルニア州知事くらいなら十分に可能性があるといえるでしょう。
 つまり、成功というからにはじわじわと階段を上がってゆくのではなく、何度も化けるようにして仕事を広げてゆく。その結果として経済的な果実やら社会的地位の向上やらあらゆるものを手に入れますが、その成果は集団で分け合うのではなく 個人に帰属します。
 このようなサクセスストーリーの原型は、新天地に移民が建国したというアメリカの伝統が生み出したものだと思います。もしもアメリカ人が自由よりも秩序を愛する国民であったならば、そもそもこの国は誕生しなかったのです。成功を夢見て集まってきた人々が、それぞれに機会を求めて個性豊かに生きているところにアメリカ社会の根本的な健全さがあるといえるでしょう。

 ・・・ところで冒頭に挙げた「少年ジャンプ」は最近はピーク時の600万部からすでに半減するほど落ち込んでいるとか。かわって伸びている「コロコロコミック」では編集のキーワードは「自由」なのだそうです。努力、友情、勝利の路線はもう古いのでしょうか?
 これは日本人がアメリカ型の夢を追い始めるようになる前兆でしょうか??

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 NO.15 ある少年の物語 98.3.2

 少年が生まれたのは、ど田舎の温泉町。お世辞にも風紀の良い土地柄ではありませんでした。お父さんは少年が生まれる3ヶ月前に交通事故で世を去ります。お母さんは再婚しますが、相手は酒乱男。新しい父が家の中で暴力を振るい始めると、それを止めるのはいつも少年の役目でした。そんな彼も学校では優等生で人気者。ただし家での苦労は学校では内緒にしていました。

 実際、彼のような「いい子」がなぜあんなひどい家庭に育ったかは不思議なくらいです。母親は離婚と再婚を繰り返すような人でしたし、祖母は麻薬中毒で、弟はろくでなしでした。それでも少年の生い立ちはその人格形成に少なからぬ影響を与えたようです。少年はいつも周囲の期待に応える「いい子」であろうとし、八方美人になりました。結構小ずるいところもありましたから、少年には"Slick Willie"、つまり「抜け目のないウィル坊や」というあだ名がつきました。

 少年がいつ頃から野心を持つようになったかはよく分かりません。
 少年が16歳のときに、「あの人」に会ったのがきっかけだったという説があります。「あの人」は当時、国中のあこがれでした。国中から選ばれた若者の一人として、少年は「あの人」の前に出て握手をする栄誉に浴しました。しびれるような体験だったそうです。少年が「あの人」のようになりたいと思ったとしても不思議ではありません。

 少年はその後学業優秀を認められ、国中でいちばん名誉ある奨学生となり海外に留学します。その前に危うく兵役にとられそうになりましたが、各方面への巧みな根回しの結果、事無きを得ました。留学から帰ってからの彼は有名大学の法学部を卒業します。大学では評判の才女を口説き落として結婚し、故郷に帰って弁護士を開業 。
 少年はもはや、男前で、頭の切れる、前途有望な青年に成長していました。

 故郷は秀才の帰還を歓迎し、彼は若くして地元の検事総長に選ばれます。そしてついには全国最年少で知事に当選します。若気の至りで途中で落選したりもしますが、「失敗から学ぶ」ことが彼の長所でしたから、やがて故郷は全面的に彼を信頼してくれるようになりました。
 しかし知事であることは彼にとっての最終目標ではありませんでした。「あの人」のようになりたい。つまり第35代大統領、ジョン・F・ケネディのようになりたいという思いはいつも心の中にありました。1991年夏、彼ことウィリアム・ジェファーソン・クリントンは決断します。大統領選挙への出馬を宣言したのです。

 当時、湾岸戦争を勝利に導いた第41代大統領、ジョージ・ブッシュの再選は確実と思われていました。また民主党からは大物、クオモ・ニューヨーク州知事が出馬するはずでしたから、彼は予備選挙を勝ち抜くことさえ至難のはずでした。信頼する妻ヒラリーは、92年のチャンスは単なる予行演習であって、4年後にもう一度挑戦すればいいと助言してくれました。
 しかしクオモが出馬を辞退したことから、彼は否応なく民主党候補者の有力候補に擬せられます。フロントランナーとなった彼を最初の試練が襲います。序盤の山場といわれるニューハンプシャー州予備選挙の1週間前に、旧アーカンソー州職員ジェニファー・フラワーズ嬢との不倫疑惑が浮上しました。さらに兵役をごまかした過去も暴かれてしまいます。

 絶体絶命の危機を迎えた彼が選択したのは、結果を恐れずに選挙民の前に飛び出してゆくことでした。小さな州の一人一人と握手する覚悟で彼は選挙戦に没頭します。庶民はマスコミ報道よりも、目の前の彼の言葉に耳を傾けてくれました。この予備選挙で彼は価値ある2位の座を得て候補者として復活します。新たについたあだ名 は"Comeback Kid"(復活野郎)。その名の通り、彼はその後もたびたび危機を迎えますが、1993年1月にはビル・クリントン第42代大統領が誕生するのはご承知の通りです。

 大統領になってからも彼のパターンは変わりません。
 好調になるとつまらないミスが出て窮地に陥る。ところが危機を迎えると元気が出てしぶとくよみがえってくる。彼の人生はまるでジェットコースター。上がれば下がり、下がれば上がるのです。

 93年には議会の抵抗にあいながらNAFTAとWTOの批准に成功。かと思えば 鳴り物入りの保険制度改革には失敗します。94年の中間選挙で民主党が大敗すると、 共和党寄りに路線を修正してちゃっかり支持率を回復。好景気も手伝って96年にはボブ・ドール候補を破って再選。そして97年には予算均衡合意を成立させ、ついに財政の黒字化を指呼の間に捕らえました。

 この間に彼を襲ったスキャンダルは数知れません。
 不倫報道(92年、ジェニファー ・フラワーズ事件)、職権乱用(93年、ホワイトハウスの旅行代理店疑惑)、不正蓄財 (93年ホワイトウォーター事件)、セクハラ(94年、ポーラ・ジョーンズ裁判)、選挙資金問題(96年、アジアからの献金疑惑)など。それでも不幸な少年時代を思えば、彼に「絶望」という言葉はありません。危機を迎えれば開き直って立ち向かうのが 彼の流儀です。
 98年には、これにルィンスキー事件が加わりました。これで司法妨害(被告に嘘を強要すること)という新手の疑惑が追加されたことになります。一時のマスコミ報道では、「クリントン、辞任もやむなしか」との見方が優勢になりました。

 しかしこれしきでめげるような男ではありません。全面的に疑惑を否定して「大統領は職務に戻る」と宣言。その一方、ヒラリー夫人が「一連の疑惑は保守派の陰謀」と弁明に回ります。大統領一般教書では拍手喝采を得て見事な復活を遂げてしまいます。議会も、支持率7割の大統領を敵に回すのは容易ではありません。なにしろ米国経済は目下絶好調ですから、こんなときに大統領に辞められては国民が困ります。毎度のことながら、アメリカの意思決定を左右するのは世論なのです。

 アメリカ合衆国大統領は世界でもっとも影響力のある指導者です。しかしビル・クリントン自身は、われわれと同じ普通のひとりの人間に過ぎません。特別に立派な人ではないし、同時に無茶苦茶に悪い人物でもなさそうです。仕事熱心。涙もろい人情家。かんしゃく持ち。女好き。優柔不断。豊かな表現力。歴史に残る偉大な大統領といったタイプではありませんが、良くも悪くも時代が生んだ今日的なリーダーといえましょう。

 大統領の性格を知り、思考と行動のパターンを見極めることは、アメリカウォッチングのもっとも重要な作業の一つです。そういうとき、筆者はいつも彼の少年期を考えるようにしています。「生い立ちを知る」のは他人を理解するときの基本ですよね。

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 NO.16 コークかペプシか 98.4.1

 アメリカが心底好きになるかどうかの分かれ道は、「公園で売っているような何の変哲もないホットドッグとコーラを、うまいと感じるかどうか」だと言った人がいます。これはすごく当たっているように思います。日本の伝統的な食文化の感覚からいえば、あれはけっしてうまいものではありません。しかし「アメリカの公園で食べるホットドッグとコーラ」に、名状し難い魅力があることもまた事実です。
 筆者もまた、うまいと感じてしまった一人です。

 このように、アメリカとは切っても切れない関係であるコーラですが、注文するときは「コークかペプシか」「普通のかダイエットか」をちゃんと指定しないといけません。筆者の場合は、コカコーラとペプシの味の違いは分からないので、適当に決めています。「私には区別がつく」という人は大勢いますが、目隠し検査をしたらはたしてどうか、怪しいものだと思います。

 しかし味では大差のない「コークとペプシ」は、企業経営の立場から見ると非常に対照的な道を選びました。コカコーラが目指したのは世界最大のソフトドリンク会社、ペプシコが目指したのは総合食品産業です。
 コカコーラの売り上げを見ると、なんと91%が主力であるソフトドリンクです。本社は原液とシロップを生産し、傘下もしくは独立系のボトラーに販売しています。これがいちばん高収益なのだから、それ以外のことはやらない、という考え方です。
 反対にペプシコでは飲料の売り上げは全体の35%に過ぎず、スナック食品28%、レストラン37%などと多角化が進んでいます。おなじみのピザハット、ケンタッキー・フライドチキン、タコベルなどは皆ペプシコの子会社です。

 コカコーラは利益と効率を追求し、ペプシコは規模と成長を追求したといえます。
 両社の業績を比べると、売り上げではペプシコが上ですが、営業利益では同程度、そして純利益ではコカコーラが上回っています。財務内容を比べると圧倒的にコカコーラが良く、長期負債などはペプシコの7分の1以下です。まことに対照的な企業戦略といえましょう。

 コカコーラは「少ない資本で要領よく稼ぐ」ことを目指してきました。資金需要はなるべく少な目にして、遊休資産や収益の低い事業はどんどんリストラしてしまいました。儲かったお金の使い道に困ったときは、「自社株買い」を実施して株主に利益を還元します。"We exist to create value for our share owners on a long term basis".(われわれは、株主に長期的に価値を創造するために存在する)という社是を掲げ、96年には「もっとも尊敬される企業」に選ばれました。
 株主の目から見た企業の収益性を示す指標に、ROE(株主資本利益率)がありますが、コカコーラはなん と毎年50%以上ものROEを達成してきました。日本企業で2桁のROEはほとんど皆無ですから、これは奇跡的な数字です。今日の米国企業の株主重視経営のお手本といってもいいでしょう。

 反対にペプシコは企業買収を繰り返し、関連ビジネスを広げることで成長を目指しました。こうすると全体の経営が安定するとか、複数の事業の間でシナジー効果が期待できるといったメリットがあります。しかし実際には、買収のための長期負債が増加したり、低収益事業が経営の重荷になるなどのマイナス面が目立ちました。
 日本でもセゾングループの多角化戦略の行き詰まりが話題になっていますが、かつては大いに推奨されたコンゴロマリット路線も、最近ではうまくゆかないことが多いようです。

 さて、当コラムはちょうど1年前、「株主重視経営」をテーマに取り上げました。
 そのときは、アメリカ式の株主重視経営を日本も学ぶべし、と書きました。そのこと自体を訂正する気はありませんが、最近はちょっと見方が変わってきました。つまり、アメリカ式の株主重視経営は少しずつマイナス面が現れてきたのではないかと。それはあるニュースがきっかけでした。

 日本コカコーラは、この春から缶入り飲料を120円に値上げします。儲かってないからではありません。本社からの利益上乗せ要求に伴った判断だとか。これってつまり、「株主のために顧客が犠牲になる」構図じゃないでしょうか。

 問題はアメリカの株式市場では、企業が収益の「額」ではなく、「率」を競うようになっていることです。
 高収益のコカコーラといえど、常に昨年以上の利益「率」を求められたら、無理せざるを得ません。そこで海外の子会社を痛めつけるようなことをしてしまいます。でも値上げで顧客が会社の商品を見放すようになったら元も子もありません。

 株主重視ということ自体は間違ってはいません。
 企業経営において、最大のリスクを負っているのは株主だからです。企業の売り上げから、最初に「取引先」が原材料費やサービス料を受け取ります。次に「社員」が給与や販売管理費を受け取ります。
 ここで経常利益が残れば、「経営者」がボーナスをもらいます。そして最後に当期利益が残れば、配当として「株主」に還元されます。企業が赤字になると株は無配になりますし、倒産すればそれこそ株は紙切れになってしまいます。このように株主は「残余の請求者」であるために、「企業は株主のもの」と主張できるのです。
 しかし企業の「売り上げ」は、もともと「顧客」が支払ったものです。いくら株主を重視するにしても、顧客を犠牲にしてはいけません。企業のステークホルダーズの中で、もっとも重要なのは顧客なのですから。

 すべての企業が高いROEを目指している現状では、こういった矛盾が生じてしまいます。ROEが低いと資金が得られなくなるという恐怖から、各企業は資本の効率性を競うようになります。ところがみんながコカコーラの真似を始めたら、ペプシコの外食チェーンは引き受け手がなくなる、なんてことになりかねません。フライドチキンとコーラは良く合うと思うのですが…。

 資本効率を高めることは望ましいことです。しかし行き過ぎると、情報通信産業などの花形分野ばかりに資本が集中するという危険が高まります。素材産業のような低収益分野にカネが回らないとか、高収益を目指してついついリスクの高い分野にカネが流れる、という可能性も否定できません。
 ダウ9000ポイントを目前として、あいかわらず絶好調のニューヨーク市場ですが、こういう危険も忘れてはならないと思います。

 コカコーラとペプシコの経営競争は、今のところ前者がリードしています。でも「俺はペプシでなきゃ駄目だ」という人がいるのは当然ですし、この先の両社がどうなるかは分かりません。
 確実なことは、「コークかペプシか」を客に選ばせてくれるのがアメリカ社会の良さだということです。味の違いが分からない筆者にとっても、これは変わってほしくない美点のひとつです。

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 NO.17 銃放任社会の実相 98.5.1

 少年犯罪をめぐるニュースが多いこのごろです。
 日本でバタフライナイフを使った凶悪犯罪が大きく取り上げられたかと思ったら、アメリカでは拳銃やライフルによる少年犯罪があいついで報道されています。今年3月、アーカンソー州で11歳と13歳の少年が中学校の校庭で銃を乱射し、女生徒4人と教師1人が死亡しました。4月には本物とおもちゃの拳銃を間違えて、4歳の子供が6歳の子供を射殺するという痛ましい事故もありました。
 バタフライナイフがいくら危険だといっても、さすがに拳銃やライフルほどではありません。アメリカが大好きという人の間でも、「これだけはついてゆけない」というのが、かの国の銃の放任ぶりです。

 全米で民間人が収容する銃砲類は、6000万から7000万丁と推定され、ほぼ「2軒に1軒」の割で銃がある勘定です。
 短銃使用の犯罪は、毎年平均63万9000件発生しており、1990年の犠牲者数は1万567人でした。先進国の銃による犠牲を比較した統計によれば、1994年の銃による死亡者(犯罪、自殺、事故を含む)は、アメリカが10万人につき14.24 人と文句なしの世界一です。ちなみに銃による死亡者が最も少ない日本は0.05人でした。

 アーカンソーの事件が大規模に報道されたこともあり、最近は銃規制の動きが少しばかり加速されました。クリントン大統領は事件の後、かねてから検討していた外国製の銃58種類の輸入禁止に踏み切りました。
 1968年に施行された銃規制法により、アメリカでは襲撃用の銃の輸入は禁止されていますが、メーカーは銃をスポーツ用に改良することで抜け穴を作ってきました。ただし今回の措置は輸入銃だけであって、国産品にはお咎めがありません。
 前述のとおり、米国内の銃市場はすでに飽和状態です。銃のメーカーとしては、マーケティングにもそれなりの工夫をこらしています。従来の銃の購入層は白人男性ですが、最近は女性の護身用という需要を拡大したり、ひどくなると「子供にも親しまれるスポーツ」という売り込み方を考えたり、ともあれ売上増大に余念がありません。

 太閤秀吉の刀狩り以来、「民には武器を持たせない」政策を続けてきた日本の感覚では、アメリカ社会の銃放任ぶりは信じられないの一語につきます。かならずしも銃の所有を禁じていない欧州においても、「アメリカは行き過ぎ」という意見が多いようですから、これはある程度アメリカ社会に特有な性向であるように思われます。
 ここまで銃に寛容な社会が生まれたのは、まずは歴史と文化、次に人々の考え方、そして今日的な政治的事情という3つの理由があるように思います。

1)歴史と文化

 アメリカ合衆国は、「成年男子のすべてが銃を手に立ち上がって」独立を果たし、西部開拓時代においては「自分の身は自分で守る」ことをモットーとしてきました。牛を飼うにも、犯罪から身を守るにも、あるいはインディアンと戦うにも、人々にとって銃はなくてはならないものでした。
 個人による銃の所有は、保安官制度や陪審制の裁判などと同様に、自治を重んじるアメリカ社会の基礎的な要因でもあるの です。事実、合衆国憲法は人民が武装する権利を保障しています。銃規制はすなわち憲法違反、国民の権利の侵害に当たるわけです。「米国民に銃を手放せというのは、日本人に米を食うなというに等しい」と極論する人もいます。ことが文化にかかわることだけに、冷静な議論をするのが非常に難しい問題であるといえましょう。

2)人々の考え方

 以前、筆者がアメリカに住んでいたときに、「なぜ銃の規制ができないのか?」と素朴な質問を投げかけたところ、ある議会スタッフから「規制を増やすのは不人気な政策だからなぁ」という返事が戻ってきて驚いたことがあります。
 1993年に鳴り物入りで成立した短銃規制法ことブレイディ法案は、「銃を購入するときに、申し込み者の犯罪歴の有無などを調査するために5日間の猶予期間を置く」という内容に過ぎませんでした。ところがこれだけのことになかなか賛同が得られない。内容のいかんを問わず、規制をするのはとにかく良くない、安全のために自由を制限するなどとんでもない、といった発想が草の根レベルにあるためです。
 この点は日本人の感覚と正反対といえましょう。日本では何か事件があると「お上がちゃんと指導すべきだ」という話になりがちですが、「市民生活への国家権力の介入は、少なければ少ないほどいい」というのがアメリカ式です。

3)政治的事情

 銃規制に関して、筆者などが常々けしからんと感じているのはNRAことNational Rifle Associationの存在です。
 全米ライフル協会はアメリカ随一の圧力団体であり、巨大な集票力を有しています。その政治目的は銃規制に反対することであり、レーガン大統領のように銃の保有に寛大な政治家を支持してします。たとえば1994年の中間選挙では、NRAは前年のブレイディ法案成立に貢献度大だった議員を狙い撃ちし、組織票を動員して対立候補に投票しました。このときはなんと、下院議長だったフォーリー氏までが落選してしまいました。小選挙区制であるだけに、この手がよく効くのです。フォーリー氏は日本大使に任命されましたが、銃の少ない日本での暮らしをどう思っておられるか、聞いてみたい気がします。

 アメリカで銃規制に反対する勢力は、「銃がなくなっても凶悪犯罪はなくならない」といった反論をよくします。「交通事故が起きるのは、運転する人間のせいであって自動車が悪いのではない」というのと同じ理屈です。ただし自動車と銃を同一視するのは、筆者などにはどうしても詭弁のように感じられます。
 アメリカ社会の歴史と文化には敬意を表し、人々の考え方にはそれなりの理解をしなければならないと思いますが、銃のメーカーや圧力団体の都合がまかり通るというので はやり切れません。

 ブレイディ法案成立の原動力になったのは、1981年のレーガン大統領狙撃事件で頭に銃弾を受けたブレイディ報道補佐官でした。ブレイディ氏は夫人とともに、車椅子から銃規制を訴えつづけ、7年がかりで同法の成立にこぎ着けました。
 今回の少年犯罪も不幸なことでしたが、これで少しでも銃放任の現状が改善すればと思わずにはいられません。

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 NO.18 豊穣なる多様性 98.6.1

 「アメリカの強さは多様性(diversity)」というのは、全米のどこへいっても聞かされる言葉です。とくに人種・民族的な多様性については今更いうまでもないでしょう。
 意外と盲点になるのは、地域的な多様性です。
 アメリカ合衆国の50州は、北は極寒のアラスカから南は熱帯のプエルトリコまで、東は大西洋に面したボストン港から西は太平洋にのぞむサンフランシスコ港までの広がりを持っています。都市と田舎の差も大きなものがあります。テレビや映画で紹介される大都会は、アメ リカのほんの一局面に過ぎません。人口約2億5000万人のうち、なんと6割までが人口5万人以下の小都市に住んでいるといわれます。
 映画「アメリカン・グラフテ ィ」や「スタンド・バイ・ミー」の舞台となったような、ごく小さな町こそが普通のアメリカ人が生活している場所なのです。これはアメリカを考える上でもっとも重要なポイントとして、筆者が常々意識していることのひとつです。

 日本で47都道府県を全部言える人が少ないのと同様、アメリカ人でも全米50州の名前と場所が分かる人は必ずしも多くありません。筆者は在米時代、50州と歴代大統領の名前を暗記して、しばしば身近なアメリカ人をテストしておりました。パーテ ィーなどでの話題作りにはもってこいです。

 さて、日本の地域差もけっして少なくはありませんが、全米50州はそれぞれ実に個性的です。
 以下にご紹介するのは「ボツになった州の標語集」というジョークの一部です。ちょっと強引な意訳を試みたものもありますが、各州の個性を堪能してください。

○アラバマ州 「少なくともミシシッピではありません」
○アラスカ州 「エスキモー、嘘つかない」
○カリフォルニア州 「テレビでご覧の通りです」
○コロラド州 「スキーしない? じゃあ用はない」
○フロリダ州 「わしらの孫の話を聞いてくれ」
○ハワイ州  「本土の奴らは嫌いさ、お金は好きだけど」
○アイダホ州 「ポテトと・・うん、失礼、それだけです」
○アイオワ州 「むこう20億年、津波の心配なし」
○メイン州  「ロブスターがほんとに安い」
○マサチューセッツ州 「スウェーデンよりも税金が安い」
○ミシガン州 「カナダからの防衛最前線」
○ミネソタ州 「売り地」
○ミズーリ州 「あなたのお金で公共事業実施中」
○モンタナ州 「ユナボンバーの州」
○ネバダ州  「芸者とポーカー!」
○ニュー・ハンプシャー州 「あっち行け、ほっといてくれ」
○ノース・カロライナ州 「ご喫煙に感謝」
○ノース・ダコダ州 「わが州には・・その・・うん、恐竜の骨がある」
○オクラホマ州 「舞台と一緒ですが、唄はありません」
○ペンシルバニア州 「石炭で調理してます」
○ロード・アイランド州 「本当は島ではないんです」
○テキサス州 「ベルトのバックルは顔よりでかいぜ」
○ワシントンDC 「あなたでも市長になれる町」

 調子に乗って日本版も作ってみたくなりますが、それは本題ではないのでさておきましょう。

 連邦制国家のアメリカでは、州はそれぞれ独立した財源を持ち、州法と州議会を持っています。教育や産業政策などの権限は連邦政府ではなくて州にあります。これは教育が大事でないからではなく、「教育のように大事なことが、政府なぞに任せられるか」ということで、そうなっているようです。
 お仕着せの「教育指導要領」などはありませんから、州ごとにいろいろな教育が行われます。その結果、地域ごとにさまざ まな人材が育ちます。

 アメリカは競争社会といわれますが、重要なことは、競争が人種的にも地域的にも多様な人々の間で行われていることです。豊穣なる多様性の中での競争は、意外な結果をもたらし、ユニークな成功者やリーダーを輩出します。
 これをもって、われわれは「アメリカン・ドリーム」と呼んでいます。

 日本もまた競争社会であるといえましょう。
 ただし、似たような参加者の間で、減点方式で序列をつけていることが多いようです。こういった同質的な競争では、周囲が納得しやすい結論が出るかもしれませんが、めざましい成功者やリーダーを生むにはむいていないように思います。
 おそらく徳川時代までの日本は、豊穣なる多様性を有した国だったのでしょう。幕末の混乱という競争からは、多くのすぐれた人材が登場しました。しかし明治以後に導入された教育制度の結果、日本人全体がきわめて同質的な集団となってしまいました。そのことがもたらしたメリットは当然あるものの、最近では弊害の方が目立つようです。

 日本が豊穣なる多様性を回復するためにはどうしたら良いでしょうか。
 まずは各都道府県の独自性発揮が望まれるところです。そのためには、「ボツになった標語」作りから始めてみてはどうでしょう。

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 NO.19 ガリレオの思い出 98.7.1

 その年の秋、僕はワシントンの暇な企業研修生くらしの合間に、ジョージタウン大学の社会人向けの講座を受講することにしました。夜の時間帯に社会人が学生に混ざって大学の講義を受けるというクラスです。週に1回、2時間程度の講義を3ヶ月分。
 僕が選んだテーマは「開発途上国と経済」、それに「現代美術の楽しみ方」でした。料金はそれぞれ70ドルと80ドルくらいだったと記憶しています。

 2つのテーマを選んだ理由は簡単でした。
 その頃の僕はあまり英語に自信がなく(今だってそうだけど)、自分がよく知っている分野の話ならなんとか理解できるだろうと思ったのです。経済は仕事のうちだからそこそこ自信があるし、学生時代に美術館でアルバイトをしたことがあるので現代美術にはかなり詳しいつもりでした。

 ところがいざ授業に出てみると、やはり英語の授業は簡単ではありませんでした。授業は20人程度のゼミ形式で行われるのですが、「開発途上国と経済」の初日、「GNPを定義してください」という先生の問いに対し自信満々で手を挙げた僕は30秒後には立ち往生してしまったのでした。まわり学生のレベルはけっして高くはないのですが、これはいささかショックで以後この授業への熱意は急速に冷えました。

 それに比べると「現代美術の楽しみ方」の方はうまく授業に溶け込むことができました。スライドを使って近代絵画の歴史を紹介してゆく授業で、"Impressionism"が 「印象派」で"Surrealism"が「シュールレアリスム」といった言葉さえ分かれば、後は容易に会話に加わることができたからです。
 先生は美術を専攻している40歳くらいの女性でしたが、とてもきれいな分かりやすい英語を話す人だったのも幸いしました。

 普通の授業と違い、美術には「これが正解」というものがありません。そのへんの気楽さもありました。例えば先生は「来週までにスミソミアン博物館に行って、今やってるローシェンバーグ展を見てくること」などといった宿題を出すわけです。ありがたいことに、スミソニアンは全部入場料がただですからそのときは時間をかけてローシェンバーグ展を見てきました。
 ローシェンバーグといえば、僕にとっては中学校の美術の教科書で初めて見た作家ですから、その宿題を出されたときにはちょっと驚きました。「ローシェンバーグって故人だと思ってました」「あら、こないだ本人に会ったけど元気でしたよ。68歳だそうですけど」と先生。「68歳といえばブッシュ大統領と同じですね」「まぁ、でも彼はブッシュよりはリベラルだと思うわよ」――今から思うと、これっ てワシントンらしい会話ですね。

 さて、「現代美術の楽しみ方」を受講していたのはほとんどが若い学生たちでしたが、明らかに異質な人間が二人いました。一人は日本人の僕、そしてもう一人は怪しげな英語を話す中南米系の中年男性でした。何度か名前を聞いたのですがどうしても覚えられず、しょうがないから僕は心の中で「ガリレオ」と命名しました。たしか にGで始まって途中でLかRがつく名前だったのです。
 ガリレオと僕以外のほとんどは若いジョージタウン大学の学生たちで、そのほとんどは白人のまっとうなアメリカ市民たちでした。彼らは現代美術に対してはごく標準的な知識を備えており、つまりセザンヌとピカソの違いはつくけれどもモジリアニとモンドリアンは間違えるかもしれないといった程度でした。
 ところが、ガリレオは相当に高度な見識を有しているようでした。そういうことは言葉の端々に表れるものです。

 ある決定的な瞬間のことを覚えています。
 先生が、シュールレアリスムは歴史的な必然として登場した、といった意味の話をしていたとき、ガリレオはこんな質問をしたのです。「中世にもシュールレアリスム的な作品がありますよね。ヒエロニムス・ボッシュとか」 ――僕は正直、「オヤジやるなぁ」と思いましたし、先生も「おぬし、出来るな」といった風情でした。
 ボッシュとは中世が生んだ謎の作家です。スペインのプラド美術館で「聖アントニウスの誘惑」という代表作を見たことがありますが、これがシュールレアリスムに含まれるべきかどうかは議論の尽きないところだと思います。つ まり、とても刺激的ないい質問だったのです。

 そんなことがあってから、僕はこのガリレオとよく話すようになりました。
 この胡散臭い中年男に話し掛けようとする人は他にはあまりいませんでしたから、教室では非アメリカ人の二人がいつも隣り合うようになりました。僕としては本当は若い女の子とでも仲良くなりたかったのですが、まぁ世の中はそんなもんです。

 ガリレオはコロンビア人でした。
 本人の言うことを真に受けるならば、彼は芸術家で、家族を捨ててこの国に政治亡命をしてきたのだと。話の中でつじつまの合わない部分は大目に見ました。なにしろ互いにたどたどしい会話でしたから。
 話している間、彼は何度も「エスクスミ?」と繰り返すのです。これが何のことかというと"Excuse me."つまり「いまなんて言ったの?」なのです。こちらの英語も相当にひどかったということでしょう。

 秋も深まった頃のある日、ガリレオは「僕の作品を見にこないか?」と持ちかけてきました。正直言ってちょっと恐かったです。彼はいかにもスラム街に住んでいそうでしたから。そしてワシントンのスラム街は、危険で汚いことにかけては全米でもトップ級でしたから。でもひょっとしたら、こいつだって世に埋もれた大芸術家かもしれない。まぁ、その可能性はゼロに近いだろうけど、ワシントン在住の亡命者というのはどんな暮らしをしているのか見てみたい、そんな好奇心が手伝って僕はすぐに オーケーしました。

 授業が終わった後、僕はガリレオを自分のアコードに乗せました。
 ガリレオが示したのは、大学からそう遠くないフォギーボトムにある国務省のすぐ向かい側のアパートメントでした。「これなら一安心」という気持ちを隠しつつ「ここは月にいくら?」と聞いたら600ドルとのことでした。そこは2ベッドルームの小ぶりな部屋でした。極度に調度品の少ない部屋には、浅黒い20代の若者が一人ぽつんと座っていました。ガリレオはこの若者と部屋をシェアしていたのでした。
 「僕らは二人ともムスリムだから、お酒はないんだけど、いいかな?」「もちろん」、すると二人はプラスチックのコップにコーラを注いでくれました。「君も亡命したの?」と若者に聞きました。若者はうなづき、自分はパリスタインから来た、と言いました。その国どこにあるの?と尋ねたら、中東の地図を引っ張り出してきて僕に見せるのです。あぁ、パレスチナか。鈍い僕にもやっと分かってきました。

 この国にはいろんな亡命者がやってくる。天安門事件を組織したような奴も来れば、ガリレオのようになんだか分からない奴も来る。合衆国政府の国務省は、わりと寛大に彼らを受け入れる。すると彼らは近くのアパートに住んで生活の道を探し始める。パレスチナ人の若者は地道な働き口を持っているようでした。しかしガリレオは自宅で創作活動をしたり、大学の講義に出かけたりして優雅にしているようでした。
 おもしろいことに若者の方も英語がたどたどしく、ガリレオはここでも「エスクスミ」を連発していました。それでも二人は仲が良さそうでした。しかし僕の方は「この二人、ホモだな」などと余計なことを考え出したために、内心穏やかではなくなってました。
 そこで自分を落ち着かせながら、ガリレオに「さぁ、君の作品は?」と促しました。
 ガリレオが見せてくれた作品。それはまあ、ガラクタのようなものでした。小さな箱のようなオブジェを示しつつ、ガリレオは自分が表現したいテーマについて熱弁をふるってくれました。僕は、うんうん、おもしろいね、それはいいアイデアだね、などと適当なあいづちを打ちながらそれを聞きました。ガリレオはきっとこういう話をする相手が欲しかったのでしょう。「現代美術の楽しみ方」講座を取ったのも、そういう友達が欲しかったからなのかもしれません。

 その部屋には2時間くらいいたでしょうか。
 3人でコーラを何杯もお代わりしました。知らない人が見たらそれは不思議な光景だったでしょう。何よりその日の僕はスーツ姿でした。だいたい僕は日本企業の研修生で、月に1100ドルもするアパートに住んでいて、道楽で大学の講義に顔を出していたのですから。亡命者とジャパニーズ・ビジネスマン。立場が違うといえばぜんぜん違う。ただしその夜の3人は、この国では外国人であり、英語がうまくなく、友達も少ないことではまったく同じだったのです。
 最後に僕がおそるおそる「帰るよ」と言い出したら、二人はあっさり「じゃあね」と見送ってくれました。

 やがて「現代美術の楽しみ方」も最後の日が来ました。
 その日、僕はめずらしく仕事上のトラブルを抱えて最悪の気分でした。その夜うちに帰ってから片づけなければいけない作業を思うと授業中も上の空。授業が終わると、一目散にアコードを停めてあるパーキングに急ぎました。すると後ろから、ガリレオが僕を追い駆けて来るのです。その瞬間、あぁ面倒なのが来ちまったと思いましたが、とっさに僕の口をついて出たのは「乗るかい?」でした。
 ガリレオは丁重に申し出を辞退しました。「いいよ、僕は歩くから。知っての通りうちも近いしね」彼はとてもやさしい声を出していました。「この授業で君に会えてとてもよかった。それからいつかは僕のうちに来てくれてど うもありがとう。とても楽しかった。それが言いたかったものだから」 。

 ガリレオは別れのあいさつをしに来たのでした。僕は、次の週からガリレオと会えなくなるという単純な事実にやっと気がつきました。何を言ったらいいかわからず、彼の手を握りました。ガリレオは満足そうに笑うと、意外なほどにあっけなく背中を向け、ジョージタウンの街に消えていきました。
 その後、僕とガリレオは、二度と会うことはありませんでした。ワシントンなんて小さな街ですから、知り合いに出くわすなんてちっともめずらしいことじゃありません。フォギーボトムのあたりを通るたびに、ここでガリレオを見かけたらどうしようと考えたことがあります。本当に彼を見つけたら、きっと僕は困ってしまったでしょ う。なにしろ僕は最後まで彼の本当の名前を覚えられなかったのですから。

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 NO.20 ゴジラをめぐる日米のギャップ 98.8.1

 中生代最強の肉食恐竜、ティラノザウルス。――筆者が子供だった頃に見た恐竜図鑑では、ティラノは二本足で真っ直ぐに立って、しっぽを引きずっておりました。しかしその後の研究で、「恐竜の化石が出る地層で、なぜしっぽを引きずった跡がないのか」という疑問が浮上しました。やがて学界では、「ティラノザウルスは前傾姿勢で立ち、しっぽを地面につけないで歩いていた」ことが定説となりました。最近では、子供の恐竜図鑑やデパートの恐竜展を見ると、ティラノが前傾姿勢になっていることに時代の変化を感じます。

 恐竜をめぐる学説の進化は、奇妙な現象を生み出しました。そう、日米のゴジラの違いです。
 ゴジラは昭和30年代にティラノザウルスをモデルにして誕生しました。このため、ゴジラは直立型で下半身に肉がついた、「のっしのっし」と歩く貫禄十分の怪獣となりました。しかし今年封切りされた米国版ゴジラは、最新型ティラノザウルスを真似たスタイルになっています。トカゲ型でスリムで、「ひょいひょい」と走るすばしこい怪獣なのです。かくして日本の観客からは、「あんなのゴジラじゃない!」という不満の声がもれているようです。まぁ、古代の恐竜が化けた姿としては、米国版の方がリアルなわけですが。

 さて、筆者はなるべく「ネタばれ」のないようにこの先を書き進める予定ですが、まだ見てない人はここで引き返されたほうが賢明かもしれません。映画ファンとして、一応の警告を発しておきます。

 ゴジラのアメリカデビューはニューヨークが舞台となりました。ところが、南太平洋で誕生したゴジラが大西洋に現れるのですから、不自然なことこの上ありません。そのため、劇中のゴジラは、なんとパナマを横断してしまいます。(しかも誰にも見つからずに!)そうまでしないで、太平洋を北上してロサンゼルスあたりを襲ってもよさそうなものなのに、なぜニューヨークなのでしょう?

 ローランド・エメリッヒ監督は、前作の「インデペンデンス・デイ」(1996年)ではニューヨーク、ワシントン、ヒューストンなど全米の大都市をくまなく破壊した前科の持ち主です。たとえば前作では自由の女神を壊しちゃったので、今回のゴジラでは自由の女神がでてきません。そんな不自由を我慢しても、やっぱりゴジラが破壊すべきはニューヨークしかない、と判断したところがおもしろいところです。

 実際、この映画の最大の見せ場は「摩天楼を縦横無尽に駆け回るゴジラ」です。巨大なビル街の中をゴジラが走り回るために、人々はパニックになるし、犠牲も広がるし、ミサイルを撃っても街を壊すばかり。さすがの米空軍も手を焼くわけです。これは西海岸の街には真似ができない隠れわざです。ゴジラが蹴散らすイエロー・キャブとか、ゴジラが走る吊り橋なども、魅力的な映像に仕上がっています。

 ただしニューヨークがゴジラの標的になったのは、ハリウッド的な東海岸への反感も手伝っているようです。海から現れたゴジラが、真っ先にウォール街を破壊するあたりはなんだか意味深げに感じられます。反対にセントラルパークには、足を踏み入れかけたけどやめてしまう。それからヒロインに意地悪するニュースキャスター、頭の固い軍人、選挙戦真っ只中のニューヨーク市長といった顔ぶれは、いかにも東海岸的なオヤジたちで、反感を込めて劇中で描かれています。

 ところで、この映画のエバート市長は、実はロジャー・エバートという実在の映画評論家のそっくりさんです。偶然なことに筆者はこの評論家のファンなので、去年アメ リカに行った際に"Roger Ebert's Video Companion 1997 edition"という分厚い本を買ってきました。これを見ると、エバートは「インデペンデンス・デイ」を酷評しており、どうやらエメリッヒ監督は一矢報いようとたくらんだ模様です。

 評論家エバートにはシスケルという相棒がおり、この二人が映画評を展開する「シスケル&エバート」という人気番組があります。二人の意見は合わないことが多いのですが、ご両人がともに親指を上に向けると(つまり「この映画はいい!」と結論すると)、その映画には"Two Thumbs Up"(二重丸)というお墨付きがつくのです。日本でいえば淀川長治さんと白井佳夫さんがそろってご推奨しているようなもので、米国内での映画の宣伝にはこのフレーズがよく使われます。映画の最後で、エバート市長の選挙参謀(シスケルに似ている)が、「お前の選挙戦なんてこうだ」といって親指を下に向けるシーンは、いわば楽屋落ちです。

 今度の米国版ゴジラに対しては、エバートの親指はたぶん下を向いたのではないでしょうか。冒頭に述べたゴジラへの違和感はさておくとして、筆者もあまり高い点をあげたくない気分です。ゴジラがただの一過性の「災厄」に終わっている点がなんとも物足りないのです。

 日本版ゴジラには(少なくとも初期の作品には)、「核兵器廃絶」というテーマが込められています。ところが米国版ゴジラでは、このあたりが実におざなりです。主人公科学者は、昔は反核運動をやっていたという設定ですが、ゴジラを生み出した某国の核実験に対してそれほど怒っているようには見えません。某国は核実験の影響をもみ消すために工作員を派遣しますが、この国は最後まで報いを受けることはありません。放置しておくと、新たなゴジラが誕生するような気がしますが、そのことを懸念している様子もありません。このへんは核保有国が作っている事情もあり、いささか不真面目に感じられます。

 つまるところ、今回の米国版ゴジラは正統派メイド・イン・アメリカのSF映画なんです。怪物の登場が非日常的なパニックをもたらすという構造は「ジョーズ」(1975年)ですし、ゴジラが繁殖するシーンでは「エイリアン2」(1986年)の影響が見られます。特撮技術と恐竜の造形は「ジュラシック・パーク」(1993年)の延長線上です。米国版ゴジラが東宝から借りていったのは、「核実験がゴジラという怪物を生み出す」という設定だけだと考えたほうがいいかもしれません。

 しかし日本の観客とすれば、ゴジラの立ち居振舞いから反核というメッセージまで、さまざまな思い入れを持たずにこの映画を見ることはできません。だって筆者の世代などは特に、ものすごい本数のゴジラを見てきたのですから。これもまた、日米のパーセプション・ギャップのひとつといえましょう。
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