経済人コラム



 YOS.VOL.1 アメリカ・ウォッチング(NO.31以降)
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 [執筆者]
 吉崎達彦
 [紹 介]
 1960年、富山市生まれ。[直通メール筆者ホームページ
 一橋大学社会学部卒業後、企業PR誌編集長、シンクタンク研究員、経済団体職員などを歴任。現在は大手商社の調査部に勤務。共著に「日本の外交政策決定要因ーPHP研究所、1999年」。



 NO.31 米国大統領選挙の見方 99.7.5

 2000年の大統領選挙がもう始まりました。その中でも、2人の主役と目されているのがアル・ゴア副大統領(民主党)、それにジョージ・ブッシュ・テキサス州知事(共和党)です。どちらも知名度抜群、なかなかの好敵手といえます。これから両者の激突が見物ですが、まだまだ伏兵も登場するでしょう。これから先、数々のドラマが展開されるはずです。

 なにしろ2000年11月7日の投票日まで、まだ16ヶ月もあります。この間、候補者たちは全米50州を駆けめぐって選挙運動を続けますが、人気が落ちたり、選挙資金が尽きたり、スキャンダルがバレたり、体力が続かなかったりしたら、候補者は撤退せざるを得ません。生き残りゲームは厳しいものになるはずです。
 しかし、それだけの値打ちはあります。この長い戦いを制した者は、2001年1月20日に就任宣誓を行い、第43代合衆国大統領に就任することができるのです。世界でもっとも強大な権力を握るのはどんな人間か。全世界の人々が興味を持つといっても過言ではないでしょう。この欄でも、これから大統領選挙について触れることが多くなるかもしれません。

 とりあえず、今月は「米国大統領選挙」のそもそもの仕組みをご紹介しましょう。

 古来、選挙には数々あれど、近代民主主義に基づく選挙制度を打ち立てたのは米国が最初です。
 二大政党、予備選挙、党大会、テレビ討論、世論調査といった今日の選挙制度の多くは、米国大統領選挙から誕生しました。"President"(大統領)という言葉さえ、アメリカ人が"Preside"(主宰する)から作った米語だといわれています。

 最初の大統領が誕生したのはフランス革命と同じ1789年です。独立戦争を勝利に導いた英雄、ジョージ・ワシントンが、文句なく初代合衆国大統領に選ばれました。事実上の信任投票でしたが、なにしろ1787年に合衆国憲法が書かかれた頃から、ワシントンが政府を代表することは既定路線だったそうです。
 ワシントンはこの地位に気乗り薄でした。任期中もしきりに農場に帰りたがりましたし、政党間の争いが大嫌いでしたから。ただ、周囲がどうしてもというので、ワシントンは1792年の選挙にも出て、圧倒的な票数で再選します。

 これ以後、米国大統領選挙は、「4で割りきれる年の、11月の第一月曜日の次の火曜日」に行われ、このサイクルが2世紀以上にわたって一度も休むことなく続けられています。この間53回の選挙が行われ、42人の大統領が誕生しました。

 次の1796年には、ワシントンの辞意を誰も止めることができず、初めて本格的な選挙戦が行われます。
 アダムス対ジェファーソンが国論を二分し、このときはアダムスが勝って第2代大統領に就任します。1800年にはジェファーソンが勝って第3代になります。「2人で争う」という大統領選挙の原型がここで誕生し、以後、多くの名勝負を残して今日に至っています。

 もうひとつの問題は任期の長さです。歴代大統領は、「ワシントンより長く地位にとどまってはいけない」という暗黙の了解から、「2期以上はやらない」ことを不文律としました。
 それが崩れたのは、大恐慌から第2次世界大戦という特殊事情により、第32代フランクリン・ルーズベルト大統領が1932年の初当選から1945年の死亡まで実に4選したことによります。FDRの業績は偉大なものがありますが、多選の弊害を考え、1951年には合衆国憲法修正22条が追加され、「何人も2回以上大統領に選出されることを得ず」が定められました。同時に大統領の身にもしものことが起きたときのルールも定められました。すなわち、副大統領、下院議長、国務長官、国防長官、財務長官の順に「継承権」が生じることに なっています。

 さて、2000年の大統領選挙については、注目すべき点が3つあります。

 第1点は、非常識なまでに早い時期にスタートしてしまったことです。
 たとえば2回前の1992年選挙の場合、アーカンソー州知事ビル・クリントンが立候補宣言をしたのは、1991年9月になってからです。民主党から6人の候補が揃い、政策論争が始まったのが91年の末。本番まで残り1年を切った頃にエンジンがかかっています。ところが今回は、本番の20ヶ月前には、すでに9人もの共和党候補が立候補を宣言しています。
 早すぎるスタートはどんな影響をもたらすでしょうか。それは候補者が受ける試練が長期化することを意味します。政策論争やスキャンダル・チェックを受ける期間が長くなるだけではなく、使う選挙資金も確実に増大します。それだけ各候補にとってはハードな戦いになることでしょう。

 第2のポイントは、今回は1988年以来の「新人対新人」の組み合わせになることです。
 大統領選挙は、1992年や96年のように「現職対新人」の組み合わせになることの方が多いのですが、今回は現職クリントンが2期8年の任期を満了するので、民主党、共和党ともに新人候補となります。戦後、2期8年を満了したのはアイゼンハワー(1953−1960)、レーガン(1981−1988)の2人だけ。ちなみにそれぞれの引退後は、1960年にはケネディ対ニクソン、1988年にはブッシュ対デュカキスという対決になっています。
 「現職対新人」の選挙では、新人は「現職大統領はここが悪い」という批判を行い、現職は「新人は相手にせず」という横綱相撲を目指します。「ブッシュ大統領は経済をおろそかにしている」という批判が成功したのが1992年、「クリントン大統領は人格に問題がある」という批判が失敗したのが1996年といえます。テ ーマが早くから1本に絞られるのが「現職対新人」の年の特徴です。
 ところが「新人対新人」の選挙では、それぞれの候補がプラットフォーム(政策綱領)を提示して、互いに論争を挑むことになります。どの政策が国民の関心を集めるかは、ある程度選挙戦を戦ってみなければ分かりません。つまり2000年の大統領選挙は、あらゆるテーマが選挙戦の俎上に乗ることが予想されます。普通 であれば、国民の関心を引かない「外交」が論議の的になることが多いのが、「新人対新人」選挙の特徴です。

 第3のポイントは、まことに不思議なことながら、現職大統領がほとんどレイムダックになっていないということです。
 普通、政権末期の大統領は、支持率が低下したり、有力スタッフが離れていったりして影響力が低下するものですが、過去6年間にありとあらゆる危機を乗り越えてきたクリントン大統領は、依然として高い支持率を維持しています。アイゼンハワーやレーガンは高齢でしたから、政権末期にはほとんど枯れていましたが、まだ若いクリントンは元気いっぱい。最近は、ゴア副大統領の選挙運動を心配する気遣いまで見せているようです。
 さらにファーストレディであるヒラリー夫人は、2000年にニューヨーク州から上院議員に出馬することがほぼ本決まりで、こちらも波乱要因。つまり民主党の選挙献金が、ゴアとヒラリーに二分されることもあり得るわけ。いずれにせよ、現職大統領夫妻が今後の選挙戦でどんな役割を果たすかが、予測しがたいファクターとなります。

 いろいろ書きましたが、では「2000年11月7日には誰が勝つのか」と聞かれたら、「今の時点で予想するのは早すぎる」と答えるしかありません。なにせあと16ヶ月。ひと波乱もふた波乱も期待できそうです。

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 NO.32 ジョークで見るケネディ家 99.8.6

 それはそれは長い長い、一族の歴史です。
 でも、この話は多くの人々が知っている話です。普通に語ったのではおもしろくありません。そこでジョークをちりばめつつご紹介しましょう。

●第一世代〜ケネディ家が成り上がるまで

 アイルランドの食いつめ移民、パトリック・ケネディは一念発起して新大陸に渡り、ボストンに居を構えました。ほとんど無一物でした。その子、ジョセフ・ケネディは努力の末に成り上がって巨万の富を得ました。アメリカン・ドリームを実現したといえば聞こえはいいですけど、禁酒法時代にマフィアを敵に回して密造酒を作るなど、危険なことにも手を出したそうです。
 財産ができたら次は名誉です。ジョセフはフランクリン・ルーズベルト大統領の選挙資金を用立てし、英国大使の座を射止めます。アイリッシュ出身の英国大使が誕生して、英国民は心底苦々しく思ったそうです。ジョセフは「してやったり」と思ったでしょうが。次なる彼の野心は、彼の子供たちをさらなる地位に押し上げることでした。

○ジョセフ・ケネディはなぜ尊敬されたか。
 それは彼が貧困と正直の下に生まれながらも、その2つの障害を克服したからである。

○在りし日のジョセフ・ケネディは言った。「あの子供たちのためなら、わしはどんなものでも買ってやりたい。それがたとえ選挙(Election)であっても」。
 それを聞いた人が驚いて聞き返した。「勃起(Erection)を買うんですか?」
 ジョセフは、はき捨てるように言った。「それなら、あの子たちには十分足りている」

●第二世代〜ケネディ兄弟の誕生

 ジョセフ・ケネディには9人の子供がいました。長男が戦争で早世したため、父の期待を担ったのは次男のジョン・フィッツジェラルドでした。ジョンはジャーナリストから下院議員、上院議員の階段を駆け上がり、1960年には大統領選挙でニクソンと世紀の一騎打ちを演じます。彼の人生は選挙、また選挙の連続でした。

○ジョンは選挙の金庫番(fund-raiser)を必要としていた。3人の女性候補者がいて、その評判はいずれも甲乙つけがたかった。そこでジョンは一計を案じ、事務所の留守中に500ドル入りの封筒を3人の机の上に置いてみた。
 一人目の女性はすぐに返しに来た。
 二人目は株に投資し、倍にして返しに来た。
 三人目はだまってふところに入れた。
 さて、ジョンが選んだのは、――いちばん胸の大きな女性だった。

○ジョンとロバートが選挙事務所を借りて、若い美人女性をスタッフに雇った。絶対に手は出さないと誓い合ったが、案の定二人とも彼女の魅力には抗しがたく、つい事に及んでしまった。恐れていた通り彼女は妊娠し、しばらく身を隠すことになった。
 数ヶ月後、ロバートがおそるおそる彼女のもとを訪ね、ジョンがそこへ電話をした。
 「彼女はどう?元気にしている?」と、ジョンが尋ねた。
 「ああ、彼女は元気だ。だがいいニュースと悪いニュースがある」ロバートが答えた。
 「いいニュースとは?」
 「彼女は双子を産んだんだ」
 「そうか。で、悪いニュースとは?」
 「僕の方の子供が死んでしまった」

 1961年、ジョンは大統領に就任し、弟ロバート・ケネディを司法長官に任命しました。兄弟は協力して、キューバ危機などの一連の出来事に当ったわけですが、兄弟が一緒にしていたのは仕事だけではなかったようで・・・・

○ジョンとロバートが、ホワイトハウスの大統領執務室でポーカーをしていた。
 ロバートが言った。「兄さんがマリリンとできているのは知っている。だが、俺の方も彼女にはぞっこんなんだ。後腐れがないように、ここではっきりさせようじゃないか。この勝負に勝った方が彼女をモノにするってことでどうだ」。
 ジョンは言った。「それだけじゃつまらないから、お金も賭けようよ」。

 1963年、ダラスの熱い日に悲劇の瞬間が訪れます。

○ダラスでの悲劇の瞬間が再検証された。オープンカーの中の大統領、銃声、そして絶叫。最新の読唇技術によれば、映像の中のジャクリーンはこう叫んでいた。
 「ジャック!あなたの血が、私の新しいシャネルのスーツに!」

●第三世代〜栄光とスキャンダルの日々

 ジョン(1963年)、ロバート(1968年)が相次いで凶弾に倒れ、一家の期待は四男エドワード・ケネディ上院議員に託されます。だが、彼はクルマに同乗した女性を事故で死なせるというスキャンダルから、大統領への道はほぼ絶たれてしまいます。
 第三世代のケネディたちは、麻薬で死んだり事故を起こしたりと、タブロイド版新聞をにぎわせる毎日。なかでも五女ジーンの息子、ウィリー・スミスは一家の別荘があるパームビーチでレイプ訴訟を起こされる始末。明るい話題としては、ケネディ家の三女ユーニスの娘、マリア・シュリバーが、かのアーノルド・シュワルツネッガーと結婚したことくらいでしょうか。

○日本の自衛隊とエドワード・ケネディの違いは何か? ――テッドは少なくとも一人死なせている。

○ケネディ家の結婚式と葬式の違いは何か? ――葬式の方が酔っ払いが一人少ない。

○マリア・シュリバーは、なぜアーノルド・シュワルツネッガーと結婚したのか。 ――撃たれても死なないケネディ(bulletproof Kennedy)を作りたかったから。

○ウィリー・スミスは、ガールフレンドをデートに誘ったときに何といったか? ――「大丈夫だよ。帰りはテッドおじさんにクルマで送ってもらうから」

 ここで使ったジョークは、昔アメリカで買った"Truly Tasteless Kennedy Jokes"というケネディ一族をネタにしたジョーク集に載っていたものです。その名の通り品の悪いネタが多く、訳すのがためらわれるものばかりですが、米国民がケネディ家をどのように見ているかが窺い知れます。

 今年、JFKの長男ことJFKジュニアが飛行機事故で亡くなりました。アメリカは国中を挙げて、一族の若きプリンスの死を悼んでいます。ジュニアと同じ38歳の筆者はふと思うのです。いずれこれをネタにしたジョークが出るのだろうな、と。「ケネディ家はあまりにも多くのものを得たから、それだけ失うものも多い」。JFKをはじめ9人の子供を育てた母ローズは、こう語ったそうです。
 筆者はつい、ダイアナ元皇太子妃事故死のときと同じ事を感じてしまいます。ケネディ家の跡継ぎの早すぎる死を悼んでいる人々は、別の機会には「ケネディ・ジョーク」に笑いこける人たちなのでしょう。持ち上げたり、たたえたり、貶めたり、笑いものにしたり、好き勝手にできるような偶像を、人々は求めている。それは偶像にされる側にとっては、なんともしんどい、残酷なことでありましょう。
 彼が政治の道を選ばなかったのは、そのへんに理由があったのかもしれません。

(参考:ケネディ一族)

第一世代
 ジョセフ(父:1888−1969)富豪、英国大使
 ローズ (母:1890−1995)ボストン市長の娘

第二世代
 ジョセフ Jr.(長男:1915−1944)第2次世界大戦で戦死。
 ジョン(次男:1917−1963)第35代大統領。ダラスで射殺。
 ローズマリー(長女:1918−?)精神障害により施設に収容。
 キャサリン(次女:1920−1948)飛行機事故で死亡。
 ユーニス(三女:1921−)
 パトリシア(四女:1924−)
 ロバート(三男:1925−1968)司法長官。選挙運動中に射殺。
 ジーン(五女:1928−)アイルランド大使
 エドワード(四男:1932−)上院議員

第三世代(JFKの子供たち)
 キャロライン(長女:1957−)憲法学者
 ジョンJr.(長男:1960−1999)雑誌編集者。飛行機で遭難。
 パトリック(次男:1963−1963)生後2日で死亡。

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 NO.33 戦争を語る雑誌 99.9.1

 隔月刊の外交問題専門誌『フォーリン・アフェアーズ』は、ときおり時代の流れを方向づけるような論文が掲載されることで定評があります。筆者は長いことこの雑誌を講読していますが、アメリカ外交における主要な論争のほとんどに、この雑誌が関与しているといっても過言ではないと思います。
 ネット上なら[http://www.foreignaffairs.org/]をご覧ください。また、日本では『論座』という雑誌が邦訳を掲載しています。
 今回はこの雑誌にまつわるお話です。

 たとえば1947年には、「対ソ封じ込め」を提唱した「X論文」が本誌に登場し、文字どおり冷戦期のアメリカの外交政策を決定づけました。
 第二次世界大戦では同盟して戦った米ソは、戦後は深刻な対立状態に陥ります。外交政策に携わる人々の間では、「いかにしてソ連の妥協を得るか」が重要なテーマとなっていました。ところが匿名で発表されたこの論文は、「そもそもソ連が妥協しないのは、社会体制そのものに問題があるからだ」と指摘したのです。そうだとすると、ソ連に対して下手に出ても意味がありません。アメリカは全力を挙げてソ連の出方を封じるべし、という結論になります。

 今から考えると、この論文は恐ろしいほどにその後の展開を予測していました。
 著者はロシア通の外交官、ジョージ・ケナンでした。ケナンは「ロシアは本質的にまとまりがない社会であり、国として統一を保つために社会主義という枠を必要としている。それゆえに外国に対しては非妥協的な態度を取り続ける。もし社会主義体制が崩れれば、ロシアは一夜にして同情されるべき弱い社会に変貌するだろう」と予言しました。特に最後の部分は、最近のロシア情勢を適切に言い当てているといえます。

 90年代の『フォーリン・アフェアーズ』においては、『文明の衝突か?』(ハンティントン、1993年)や『アジアの奇跡の神話』(クルーグマン、1994年)などの論文が有名です。前者は「冷戦後の世界は、民族と文化の対立の時代」と説き、多くの議論を巻き起こしました。後者はばら色の未来が語られていた時代に、「アジアの成長は持続しない」と予測したことで評判になりました。

 さて、本誌の99年7−8月号が面白いので紹介します。この号は「コソボの教訓」をテーマに特集していて、一応は結果オーライに終わったあの紛争に対し、さまざまな角度から光を当てています。
 この中の巻頭論文、『国益を再定義する』(Redefining the National Interest)が注目株です。著者はハーバード大学ケネディ・スクール学長のジョセフ・ナイ。1995年には国防次官補として、「米国の太平洋戦略は日米安保関係を軸とする」と規定した通称「ナイ・レポート」を執筆した人です。いわば、翌年の日米安保再定義から今年のガイドライン法案成立に至る一連の流れを作った立役者といえます。

 ナイは冷戦が終わり、国境が消え、メディアが影響力を持つ時代における「国益とは何か」を問いかけています。以下、簡単な要旨をご紹介しましょう。

(1)外交政策の基本は国益である。
 国益の定義は人によって違うから、集約することは難しい。ただし民主的な社会においては、国益をめぐる論争が生じるのは健全なことである。ゆえに国益を決めるのは官僚ではなく、政治家でなければならない。国益は単に地政学的なものにとどまらず、人権や民主主義といった価値を守るということも含まれる。

(2)米国の国益を、重要度によって分類してみよう。
・ 「Aリスト」=米国の生存にかかわる脅威(exかつてのソ連)、
・ 「Bリスト」=米国の利益に対する脅威(ex北朝鮮やイラク)、
・ 「Cリスト」=米国の利益を脅かさない事態(exコソボ、ソマリア、ルワンダ、ハイチ他)

(3)最近の外交アジェンダはほとんどがCリストになってしまっている。CNN効果などで、国民の関心がそこに集中するからだ。かえって、「ロシアの脆弱化」「中国の台頭」「国際システム(WTOなど)の動揺」といったAリストの課題が見過ごされてしまっている。

(4)情報化時代の今、人道問題に対する関心が高まり、Aリストの戦略問題が犠牲になることが多い。Cリストに対しては慎重な姿勢が必要である。コソボ問題はCリストだったが、米国の対応が後手に回ったために、NATO同盟を守る必要が生じてBリストに昇格した例である。Aリストであるロシアや国際機関の将来という問題を考慮し、コソボ危機には慎重に対処しなければならない。情報化社会においては、国益の優先順位決定が非常に重要である。

 ナイはコソボ介入には批判的なようです。
 たしかにCリストの割りには、アメリカは大きな危険を冒してしまったようです。中国大使館を誤爆したことも高くつきました。中国をいかに国際社会に受け入れるかという課題は、おそらくアメリカにとってのAリストですが、それにとって明らかなマイナスの効果をもたらしたわけですから。

 これは外交のみに限られた話ではありませんが、物事の重要度を把握しておくことは大切です。学校の試験でも、「何がAリストで何がCリストか」をしっかり押さえて、「重要なことに力を入れ、そうでないことはそれなりに」やる人がいい点を取ります。ところが、これがなかなかに難しい。周囲が口々にCリストを叫んでいたら、心ならずもAリストが犠牲になることもあるでしょう。とはいえ、「国益に優先順位を」というナイの提案は非常に有益であると思います。

 同じ号の『フォーリン・アフェアーズ』には、『戦争にチャンスを』(Give War a Chance)という、これまた刺激的な論文が載っています。この題名はすぐに分かる通り、ジョン・レノンの名曲のもじりです。("Give Peace a Chance"は最近、日産の「ものより思い出」というCMに使われていますね)。チャンスを与えるのが平和ではなくて戦争だ、というのがすごい提案です。
 戦争は悪いことばかりではない。少なくとも戦争をやれば、負けた方はあきらめて勝った方のいうことを聞く。最近は戦争があると、国際機関や先進国がよってたかって介入して、戦闘行為を止めてしまう。その結果、双方が不満を残して火種が残る。火事は消すよりも、燃え尽きさせた方がいいのではないか・・・・思い切り短くすると、このような主張をしているのです。

 この「戦争のススメ」に対しては、さすがに各方面から批判が飛び交っているようですが、これはこれで結構なことではないでしょうか。93年のハンティントン論文も、批判を浴びることで「冷戦後の世界」をめぐる論議を活発化させました。『フォーリン・アフェアーズ』の値打ちがあるところは、名論卓説が掲載されるというより、とにかく議論を喚起する媒体であることです。議論の中から国家戦略が生まれてくるわけで、この雑誌はアメリカ外交を構成する重要なインフラの一部といっていいでしょう。

 さて、日本ではこういう雑誌がありません。というより、戦争の話になると、ほとんどが「歴史と反省と憲法」で終始してしまい、未来指向の議論はめったにありません。このへんから変えていかないと、日本がしっかりした外交政策や戦略論を持つことは難しいように思います。

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 NO.34 おそるべしスミソニアン博物館 99.10.4

 「ワシントンDCは実は観光都市」という話を以前に書きましたが、この街の観光資源は実際に無尽蔵といっていいほどです。
 朝早く行列についてホワイトハウスを見学し、リンカーン・メモリアルで記念写真を撮り、ワシントン・ハーバーでポトマック河を見ながらランチして、アーリントン・セメタリーで有名人のお墓を探し、ジョージタウン大学の構内を散歩して、夜はケネディセンターで舞台を見る。いくらでも時間がつぶれます。しかし究極の観光資源は、なんといってもスミソニアン博物館にとどめをさすでしょう。
 これを見ようと思ったら、いくら時間があっても足りません。スミソニアン博物館は、美術、歴史、自然、産業技術、航空宇宙などのさまざまなテーマに分かれた展示館の集合体なのです。全部を見たという人は、ワシントン在住の人でも少ないでしょう。さらに、「スミソニアンってどんな人が作ったの?」と聞かれて答えられる人は非常に少ないと思います。

 ワシントンDCの象徴は、ワシントン・モニュメントと呼ばれる尖塔です。個人崇拝を嫌ったジョージ・ワシントンが、「ワシの銅像を作ることはまかりならん」と遺言したので、後世の人は高い塔を建てて初代大統領をたたえたのです。この塔の下から、キャピタル・ヒルと呼ばれる小高い丘にたつ議会まで、モールと呼ばれる美しい緑地帯が広がっています。その両側に並ぶ個性豊かな建築物が、スミソニアン博物館の主要な建物です。

 議会に向かって左手奥が大きな美術館。ダ・ビンチやレンブラントの絵が並ぶ古典派の西館と、ミロなどの近代絵画を集めた東館の2つに分かれています。このほんの一角の作品を借りてくるだけで、日本の百貨店にあるような美術館ならば、相当大規模な企画展ができることでしょう。

 その手前が自然博物館。恐竜の展示と宝石のコーナーが筆者のお勧めです。とくに宝石コーナーでは、持ち主を次々に不幸にしたという「ホープ」という45カラットのダイヤが有名。ここでは100カラットを超えるダイヤはゴロゴロしてますから、女の子に見せれば「縦爪のリングなんて宝石と呼ぶには価しないのね」と納得してもらえます。

 そのまた手前は歴史博物館です。アメリカ国歌のもとになった、古い星条旗の現物に人気があります。日系アメリカ人のコーナーもあり、これは戦時中の強制収容に対する米国政府の「お詫び」がこめられています。

 モールをはさんだ反対側には、スミソニアンの中でもいちばん人気のナショナル・エア・アンド・スペース・ミュージアムがあります。つまり宇宙航空博物館。ライト兄弟の飛行機、リンドバーグが大西洋を横断した飛行機、アポロの月面着陸機などが所せましと並んでいます。戦闘機の資料も豊富にあるのですが、太平洋戦争の案内がいきなりミッドウェーから始まってしまうのがちょっと変です(当然か)。

 これらに加え、現代美術、彫塑、アフリカ芸術、産業技術などを集めた展示館が並んでいます。また、ここだけ特に古い「キャッスル」と呼ばれる建物には、スミソニアンの本部が入っています。さらに、場所は離れているのですが、なんと動物園まであるのです。これら一切合切を合わせたものがスミソニアン博物館の全容です。

 で、誰が作ったのでしょう。
 実は「スミソニアン」という人がいたのではないのです。設立者、ジェームズ・スミスソンは、一度も米国の土を踏んだことがないイギリス人でした。1765年にフランスで生まれたスミスソンは、貴族の非嫡出子に生まれましたが、成長して科学者となり、ようやく50歳近くなったところでスミスソン家の跡取りとなりました。独身で身寄りが少なかった彼は、財産に対する執着が少なく、何がなんでも家名を残そうと思いつきます。そこでこんな遺言を残しました。

「もしも予の甥が跡継ぎなく死んだときには、スミスソン家の財産すべてをアメリカ合衆国に寄贈し、"スミソニアン博物館(スミスソン家の博物館)"という名で、ワシントンにおいて人々の知識を豊かにする建物を作るように。さすれば公爵としての名は忘れられても、家名は永遠に生き続けるだろう」

 スミスソンは1829年に、その甥は子なくして1835年に死亡しました。スミスソン家の資産は当時としては巨額の55万ドルでした。このお金は、年利6%で米財務省に貸し付けられることが法律で決められました。これにいろんな寄附も集まって、基金は今日では1億4000万ドルに達しています。米国議会はスミスソンの遺志を受け止め、1846年にはスミソニアン博物館が設立されました。
 こうしてスミソニアン博物館は、スミスソン家の個人財産をもとに作られましたが、実質的には国立の博物館といっていいでしょう。個々の博物館は、 National Gallery of Artとか、National Air and Space Museumなどと、「国有」を称しています。

 いちばん驚くべきことは、これらの展示がすべて無料で、しかも年中無休(クリスマスを除く)ということです。この寛大さに、大抵の観光客はしびれます。
 美術館だけを取り上げても、このNational Gallery of Artに匹敵するものは、全米広しといえどもニューヨーク近代美術館、ボストン美術館、それにフィラデルフィア美術館くらいのものでしょう。もちろんみんな有料です。それがタダ。いくらなんでもサービスが良過ぎやしませんか?

 おそらく、それだけの意義があるから、そうしているのでしょう。
 まず、首都ワシントンDCには、全米の善男善女が観光に訪れます。移民が多いこの国においては、美しい首都は国民の誇りです。ホワイトハウスや議会を見学した後は、「やっぱりこの国は間違っていない!」と思ってもらわないことには困るのです。
 もうひとつの理由は、アメリカ人が歴史に非常にこだわるということです。アメリカのことを、「歴史がない国」だというとんでもない勘違いがありますが、歴史が短いだけに、アメリカ人は記録を残すことにおそるべき努力を払います。国立公文書館に行けば、独立宣言の実物に始まるあらゆる資料が残されています。
 引退後の大統領は、かならず地元で図書館を作り、自分の記録すべてを保存します。こうした記録にかける情念が、スミソニアンの展示物に反映されています。

 興味深いことに、財政赤字が膨れ上がった時代にも、スミソニアン博物館を有料にせよといった声は上がらなかったようです。自然科学博物館に収められている、数百カラットの宝石だって、売れば相当の収入になったでしょうに。
 つまり、ワシントンDCは見栄を張っているんだと思います。スミソニアン博物館は、この街の贅沢の最たるものでしょう。観光客としては、ついこの寛大さに甘えてしまいます。まだ見ていない方はぜひお勧めします。

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 NO.35 ダウって何? 99.11.1

 アメリカの株価がニュースになるとき、かならず聞かれる「ダウ」とは何のことでしょう。ダウ平均は1万ドルもするそうですが、そんなに高い株があるのでしょうか。また、どうやって計算するのでしょうか。
 こういうことを正確に知っている人は、意外と少ないものです。

 「ダウ平均」ことDow Jones Industrial Averageは、毎日、Wall Street JournalのC3ページに掲載されています。これを言うと驚く人が多いのですが、実はWall Street Journalを発行しているのはDow Jones & Companyいいまして、これがダウ平均の本家本元なのです。ダウ平均は、Wall Street Journalより歴史が古いのです。

 ダウ平均を発明したCharles.H.DowとEdward D.Jonesは、もともとウォール街で手書きの株式ニュースを作っていました。前日の株価が上がったか下がったか、一発で分かる指標があったらいいな、と思って考え出したのが、「代表的な株を選んで毎日、平均値を算出する」という単純な手法でした。

 1896年5月26日、鉄道や電力会社などを中心に、当時のニューヨーク証券取引所を代表する12銘柄を選んで単純平均を出しました。40.94ドルでした。これは画期的な発明でした。「昨日の株価はどうだった?」というとき、「ダウ平均はXXドル上げたよ」と答えられるようになったのです。同様な指数は、S&P500などたくさん作られていますが、どれかひとつということになると、歴史がいちばん古いダウ平均が使われます。なにしろ発足以来100年以上を経ています。当初の採用銘柄12社のうち、今日になっても残っているのは、わずかにGEことゼネラル・エレクトリックが1社だけです。

 Dow Jones Industrial Averageは、1916年には20種に、1928年には30種に増えました。時代がたつにつれて、採用銘柄の中には株式分割する企業が増えてきます。そうなると、単純に割り算をするというわけにはいきません。例を挙げてみましょう。

 ここにA、B、Cという3社の株があるとします。
 それぞれ5ドル、10ドル、15ドルだとしましょう。合計で30ドルですから、平均株価は10ドルです。今、B社が1株を2株にする株式分割を行ったとしましょう。理論上、B社の株価は5ドルになります。ただしB社の株主にとっては持ち株の数が2倍になりますから、資産としての価値は変わりません。ところが、3社の単純平均株価は5+5+15/3=8.33333ドルになってしまいます。ここで、A、B、C3社の平均株価が10ドルであり続けるように、何らかの調整を行う必要が生じます。つまり除数を3ではなく、2.5にすれば良いのです。

 ダウ平均も、最初は採用銘柄の数で割っていました。ところが、アメリカ経済が発展するに従い、株式分割がさかんに行われたので、除数はどんどん小さくなっていきました。1986年にはなんと1よりも小さくなり、そして現在は・・・・な、なんと0.19740463、つまり30銘柄のうち、1社の株価が1ドル上がれば、ダウ平均は5ドル以上も上がるようになってしまったのです。

 最近のダウ平均は、1日に100ドル以上も上げ下げすることがめずらしくありません。100ドルといえば1万円ですから、ちょっと驚いてもいい金額です。しかし、たとえ100ドル上がったといっても、実額では20ドル上げたに過ぎません。たとえば99年10月29日のダウ平均は、10,729ドルで前日比107ドル高となっていますが、ダウ採用30社の株価の総和は2118ドルですし、前日比で21ドルほど上がっただけです。
 ここでこんな疑問が生じても不思議はありません。「たった30社で株式市場全体の動きを代表できるのか?」「そもそも30社とはどういう基準で選んでいるのか?」――まったくそのとおり。

 ダウ平均の手法をそのまま取りいれた日経平均(昔は東証ダウと呼ばれていた)は、東証1部から225社を採用して計算しています。ニューヨーク証券市場には3000社以上の会社が上場しているのに、わずか30社で全体の動きを代表するというのはどう考えても無理があります。
 採用の基準も微妙な問題をはらんでいます。ダウ30種はしばしば銘柄の入れ替えが行われます。前回は1997年3月に、4社が交代しました。ウールワース(流通)、ウェスティングハウス(電機)、テキサコ(石油)、ベツレヘム・スチール(製鉄)が採用廃止となり、代わってヒューレット・パッカード(電機)、ジョンソン・エンド・ジョンソン(生活物資)、トラベラーズグループ(金融)、ウォルマート(流通)が採用されました。つまり斜陽産業を捨てて、上り坂の企業を加えるという作業を行っているのです。

 ダウ・ジョーンズ社による30社の採用基準は、「成長の歴史を持ち、多くの投資家の関心を集めている企業」ですから、これは当然といえば当然。しかし、この基準を真面目に実践すると、いつの時代でもピカピカの花形産業だけがダウ30種に取り入れられていることになりますから、株価が一本調子で上がるのは当たり前、といえないこともありません。
 97年の入れ替えの際は、ウォルマート株がその後急上昇したために、わずか3ヶ月ほどの間にダウ平均は7000ドルから8000ドルまで跳ね上がりました。極端な話、ダウ平均を高く維持しようと思ったら、多少こじ付けででも動きの鈍い株を捨てて、上がりそうな株を入れればいいのです。

 で、実はこれがいいたかったのですが、11月1日からダウは4社を採用廃止し、新 たに4社を採用します。10月26日付けのダウ・ジョーンズ社ホームページ(http://averages.dowjones.com/home.html)の告知は以下の通りです。

 NEW YORK, N.Y. (October 26, 1999) The editors of The Wall Street Journal announced today that four of the 30 component stocks of the Dow Jones Industrial Average will change effective with the beginning of trading on Monday, November 1, 1999.

 The following companies are being added to the 30 stocks: The Home Depot, Inc. (NYSE: HD); Intel Corp. (NASDAQ: INTC); Microsoft Corp. (NASDAQ: MSFT); and SBC Communications Inc. (NYSE: SBC). The following companies are being dropped: Chevron Corp. (NYSE: CHV); Goodyear Tire & Rubber Co. (NYSE: GT); Sears, Roebuck & Co. (NYSE: S); and Union Carbide Corp. (NYSE: UK).

 な、な、なんとマイクロソフトとインテルがダウ30種採用企業になるのです。
 両社はたしかに現在のアメリカ経済を語るに欠かせない企業ではありますが、どちらもナスダック上場企業。ニューヨーク証券市場に上場していない企業がダウ30種銘柄になるのは史上初のことだとか。今回の変更で、除数は0.20435953と少し高まりますが、おそらくはこれでまたダウ平均は跳ね上がるのではないでしょうか。

 最近はインフレ懸念が生じ、長期金利が上昇するなど、ちょっと足元がふらついてきたアメリカの金融市場ですが、他の指標はいざ知らず、ダウ平均はおそらく活気付くでしょう。ただし、ほかにも指標はたくさんあります。ダウだけを見て、全体の動きを見失ってはなりません。きっちり見ていかないと、騙されますぞ。

 <付録:10月31日までのダウ30種採用企業>

 Company Name
 AlliedSignal Inc.
 Aluminum Co. of America
 American Express Co.
 AT & T Corp.
 Boeing Co.
 Caterpillar Inc.
 Chevron Corp.
 Citigroup Inc.
 Coca-Cola Co.
 DuPont Co.
 Eastman Kodak Co.
 Exxon Corp.
 General Electric Co.
 General Motors Corp.
 Goodyear Tire & Rubber Co.
 Hewlett-Packard Co.
 International Business Machines Corp.
 International Paper Co.
 J.P. Morgan & Co.
 Johnson & Johnson
 McDonald's Corp.
 Merck & Co.
 Minnesota Mining & Manufacturing Co.
 Philip Morris Cos.
 Procter & Gamble Co.
 Sears, Roebuck & Co.
 Union Carbide Corp.
 United Technologies Corp.
 Wal-Mart Stores Inc.
 Walt Disney Co.

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〜YOS.VOL.1 アメリカ・ウォッチング【吉崎達彦】〜

※事務局からのご挨拶※

 今回で、吉崎氏のアメリカウォッチングは一旦終了となります。
 吉崎さんには、長い間、いろいろな方面で興味深いお話をご披露いただきましてありがとうございました。
 ご愛読者の方々は、吉崎氏のホームページ[溜池通信]のブックマークをお忘れなく。

 NO.36 サンキュー・アメリカ 99.12.14

 早いもので、このアメリカウォッチングを書き始めてから丸3年、今回のコラムは36回目に当たります。よくもまあ続いたものだと自分でも感心しますが、新しいミレニアムが始まることでもあり、切りのいいところで終りにしたいと思います。
 ということで、今回は当コラムの最終回です。フィナーレには、それにふさわしい話題をお届けしたいと思います。それは、筆者が関係しているある民間ボランティアのことです。

 その運動は、「A50」と呼ばれています。
 正式には「サンフランシスコ平和条約締結50周年記念A50事業実行委員会」といいます。2001年9月8日は、サンフランシスコ平和条約締結から50年目になります。この日を契機として、戦後の復興にアメリカから受けた支援と協力に対し、感謝の気持ちを表すとともに、次の50年の日米関係をゆるぎないものにしよう、というのがこの運動です。「A50」は略称で、「A」はAmericaとAppreciation、「50」は50年と全米50州を意味しています。
 発起人代表は元駐米大使の大河原良雄氏が務め、政財界の著名人が多く参加しています。民間企業や個人から募金を集め、アメリカの若者を対象とした奨学金制度の創設や、日米戦後史の出版、記念式典の開催などの事業を実施する予定です。
 筆者はたまたま縁あって、この運動の立ち上げに協力する機会があり、以後は細々とですがボランティアをやっています。「A50」はいよいよ来年から、募金と事業の両方の活動が本格化します。簡単にいえば、このプロジェクトは、日本の民間部門が大きな声で、「サンキュー、アメリカ!」と言おうという試みです。


 太平洋戦争後のアメリカによる日本占領は、およそ人類の歴史の中でもっとも寛大なものでありました。アメリカはまず、食糧や医療といった人道的援助から始めました。次に平和憲法を制定し、天皇象徴制、男女平等など民主主義の枠組みを打ち立てました。教育制度や税制、労働法など、戦後の日本社会の特色をなす構造のほとんどは、占領軍の指示によって組み立てられました。さらにアメリカは、日本の産業復興に力を貸し、技術移転や経営手法についても、気前よく手の内を明かしてくれました。さらに国内市場を開放して、日本製品を受け入れてくれました。

 つくづく戦後日本の最大の幸運は、アメリカに占領されたことだったと思います。ソ連の支配下となった東欧や、分割統治になったドイツや朝鮮半島と比較すれば、いかに恵まれていたか分かるでしょう。東西冷戦の深刻化により、占領期間は予想以上に長引きましたが、1951年のサンフランシスコ平和条約締結で終わりを告げます。その後は誰もが知るように、日本は経済復興の道を驀進します。GATTやIMF、国連にも加盟を認められ、国際社会のプレーヤーとして復帰。その後は世界第2位の経済大国となり、今日に至っています。

 こうした寛大な政策の裏には、当時の冷戦状況下において、日本をアジアにおける自由主義陣営の拠点にしたいという、計算が働いていたことは疑いありません。アジアがソ連の支配下にならないよう、日本を資本主義のショールームにしておくという意図があったからこそ、昨日までの敵に対して大サービスをする必要がありました。純粋な善意だけではなかったことだけは確かです。
 しかしそうした計算を考慮したとしても、昨日までの敵国に対する扱いとしては、破格の厚遇というべきでした。また、本当に計算づくの配慮だったのなら、戦後の日本人がこれだけアメリカに影響を受けることはなかったでしょう。対日政策の根底にあったのは、いかにもアメリカらしい無邪気な善意と理想主義であったのだと思います。アメリカの善意の押し付けは、ときとしてベトナムへの介入のような悲惨な失敗を産みますが、戦後日本の復興はそれが成功した例だったといえるでしょう。

 ちょっと話は飛躍しますが、1995年の「戦後50年」に、国会で「アジアへの謝罪」の是非が論議されました。結局、ああでもないこうでもないという話になって、村山首相が歯切れの悪い談話を発表して終りになりました。あれでは謝られた方もすっきりしないし、そもそも謝ったのだかどうかもはっきりしません。だいたいゴメンナサイを言うときは、きちんと責任を取る覚悟が必要です。そんな覚悟のない人が言うゴメンナサイは、相手からは誠意がないものと見透かされてしまうのが落ちです。
 あのとき、筆者はむしろ、「アメリカへの感謝決議」をすればいいのに、と思いました。過去半世紀の日本が、アメリカに一方ならぬ恩義を受けたことは、誰の目にも明らかな事実ですし、だいいちゴメンナサイと違って、アリガトウを言うのは気持ちのいいことですから。言われた側だって、けっして悪い気はしないはずです。

 同じようなことを考えていた人は、ほかにも大勢いたようです。そういう人たちが、「1995年の戦後50年には間に合わなかったが、2001年のサンフランシスコ平和条約締結50年に間に合わせよう」と思ってA50の運動を始めたのです。
 A50の中核メンバーとなっているのは、知米派で、戦後のモノのない時期を知っている人たちがほとんどです。なかには、「米軍が供出してくれた食糧がなければ、自分は生きてここにはいない」という人もいます。「アメリカには本当に世話になった。自分たちの世代が生きている間に、ちゃんとした形でお礼を言わなければ」という思いが、運動の原動力になっています。筆者(来年で40歳)のような関係者は、断然「若手」の部類に属します。

 先日、あるアメリカの同世代人にこの話をしたところ、こんな反応が返ってきました。「気持ちはありがたいが、日米はもう対等の立場なんだから、お互いに変な遠慮はやめたらどうだろう。アメリカにも上の世代には、何かと日本を特別扱いする人たちがいるけど、それは必ずしも日米関係にとって良いことではないように思う」

 これはこれで理解できる意見です。「いつまでもアメリカに遠慮することはない」という気持ちは、筆者にだってあります。とはいえ、過去半世紀の恩義に対して礼を言うことは、日米が対等なパートナーであることをいささかも傷つけないと思うのです。サンフランシスコ平和条約で日本が独立を回復して以来、日米関係は非常な成功を収めてきました。これから先も、おそらくわが国の外交は対米関係を基軸として、前進していくことになるでしょう。そういう相手に「感謝してますよ」というメッセージを伝えるのは、けっして悪いことではないと思うのです。

 皆さんはどう思われますか?
 A50に関するご意見やご質問があれば、筆者までお寄せください。できる限りお返事を差し上げることをお約束します。また、A50事務局の連絡先を下記しておきますので、直接コンタクトしていただいても結構です。

サンフランシスコ平和条約締結50周年記念 A50実行委員会
107-0052 港区赤坂3-4-3赤坂マカベビル
tel (03)3589-2101
fax (03)3585-2773

 最後にあらためて、この「アメリカ・ウォッチング」を読んでいただいた方々に心から御礼申し上げます。ありがとうございました。
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