好奇心コラム

NO. 9〜15
NO.16〜26
NO.27〜45
NO.46〜56
NO.57〜65
NO.66〜76
NO.77〜84
NO.85〜87
NO.88〜92
NO.93〜98
NO.99〜106
NO.107〜


 MIZ.VOL.1 お役所ことばの読み方 PART1(NO.1からNO.8まで)
 [執筆者]
 水町祐之

 [紹 介]
 第三インテリジェンス代表。
 1952年、福岡県生まれ。日本大学大学院博士前期課程(管理工学専攻)修了後、一貫して経営コンサルタント業務に従事。



●サブテーマ
お役所の文法 / どうか『はぐらかさないで』ください / 『行政指導』って何だろう / 『公務員』って何だろう-株式市場田畑論 / 株式市場活性化こそがポイント / 非常事態宣言、将来性は個人活力で / 旧来銀行の役割は終わった / 『自己責任』って何だろう


 NO.1 お役所の文法 96.7.1

 最近、景気が思惑通りに回復しないことや、日銀の政策および経済企画庁の景気見通しの不手際などが重なっていたこともあるためか、政府関係が発表する景気判断の表現が、以前に比べると妙に神経質に注目されているような気がします。

 マクロ景気が一時的に多少良くなっても思ったほど良くならなくても、そのことは一部業種の設備投資や企業収益などにはかなりな影響を及ぼすのかも知れませんが、私達個々のサイフの中身や、さらには一番気になる将来のくらしに対しての直接的な影響は少ないのではないかと思います。

 今、もっと大切なことは、構造的な雇用問題への対策やより抜本的な財政赤字対策などであり、いまさら景気云々を大げさに宣伝してみても始まりません。


 さて、余談はさておき、景気見通しに限らず、お役所が発表する内容はまさに芸術的とも思える微妙なニュアンスを含んでいます。私達一般人にとって理解しにくいことは、いろいろな機会に指摘されています。

 という訳で、数日前に、お役所の関係団体が発行した大変役に立つ資料を持っていたことを思い出し、久しぶりにそれを紐解いてみました。

 それは、どこかの官庁の外郭団体によってまとめられた資料でした。確か、その団体が、各市町村の担当者のために整理したような趣旨の資料だったと思います。全体は、かなり分厚い本のようになっていますので、いろいろな方面のことが載っており、なかなか役に立つ重宝な本でした。いわば、計画書策定のマニュアルとでも言うような内容です。残念ながら、どこにしまい込んだのか、私の手元に残っているのはその本の一部なので悪しからずお願いします。もしご存じの方がおられたら、ご連絡頂ければ幸いです。

 これを読むと、お役所のホンネのようなことも何となく理解ができて、大変勉強になります。何か、自分が少し偉くなったような錯覚さえ覚えてしまう始末です。こんな役に立つ内容を独り占めにしておくのはもったいないと思い、今日は、皆様に紹介することにしました。

 画面の都合もありますので、特に興味深く感じた部分だけを簡単に紹介します。

 まず、「文章表現に関して」という部分です。

--以下引用--

「国民に理解しやすい計画という主旨から、必要以上に誇示したり、難しい用語を使うのではなく、わかりやすい用語や表現を用い平易簡明を旨とする。」

とあります。

 筆者も、全く同感です。

 次に、「整備区分による用語の使い方」という部分です。

 「熟度」に従って以下の用語を使用するのが適切らしいのです。

--以下引用--

1)事業主体が市町村の場合
 (例)・・・について実施する。
    ・・・早期完成をはかる。
    ・・・施設の整備を推進する。
    ・・・施設の拡充をめざす。
    ・・・施設の拡充につとめる。
    ・・・の拡大について検討する。
    ・・・の建設について調査検討する。

2)事業主体が市町村以外の場合
    ・・・整備を促進する。
    ・・・拡充整備の検討をすすめる。
    ・・・を目標とする。
    ・・・増設について要望(要請)する。
    ・・・増設について配慮(考慮)する必要がある。

 筆者は、普段からこれほど厳格に用語を使用する習慣がなかったために、少し大げさですが、目からウロコが落ちる思いがしました。不覚にも、ことば尻の僅かな違いくらいは執筆者の「くせ」とか「あじ」の差程度のことで、大同小異だと考えていたのです。

 ところが実際は、この微妙な言い回しの違いの部分こそが重要らしいのです。どうもここの部分の表現が、取組み姿勢や意思の強弱を最も端的に示しているようです。やはり、日本の官僚機構は世界に冠たるものがあるだけに、こんなことまで厳格に徹底して考えていたのだなと、妙に感心させられてしまうのです。

 いろいろな責任関係の都合もありましょうし、また「熟度」というのもわかったようでわからない曖昧な概念ですが、中ほどから下の表現などは実に良くできたもので、あとからどうにでも言い訳できることだけは確かです。

 もちろん、ここにご紹介したものが全ての役所に共通した表現と言うわけでもないでしょう。類似のマニュアル等があるのかも知れません。しかし、筆者は、これを頭の片隅におきながら、政治家の皆さんやお役所が発表するコメントなどをテレビで見ていると、その真の意図が理解できたような気になってしまうから不思議です。

 皆様もこれを頭において、お役所などのコメントをかみしめてみてください。
 楽しさが倍増することは請け合いです。

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 NO.2 どうか『はぐらかさないで』ください 97.11.1

 タイ、インドネシアなどの東南アジアの通貨不安に端を発したということですが、香港では『香港ショック』とでも言えるような株式市場の混乱が起こり、それが引き金になったのかニューヨーク株式市場までが大混乱で、世界中が好調の時はひとり蚊帳の外の感があったわが日本の株式市場も例外でいられるはずはありません。

 マネーに関する一大事では、世界は、まさに一つになってうごめいています。

 国内のバブル不良債権処理に右往左往のわが国の金融機関は、こんどは、東南アジアでも同じような課題を抱え込んでしまうかも知れないと考えると、他人事ながら気が滅入ります。他人事というよりも、それらのツケは、住専処理を思い出すまでもなく必ずや一般庶民に回ってくることだけは確実ですから、余計にクサッてしまいます。

 それにつけてもわが国の金融機関は、どうしてこうも投資先や融資先を見極めるのが下手なのか不思議なくらいです。筆者は経済や金融の専門家ではないので実状を詳細に知っているわけではありませんが、どうもわが国の金融機関は、不動産担保という、昔なら絶対の安全弁を用意した融資に慣れきってしまい、将来の成長性や可能性を見抜いたり対処したりする能力を、もはや持ち合わせてはいないのではと思います。

 あるいは、いろんな規制のため、それらの能力を磨く必要性や機会がなかったのかも知れません。何れにしても、これからビッグバンを控え、世界の強豪達と互角に渡り合っていけるかどうか不安が頭をよぎります。


 さて、前置きはこのくらいにして今日の本題に入りたいと思います。

 ブラックマンデー時とは比較になりませんが、こんなに世界中で大騒ぎの状況ですから、当然のように、それらの混乱を鎮めようとして各国の政府首脳や中央銀行首脳たちがテレビでいろんなコメントを出します。
 筆者も関心がありますのでテレビのニュース番組をいくつか見たのですが、そんな中にあって、わが国首脳のコメントは妙にぎこちなく的はずれのように感じます。失望を招くようなコメントならわざわざ出てきて言うこともなく、出てきたからには、それなりに言いようがあるのではないかと思います。

 わが国の首脳たちは、誰が書いたか知らないような原稿を一字一句間違わないように読むことだけに気を取られています。見ていて気の毒なほどに一生懸命に読みます。それでも、各所で読み間違いが目立ちますから処置なしです。その結果、こんな時に一番大切な、本質を見極めた展望というものが何ら伝わってきません。何か、言い訳をしているだけのようにも聞こえます。

 本来、大臣や総裁はその分野の最高責任者(指導者)だと思いますから、もっと自信と展望を持ってものを言い、もしも世論がそれにあくまでも反発するなら潔く責任をとるくらいの気構えでやって欲しいのですが、やはり、わが国のそれは単なる飾りものかあるいは老人の名誉職に過ぎないのかも知れません。

 民間企業では、いち早く、単なる年功序列が時代に対応できないことを知り身を削りながら能力主義や実績主義に移行しているというのに、国の最高首脳層に敬老会の寄り合いのようなのんびりと間のびした様子を見せられては、やはり将来が思いやられてしまうのです。

 話しは変わりますが、筆者は『囲碁』に興味を持っています。初心者レベルのヘボ碁で恐縮ですが、時に戦略のゲームと言われる囲碁には面白い格言がたくさんあります。その中で、今のわが国にピッタリの格言があります。

 『大場より急場』というのがそれです。

 囲碁は戦略ゲームですから、基本的には碁盤全体を見渡して将来の発展可能性の最も高いところから打っていくのが正しいとされます。いわゆる『大場』です。大場を打つためには、部分的には我慢して損をしても由とされることが多いのですが、本当に大切な部分の石が死んでしまうような時は大場から打つという正道も間違いとなります。何はさておき、この大切な部分をまず補強しておくことが最優先されるのです。これが『急場』です。

 いくら全体的には正道を歩んでいても、虎の子の大切な部分の石が後になって取られていたのでは勝負にはならないと言うことです。筆者らのヘボ碁レベルの勝負では、本当の急場を、その時はなかなか気がつかないから困ります。気がつかなくて、いつもチグハグな失敗ばかりくりかえしています。碁なら笑って済まされますが、一国の政策にこんな失敗があっては大変です。

 大場とは財政再建のことで、急場とは株式市場活性化のことです。

 これからの成熟化あるいは高齢化の社会経済環境を考えたときに、株式市場は、何にも増して大切にすべき部分のような気がします。

 筆者は、ものごとをややこしく考えても頭が混乱するだけなので、とにかく単純に考えるクセがあります。
 例えば、土地は下がれば家が持ちやすくなりあるいは店も出しやすくなり、いわば、下がるメリットも多いものです。ところが、株式市場全体が活力を失ないズルズル下がると、一般企業は資金調達に困り、金融機関も資金運用つまりは不良債権処理の拠り所を失いますから、高齢化に向けて安定した利息収入も期待薄になる一般庶民は将来の不安ばかりが募り、多少の減税などで消費が盛り上がる云々の気分どころではありません。株式市場が沈滞していい面はひとつもないし、後で何かをやっても後の祭りです。

 こんなに大切な株式市場なのに、わが国の首脳たちは、特別な一握りの人たちだけを優遇したり手数料や税金が高かったりと、一般庶民が敬遠したくなるような状況を放置したまま、大事な時には気の抜けたビールのようなことを言ってお茶を濁します。

 もちろん、一頃のように猫も杓子も見境なく株が上がれば弊害もありますが、適切な情報開示と政策が実行されれば、そういうことにもならないと思います。適切な政策とは、PKOをしたりでムリヤリに株価を維持することでも、一部特定集団だけが甘い汁を吸える公共事業のタレ流しでもありません。大切な株式市場が、一般庶民(個人投資家)にもある程度は安心できるような条件を整備することが求められているのです 。

 わが国には、1200兆円にも達する、半ばあてのない個人金融資産があります。
 これらの膨大なお金が、国民性もありますから欧米並とはいかなくても、もう少し株式市場に回ってくるように公正で魅力的な場づくりをすることが、一見遠回りなようでも実は急務だと思います。個人投資家が、多少はリスクが伴うにしても公正対等に株式投資に参加できるようになり市場全体が活性化すれば、全てがいい方向にコロガリ始めると思います。

 個人投資家は、自分の大切なお金を大方が長期的視点で運用するのですから、一部機関投資家や投機層の短期ゲームで混乱しやすい状況への歯止めにもなりましょう。

 かの有名な経済学者のケインズは、株の投資家としても名人級の人らしかったのですが、『株はミスコンテストと同じである』というようなことを言ったそうです。
 まさに、含蓄のあることばだと思います。単に端正に整った美形がミスユニバースに選ばれるわけではありません。種々多様な目を持った投票する側の人がいて、その大多数の感性が魅力的と評価した人だけがミスユニバースの栄光に輝くのです。いろいろな視点を持った人達が寄り集まって健全なコンテストが開催できるというわけです。

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 NO.3 『行政指導』って何だろう 97.12.1

 とうとう山一證券がツブレました。
 あっけないほどに簡単にいってしまいました。経営上層部ではそれなりにいろいろな方策が検討され続けていたのでしょうが、表面的には、まさにアッと言う間のできごとでした。市場は待ってくれません。市場の力には恐ろしいものを感じてしまいます。

 自分で蒔いた種ですから結果としては当然のこととは言え、上層部が記者会見で見せた態度が妙に私の脳裏に残ってしまいました。やはり、気の毒なのはまじめに仕事をしていた一般社員の人達です。いろいろな報道を見ますと、社員でさえもまさかこんなにあっけなく会社がなくなってしまうとは予想もしていなかったことでしょう。

 一方、いくつかのニュース番組などでは指摘されていましたが、監督当局の何かしらしらじらしさを感じる態度には少し驚きました。本当にこれでいいのかなと思います。


 今日のテーマはこの点についての考察です。

 筆者も監督当局の記者会見を見て「ほんとうにそうかな?」という印象を持ちました。
 簿外債務云々で話題になっている「とばし」はもう何年も前から雑誌などで騒がれており、いまさら知らぬ存ぜぬで通用するとは思えません。何のための監督当局かと言いたくなるのは極めて自然な発想です。

 では監督当局と言ってみても、いったい誰の責任かと考えればハタと困ってしまいます。大臣は形としていないと恰好がつかないからいると言った印象ですし、直接の担当者も、前任者から引き継いで従来からの経緯に従って一通りのことをしているだけのことでしょうから。

 そんなことをボーと考えているうちに、この「前任者から引き継いで今までの経緯を壊さないように」という職務遂行のあり方そのものが、実は、諸悪の根源ではないかと思い至りました。前からやっていた通りのことをそれなりにまじめにやっているのですから、そんな担当者を責めるのはちょっと酷なのかも知れません。しかしその当然の帰結として、日本の監督当局には責任者がいないことになってしまいます。

 要は、わが国の行政には、誰も責任者がいないのが真の問題なのです。責任が伴わないことであれば、何をやっても中途半端でその場しのぎに流されるのは無理もありません。

 もはや欧米の金融先進国ではさまざまな規制が撤廃されています。その中でもまれてきた欧米の機関投資家達は、何の遠慮もなしにそのままの感覚で日本の株式市場で活発に動きます。これもまた当然のことです。自分で自分を守りぬかなければ誰も守ってくれませんから。日本は世界でも二番目に大きな市場ですから、否応なしにそんな情況に置かれています。

 終戦後改革らしい改革がなかったわが国の行政のしくみでこんな情況に対応はできません。昔からの慣習とか職務遂行のやり方とかを抜本的に革新する発想転換が必要なのです。省庁の数が云々など表面的体裁ばかりに気を取られるのではなく、しくみそのものを改革するのが本当の行政改革です。

 そんなことを考えていたら、また何となく「行政指導」というキーワードが頭に浮かんできました。

 おそらく「とばし」などは以前からがあんなに騒がれていたのだから、今回の山一證券やその他の金融機関などについても、監督当局はそれなりに行政指導をしてきていたのだと思います。そこで辞典で調べてみたら、行政指導とはどうも法律とは直接関係がないとのことです。法律に関係ないのならばたぶん慣習の類なのでしょう。

 現代の、1秒を争って24時間一刻も休むことなく情報が飛び交い、世界中をマネーが動き回る中で、何か「なあなあ、まあまあ」と言ったニュアンスで妙に自由裁量が大きい感じのする行政指導をやっている余裕や能力などは持ち得ることはできないと思います。もはや、のんびりと行政指導をして云々といったことは夢物語の世界なのです。そんな暢気なことでものごとを徹底できるわけがありません。

 そんな行政指導があるから「天下り」が重宝されることにもなりましょう。実状を知らないので考えすぎかも知れませんが、天下りが大手を振ってまかり通れば指導する側もされる側もいわば仲良し同窓会のようになってしまいます。そんなやり方でしっかり改善指導を行うなど、そもそもが不可能なことです。
 
 最低限のルールを法律で規定するしか方法がないと思います。
 行政指導はどうでも良いのです。どうせ現実にできていないのですから。最低限のルールをつくり、それだけを徹底的に監視していけばいいのです。そして、最低限のルールにも反する行為に対しては厳しい制裁を準備することしか方法がないと思います。

 監督当局の責任は、そのルールを如何に厳格に徹底したかではかるべきだと思います。

 また、そのルール作りをきちんとやるのが国会議員の役目だと思います。
 しかしこれまた、旧態依然の慣習から抜けられない人達の集団だから困りものです。
 大多数の国民にはどうでも良い党内のカケヒキや特定集団の利益誘導ばかりにエネルギーを使わないで、もっと真剣に国全体の将来を考えてはもらえないのでしょうか。どうかよろしくお願いします。

 余談となってしまいますが、最近たて続けに表面化した不祥事報道を見ていると、各当事者達は、責任をとると言っても代表取締役を降りるとか相談役になるとかその程度のようです。それまでは一流企業のトップとしてそれなりに振る舞ってきた人達ですから、せっかくコツコツと築き上げた地位を降り、衆人観衆の前で頭を下げてちょっと体裁が悪く耐え難いものがあるのでしょうが、何か恰好が悪いだけで事が済んでしまっているようにも感じます。聞くところによると、仮に明確な犯罪行為があって起訴されても、わずかな罰金だけで放免になるようです。
 社会経済の最重要基盤を根底から無視するような経済犯罪行為に対しては、責任のとってもらい方にも一考の余地がありそうです。

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 NO.4 『公務員』って何だろう-株式市場田畑論 97.12.30

 橋本首相が最後の切り札とも言える決意で出した感の2兆円減税も、株式市場からはソッポを向かれてしまいました。本稿で以前より指摘していたように、そのような小手先的・従来発想型の子供ダマシ政策で立ち直れるような生やさしい経済状況ではないことだけがはっきりしました。わが国首脳達の庶民感情や時代のうねりを見抜く力の欠如には呆れてしまいます。

 事ここに至っては、山一證券首脳のように、いっそ総理大臣が国民に『どうか助けてください』と単純にお願いをするのが一番かも知れません。「私らが思慮が足りずに失敗しました。たのむから1200兆円の眠れる巨人の一部を日本経済の基盤強化さらには世界経済の秩序を取り戻すために株式市場に回してください」とシグナルを出せば事態が好転する可能性もあります。

 はっきり否を認めて『変化』が確信できれば、国民の多くや巨大な影響力を持つ外国人投資家達は心配しているのですから、それなりに納得して業績の良い企業に投資してくれるかも知れません(日本の多くの尖端的製造業は今も世界の超一流なのです)。
 一方的な論理で増税したり、何か裏がありそうで条件反射的に拒絶したくなる『公的資金』投入や、はては発作的に中途半端な減税などをするよりよほど効果的です。それくらいの決意で臨まなければ事態は打開できません。

 再三指摘しているように、株取引に関する税金や株の流通量を減らす自社株買いなどに関する制約を全て撤廃する意気込みで株式市場を魅力的な場にしていく覚悟を見せなさいということです。一方で、一般の投資家が、経営実態や将来の見通しなどを、正しく、平等に知り得る情報公開制度を一日も早く整備することが求められているのです。

 欧米の先進国ではそれが当たり前のことですから、いずれ強力な外圧がかかります。早ければ早いほどいいと思います。『証文の出し遅れ』にならないうちに。

 さまざまな癒着のもとに庇護されてきた企業が淘汰されるのは、自然の摂理本来のありようですから無理をして延命をはかる必要はありません。それこそが不信の元凶です。まともな企業やまともな人達までが、そのあおりを受けないように配慮することが大切なのです。またぞろ『早期是正措置』の猶予などと聞き慣れない難しそうなことを持ち出して、事態をいたずらに複雑化させるようなやり方が心配になってきました。


 さて、いつものことながら前置きが長くなってしまいました。今回のテーマは公務員です。

 昔は公務員のことを『公僕』と言っていたそうです。公僕を辞書で引いてみると『公衆(国民)に奉仕する人、公務員』(三省堂、新小辞林より)とあります。何やら、現代人の感覚からはちょっとズレた感じの高潔無比なニュアンスが漂います。筆者などは、特別に余録があるわけでもなく大変な仕事なのに敢えて使命感に燃えてやっているという感じのイメージを思い描き、無条件で尊敬したくなります。

 いまどき公務員ということばから公僕をイメージする人はほとんどいないと思います。近所の役場の職員や郵便局の職員など大方の公務員に対して『突拍子なことをしないまじめな人』くらいが現代人の公務員に対するイメージでしょう。それでも、それはそれでほとんどの公務員はこの期待を裏切ることのない立派な社会人です。

 今回考察の対象とする公務員はそのような普通の公務員ではなく、国会議員やごく一握りの高級官僚と呼ばれている特殊な公務員です。これらの人たちも法律上の詳細な区分はありますが全て公務員です。

 筆者は、常々これらの特殊な公務員は人一倍『公僕』意識を持った人になってもらわねばと思っていますが、どうも現実は違うようです。

 特殊な公務員は、えらく難しい試験や、大変にお金がかかり弁舌の巧みさが要求される選挙という難関を突破してきた人たちですから、もともとは非凡な能力を持っていたに違いありません。それがどういうわけか、一旦、特殊な公務員社会にどっぷり浸かってしまうと、まるでトンチンカンな人に早変わりしてしまうから不思議です。厚生省しかり、大蔵省しかり、某大臣しかり、多くの不祥事や無責任な出来事ばかりが目立ちます。数えはじめたらきりがありません。

 政局などに関するさまざまなメディアの報道を見ていると、これら特殊な公務員社会は、単に内部抗争の権謀術数に長けた人や世渡り上手だけが成り上がっていける世界のようです。社会や経済が安定して平穏なときなら、それでも、大勢に影響はないから大丈夫かも知れませんが、これからはそんな暢気なことを言っていられる時代ではありません。世界中が激動のときなのですから。
 特殊な公務員社会とは、げに恐ろしく、まともな人の行動を呪縛してしまう見えざる力を持っているようです。

 古くは『リクルート事件』最近では『総会屋事件』を引き合いに出すまでもなく、これら特殊な公務員の中には自分の立場を利用して株式市場でひと儲けしている人も多いらしい。ところが、一般の人が同じ株式市場でしかも正当な手段によっていい思いができる機会づくりには無関心です。国民性もあり、そのように振る舞う方が一般うけするからでしょうが、この期に及んでその程度の意識では成熟した先進国の仲間入りはできません。

 先進国では、社会人の基礎教養の重要な部分として株の素養を身につけることが求めらています。現代社会経済の最も大切な一翼を担っている株式市場なのですから当然です。


○話はまたまた横道にそれますが、この傾、まあ普通の一般庶民の生活が際立って悪くなったわけではないのに景気が悪い悪いと言われるのも、良い会社も悪い会社も見境いもなく株が安いのが原因だと思います。

○私達日本人は、なぜか株式市場を軽視したり毛嫌いする風潮があります。軽視して毛嫌いしているくせに、株がこんなに下がってくると多くの人が直感的にやはり不安になるからでしょう。そもそも、株が安いのに景気がいいなんていう気にはなれないのが人の心理というものです。もうそろそろ私達も、株式市場の重要性を先入観なしに認識しなければならない頃かも知れません。

○筆者は、いつも言っていますように、株式市場は現代社会経済の『田畑』にもたとえることが出来るほど大切にすべき最重要基盤だと考えています。

○しばしばお金が私達の体を流れる『血』にたとえられることがあります。私達は血圧が高すぎても低すぎても健康的な生活が困難です。また、奇特な有志達は血液バンク(銀行)に献血し、出血多量の人もそこから他の人の血を分けてもらって輸血することで生き返ります。さしずめ今は、部分的に血管が詰まっている(血栓)状態とも言えましょう。お金や金融機関の重要性を言い表したうまいたとえではあります。

○しかし、もう一歩考えてみますと、その大切な血も栄養のある食物をきちんと食べているから造れると言うことを忘れてはいけません。いい血を維持するためには米はもちろん豆も食べなければなりませんし、ほうれん草もダイコンも食べなければなりません。
 現代は焼畑農業の時代でもありませんから、必要な食物を場当たり的にそのあたりに植えることでは間尺に合いません。栄養のあるものを食べ続けるためには、水はけが良く場合によっては土壌改良などもした良く肥えた田畑が必要です。

○つまり、いい作物(企業)を育てるためにはそれにふさわしい手入れの行き届いたいい田畑(株式市場)が必要なのです。そして、株式市場に投資すると言うことは、私たちの命の源である食料を確保することと同じです。

○これほど大切な現代社会の最重要基盤である田畑(株式市場)を荒れ放題にして大丈夫でしょうか。一旦荒れ果てた田畑を元に戻すのは容易ではありません。ちょっと大袈裟に聞こえるかも知れませんが気が狂ったとしか思えないほどです。血が云々どころの騒ぎではありません。生命維持の基本である食料確保が危うくなるのです。

○もっと本気で、不正への監視や情報開示を徹底し取引コストを下げるなど、株式市場(田畑)に思い切ったカツを入れて有望企業(収穫の大きい作物)が育てられる環境を整え、そして多様な意欲ある投資家(耕作者)を呼び込む必要があります。

○今、日本の田畑を耕すことに意欲的なのは外国からの出稼ぎ耕作者の人たちで、収穫の大半は外国人のふところに直行しているようです。せっかくある田畑ですから、意欲のある人なら誰でもいいから耕してもらった方がいいに違いないから悪いことではないのですが、何かもったいない気がします。私達の田畑なのですから。

○一番頭に来るのは、一部の特殊な公務員が、立場を利用してこっそり収穫のおこぼれを頂戴していることです。この人たちは、本来、畦の雑草を取ったり害虫駆除をしたりなど田畑の基本的な部分の手入れをすることが役目なのに、それはさておいて、自分だけこっそりとおこぼれを頂戴するとは全くけしからんことです。

○それもこれも、私達自身が株式市場の重要性を正しく認識しないで、多くの人が自分には関係ないと無関心を装うことに遠因があると思います。私達自身がもう少し認識を改める必要があります。先進国らしく。


 こんどの『行政改革』に関するドタバタ劇も私達にいろいろなことを教えてくれます。現在の選挙制度であれば国会議員がある種の利益代表として選ばれるのはうなずけます。『族議員』とか『オラが郷土の先生』達です。もちろん、必ずしも悪い面ばかりではないとも思います。

 一国会議員としてそのような背景に基づいた行動があることは由としても、ここ数年の特殊な公務員社会のまさしく茶番劇を見ていると、特殊な公務員の中の特別な地位である、総理大臣、総理を支える所管大臣、さらには実質的な権限の集中する役所などの首脳がその延長線上で、事実上、何ら国民の審査(チェック)を受けることのないまま任命されるという現状のしくみ全体が、もはや限界に達した感があります。単に観客として見ている分には面白いのですが、このようなありさまを見せつけられてばかりでは天下国家の将来が本当に不安になってしまいます。

 よくよく考えてみれば、私達は一国会議員を選挙で選びますが、総理大臣その他の特別な地位につくべき人を選んだ覚えはありません。つまり、現在それらの地位にある人達は、本来その地位に必要な見識や国民に奉仕する姿勢とかいうよりは、閉ざされた特殊な公務員社会の内部的な都合だけで任命されている人達なのです。
 内閣制とか大統領制とか大げさなことは別として、何か、しっくりしないものを感じます。

 話は前後しますが、これら特殊な公務員たちはもともと非凡な逸材だったのですから、この中に埋もれている本当の『公僕』を私達自身の力(世論)で掘り起こして活性化させていくことが大切だと思います。

 あるいは別の観点から、国全体の方向づけに大きな影響のあるそれら特別な地位については、もう少し直接的な何らかのチェックを通じて選択したりあるいは関与できるしくみが必要なのかも知れません。もはや閉ざされた特殊な公務員社会だけにまかせておけないことは確かなようです。最高裁判所判事の審査のように、名前を聞いたこともない人をわけもわからないままに審査するよりは役に立つと思います。

 一方では、これら特殊な公務員の人たちに早く公務員本来の『公僕』意識に目覚めてもらい、さらには時代の息吹を感じとって欲しいと願うばかりです。

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 NO.5 株式市場活性化こそがポイント 98.4.10

 何でもありの橋本首相が、やっとマスコミなどで騒がれていたいわゆる『政策転換』を表明しました。ところがどうしたことか、株式市場は、この程度のことであれば折り込み済みとして思ったほどの反応を示しませんでした。

 筆者自身も、対策の規模が思っていたより大きかったので株式市場はもっと好意的に反応するかと思っていましたが、思ったほどに反応しませんでした。やはり、この不況は、根深いものだなと改めて感じてしまいました。マスコミや市場関係者などは、大方が思い切った所得税減税を叫んでいたので、その点で市場の期待を裏切ったと受け取ったのかも知れません。


 今日は、この点についてちょっと考えてみたいと思います。

 筆者の意見は大方の専門家とも政府とも違います。筆者の単純な頭では、どのように考えても、所得税減税をしたところで今の不況色が払拭できるとは考えられません。

 大方の普通の人々の頭の中にあるのは、実は、将来への漠然とした不安だと思います。大企業も簡単につぶれてしまう時代、また、『年功序列』や『終身雇用』が音を立てて崩れ去ろとしている社会情勢です。一方では、自分達の将来の生活を支えてくれるはずの子ども達の人口が急速に減ってきています。いわゆる『少子化』です。

 こんな中では将来の生活設計をまず優先して、余分なお金が出来てもそれを積極的に使おうという発想にはならないと思います。もし減税で余分なお金が入ったら、それこそほぼ絶対に安全な郵便局にでも預けたり、あるいは自由化になった外為法でも活用して外貨預金も考えてみようかなどという方向に思考がいってしまうのではないか。

 つまり、こういうことです。

 汗水たらして稼いだお金をさしあたり必要でもないことに使ってしまうのは躊躇するということです。所得税減税といった主旨のお金は、いわば当然の権利のものが戻ってくるものであり、決して気前良く使う『臨時ボーナス』にはならないと思います。先ほどのように、将来への不安が大きい場合は特にそうです。

 ところが、株で儲けたお金などの場合は違います。株で儲けたお金が『アブク銭』というわけではありません。筆者はいつも言っていますように、株式市場を現代社会経済の最重要基盤と思っております。ましてや、リスクを覚悟しながらも頭をめぐらせて虎の子の蓄えを投資して獲得した儲けがアブク銭のはずがありません。しかしながら、株で獲得した儲けは何となく『してやったりの臨時ボーナス』と考えがちであり、割と気前良く使う気分になれるのも紛れもない不思議な事実です。何か矛盾しているような気もしますが、どうしてそうなのかは自分でも良く分かりません。

 実は、そこのところの微妙な心理を利用した取り組みが、今こそ大切ではないかと思います。所得税減税がそれほど効果が期待できないと言う点では、一部の政府首脳と同じ意見ですが、だから公共投資やPKOをバンバンやりなさいとはなりません。今までも、この旧態依然の発想で事態がややこしくなってきています。

 再三指摘しているように、株式市場を一般個人投資家にとってもっと魅力的な場にすることが急務です。
 どうも、わが国の首脳達には先の某国会議員の株の利益強要云々の例に見られるように、株式市場を自分たちだけがこっそりと儲けられる闇の部分にしておきたい人が多いらしく、こんどは、国会議員は株取引をしてはいけないなどとトンチンカンな議論ばかりに終始しているようです。そうではなく、立場を利用した不正な行為だけが厳しく咎められるべきだと思います。厳格な公正さと情報開示の徹底が必要なのです。

 一般個人投資家が対等に株式市場に参加して株式市場全体が活性化されれば、業績の裏付けや将来の展望がきちんとしている有望企業であれば、銀行のご機嫌だけに左右されないでもっと自由に資金調達ができ、金融機関も資金運用つまりは不良債権処理の拠り所を獲得でき、株で得た臨時ボーナスを気前良く使う人々が増えて消費が盛り上がることは確実ですから、株式市場が活性化して悪い面は一つもないと思うのですが。

 しかしそうなれば、私たち自身も、もっと真剣に企業を評価していく姿勢が必要になります。しかし、それが先進国のあり方だと思います。

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 NO.6 非常事態宣言、将来性は個人活力で 98.4.27

 先日のG7以降、またもや株価が下がり始めました。
 筆者の感覚からいえばかなり大がかりな所得税減税と公共投資を発表したにも関わらず、それら緊急経済対策は先進諸外国にはほとんど評価されなかったようです。今となってはわが日本政府の打つ手は後手後手に回り、信用されていないというのか、ひょっとしたら相手にされていない印象すら感じます。

 それにしても、わが国首脳達は何があっても国内政局だけにしか関心がないらしく、出かける前から出席するとかしないとかスッタモンダの茶番劇を演じ、それまでのスタンスから考えればせっかくの思い切った対策を土産にでかけた筈のG7も、空振りどころかマイナスの効果しかなかったことになります。外交センスの欠如にいよいよあきれるばかりです。

 一般個人投資家の少ない日本の株式市場にとっては、思惑で反応する海外投資家の影響力は絶大です。それなりの振る舞い方を演出することも必要だと思います。


 さて、前置きはこのくらいにして今日の本題に入ります。

 筆者の乏しい経済知識では専門的でスキのない議論展開ができないのが歯がゆいところですが、最近のエコノミストとか経済専門家達の指摘はどうもどこか本質的なところで的が外れているような気がしてなりません。

 私たちの回りにはしばしば『ニワトリが先かタマゴが先か』といった類の問題が発生します。何が原因で何が結果かに関連するような収拾つかない問題です。

 今の経済状況もちょうどこれだと思います。景気と株価は残念ながら悪循環の様相がはっきりしてきました。よく株価は景気の先行指標と言われますが、お互いに切っても切れない関係にあることは確かですから、たぶん、何かのきっかけで両方ともに良くなるのだと思います。その『きっかけ』が何かということが大切なのでしょう。

 ほとんどの経済専門家達は、景気(景気浮揚)の方を原因系と考えているようです。
 つまり、景気が良くなれば、それに伴って収入もそれなりに上がり雇用も安定し、ゆとりを感じた人々は安心してお金を使うから消費が盛り上がり、それを目当てに企業の設備投資も増えて最後には業績も好転するという好ましい循環がグルグル回りはじめます。景気が良くなるということに確信がもてさえすれば、投資家たちも株を買うから、その結果株価も上昇するだろうというシナリオです。そうなれば万々歳です。

 景気を良くする『きっかけ』が所得税減税であり公共投資というわけです。どちらを優先させるかは議論の分かれるところですが、どちらを優先させるかは、この際あまり重要ではありません。このシナリオ自体が単純に実現可能な情況ではないからです。

 まず、そのような、いわばオーソドックスなやり方中心で解決できる時期は過ぎてしまったという点です。1年くらい前であればこれだけで良かったのかも知れません。如何にいい内容でもタイミングを失した『証文の出し遅れ』では効果は半減します。

 さらに重要なのは、社会情況の変化やそれに対する人々の心理を軽く見すぎているという点です。
 多くの人々は、実は、将来の生活に大きな不安を感じているのだと思います。大企業までもバタバタつぶれています。企業経営者達は、会社が生き残るために終身雇用や年功序列などの雇用慣行を急ピッチで見直していますから安定的な収入増加は期待できないし、リストラ、賃金カットは日常茶飯事の昨今です。おまけに、将来の生活を支えてくれる筈の次世代の人口が減って年金制度も破綻するかも知れないなど、心地良い話は一つもありません。お金がないとか単純なマインドレベルの話ではありません。

 今まで絶対と確信していた生活のあり方そのものの見直しが迫られているのです。
 このような情況の中では所得税減税で戻るお金を無頓着には使えません。僅かではあっても将来への備えに回すのが常識的な人の対応だし、それが大切なことだとも思います。公共投資にいたっては、一部の土建業界が一時的に潤うだけで、使いもしない施設が溢れるだけだからもう沢山だというのが大多数の人の認識ではないでしょうか。このような方面の対策も、方法や対象を吟味して将来への準備としてやっておくことは必要ですが、ただし、現状打破の本質的な問題解決にはならないと思います。

 今は、全く別の視点から、社会のしくみそのものを革新する取り組みが求められています。株価(株価上昇)の方を原因系だと考えてみれば良くわかります。

 行きすぎるとバブルの再来になりますから配慮も必要ですが、株が上がれば多くの人たちの懐に本当のゆとり感が生じ消費が盛り上がることは確実です。多少でも余分に使うお金には『自由に使えるゆとりのお金』という感覚が大切です(減税で戻るお金はその類のお金にはなり得ません)。消費が盛り上がると確信すれば企業の設備投資意欲も刺激され、一方では市場が活気を取り戻すことでそのための資金調達も楽になります。それらの結果として景気全体が良くなるという循環が回り始めます。

 アメリカの例を見るまでもないことだと思います。

 それでは株価上昇の『きっかけ』をどうするかです。
 PKOで無理にごまかしてもその『きっかけ』にはなりません。そもそも、株式市場は全ての参加者が同じ条件下にあるという大前提で成り立ちます。そこでおおっぴらに恣意的行為を繰り返したのでは一般の投資家は立つ瀬がありません。

 ましてはPKOで使うお金は公的資金です。
 公のお金だから運用担当者は細心の注意を払って投資先を選別していると思いたいところですが、雑誌の報道などを見る限りそれらPKO資金はかなりな損も抱えているようです。真相を知りたいところですが、PKOは、発想が『救済とか下支え』だけに、株式市場本来の普遍的基準である『企業の将来性という視点』が押し曲げられるのは当然で、損が発生するのも無理からぬことだと思います。

 特定の限られた資金で市場全体の『ものさし』を打ち破ることなどできません。

 結局は、それらのツケは最後には全て広く国民が負担することになります。
 もしそうなっても『お上』や『権威』がやることには底抜けに寛大な国民性ですから、その必要性を大上段から叫べば、一部で小言を言われるにしても大騒ぎにはならないと『お上』や『権威』も先刻承知の高枕です。住専処理や一般銀行への公的資金投入がその例です。『ギリギリの選択や苦渋の決断』で押し通せば済んでしまいます。実際どれほどの効果があるのかは誰にも分かりません。

 この寛容さは相互扶助というか集団主義というのか、ある面では日本国民の美徳でもあり最後の最後は安心なのでしょうが、そんな思いあがりは、公にあるものとしては慎むべきことだと思います。

 安全第一のお金で秩序を乱す分不相応なことをしなくても、特効薬があります。
 株式市場が沈滞して好ましいことは何一つないと本稿で繰り返し指摘していますが、別の言い方をすれば、株式市場は見境いなくPKOをやるほどに大切な重要基盤です。このことを人々に広く認識してもらうことが大切です。

 そのためには、投資という行為は単なる金儲け云々だけではなくて、実はそれ自体が社会貢献なのだという強烈なメッセージが必要です。取引に関わる税金を軽減するのは当然として、投資してくれる人に対しては何らかの優遇措置、例えばその他の税金面でもこれでもか式に優遇するくらいの意気込みを示すことです。そうすれば、株式市場がより魅力的でより多くの人たちを呼び込める場になります。

 要は、人々が、自分で選択し関与できる余地を確保することがポイントです。
 するしないは自由です。自分のお金だから投資する人は真剣に考えたり専門家に相談するなどして、大きなリスクはそれなりに避けると思います。仮に失敗したにしても、自分が決めたゆとりや心づもりの範囲内なら腹も立ちません。一方、PKOなどのように、手の届かないところで適当にやってその結果だけをゴリ押しするやり方は、しらけ不信感とやりきれない不快感が残るだけで、人々は対処のしようすらないのです。

 その環境整備として、株式市場のあり方に抜本的なメスを入れることも必要です。
 これも別に難しいことではありません。愚直なほどに公正さと情報開示を徹底させるだけのことです。不正な行為があればそれが誰(投資家、企業経営者、証券会社、政治家、官僚などを問わず)であっても徹底的に追求し、真にオープンな場にすればこと足ります。こんなことは今更言うまでもないことで、先進国では最低限の前提条件でしょうし、筆者なども技術的には何も難しいことではないと思っていますが、じれったいことにどうしてか本気のやる気が見えません。

 これまでその不備を利用して甘い汁を吸えるほどの特別な立場にあるほんの一握りの人には残念でしょうが、一般の投資家にはいいことづくめです。多くの投資家を呼び込み、株式市場本来の創造力を強化するためには是が非でも達成しなければなりません。どうして未だにこの程度のことができないのか不思議です。

 これからの成熟社会では、より多くの人たちに、より直接的に国の経済を担ってもらうという発想が大切だと思います。わが国には600兆円とも言われる個人預貯金が眠っているのですから、それらをもう少し有効に活用するしくみを考え、民間活力というよりも『個人活力』を結集して新しい社会づくりをしていく時代です。

 そのためには、ベンチャー企業への投資云々といった課題もありましょうが、まず第一歩としては、単に規模が大きいだけで先進諸国に大きく遅れた株式市場の環境整備だと思います。中途半端な情報開示のまま真の公正さを達成できない環境で、表面的に先進国のマネをしてみたところでうまく機能するとは思えません。

 まじめな国民で蓄えもたっぷりあると手放しで喜んでばかりもいられません。
 成熟社会には発展途上社会とは違った視点が必要です。一般国民はガムシャラに働いて一生懸命預貯金に励み、貯めたお金の使い方は『お上』や『権威』が中心になり政策的(一つ間違えば身勝手)に配分するといった単純な役割分担だけでうまくやっていける規模や環境ではありません。発展途上国ならそれも過渡的に必要かも知れませんが、成熟国の仲間入りをしようという国がいつまでもこれでは笑いものです。

 これが、さまざまな癒着やなれ合い行政の根本原因になっていると思います。その真っ直中にいる『お上』や『権威』にいつまでも経済の舵取りをやってもらっても、多くを期待することはできません。

 ただ何となく『あなたまかせ』に預けているだけでいい結果は期待できない時代だと言い換えることもできます。銀行、証券、大蔵省、さらには最後の番人の筈の日銀までも引っくるめて金融界全体が『まさか』のありさまです。建物や表面的体裁は立派になっても、まだまだ金融界全体が発展途上国レベルの意識なのかも知れません。

 最近、ヨーロッパ先進国などの金融関係の取材報道で良く目にしますが、先進国の金融機関はそれぞれが確固とした存在哲学のようなものを身につけています。日本のそれとは何かひと味違うようです。そんな話を聞くにつけ、シンボルマークが目立つだけで真の特長がない横一列の金融機関ばかりが狭い日本にこんなにたくさん必要か疑問になります。金融界全体を、あり方や存在意義の側面から問い直す時だと思います。

 今回の経済対策にしても、規模こそ大きいものの、発想が『将来性の乏しい企業を救済する』だけの域を一歩も出ていないように思います。これでは世界に向けて『将来見込みのない国づくりに邁進します』と一生懸命に宣伝しているようなものです。

 消費を促進するのが目的なら的を得た減税をしたり、新しい時代ニーズを刺激して将来の競争力を強化する目的の公共投資を重視すればいいものを、なんら変わりばえのしないものでした。こんなことでは、それこそ財政負担が気になるばかりです。市場も敬意を表して、一時的には景気が回復する格好になり株価もそれなりに上昇するかも知れませんが、近いうちにバケの皮が剥がれる気がします。

 市場の期待を拒否し続けたら恐ろしいことになります。市場の力は巨大です。市場の期待を裏切れば黒字の大企業であってもアッという間にツブれてしまう現実があります。市場全体の本来の『ものさし』が『将来性』だということを忘れてはいけません。

 いかがでしょうかこのシナリオ、うまくいくような気がするのですが・・・

 もっとも、賢明な人たちは、いちいち御託を並べないで、個人レベルの対策としてはもっと手っ取り早い方法である、実績のある海外金融機関にお金の管理をまかせて難を逃れるという手段を選択するのかも知れませんね。

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 NO.7 旧来銀行の役割は終わった 98.6.1

 アジア経済がますますややこしくなってきました。
 インドネシアはテレビで見ているとまるで戦争のようにさえ思えます。

 数日前に韓国の大学で仕事をしている日本の友人に電話したところ、インドネシアほどではないにしろ韓国もまた大変なようすでした。細かなことまでニュースに取り上げられないので知りませんでしたが、韓国では公務員の賃金が一律で2割カットになるそうです。失業対策に充てるためらしいのですが、2割もカットされれば対象者にとってもまさに非常事態でしょう。何ともドラスティックな対応です。混乱はあってもきっと立ち直れると思います。世界のお金が一斉に動けば、これだけ急激にも状況が一変する世の中になるのだなと改めて感じてしまいます。

 また一方では、経済危機の度合いは違うにしても、それに対応する指導者のリーダーシップの違いにも恐れ入ってしまいます。
 先日はラジオで参議院の国会中継を聞いていたのですが、わが国の国会は、質問する側も答える側もお決まりのセレモニーをこなすだけの、まるでお茶のコマーシャルのようなのほほんとした雰囲気が印象的でした。危機とは無縁の平和そのものです。


 さて、今日の本題に入ります。

 今日は、銀行の『貸し渋り』を考えてみたいと思います。
 マスコミの報道などによると、公的資金を投入した後も銀行の貸し渋りは当局の思惑通りには解消されないようです。筆者に言わせれば、そんなことははじめからわかっていたことです。

 銀行は銀行で自分の生き残りがかかっていますから、横からやいのやいのと言われても、そうそうおいそれと貸しまくることなどできません。自己資本比率云々の問題もありますし、経済全体がどうなるかはっきりした展望が開けるまでは、恐くて貸すにも貸せない心境ではないかと思います。

 先入観を持たずに冷静に考えてみればすぐにわかります。
 銀行は、必ずしも事業の将来性を見込んでお金を貸していたのではありません。大企業が相手の場合は知りませんが、お金を借りるには必ずそれなりの不動産が求められていました。絶対安心神話の不動産担保だけを神頼みに、行き場のないお金があり余っていたから安易に貸していただけと考えるべきで、今の銀行に事業の将来性を見極める見識は期待できないと理解しておく必要があります。

 少し極端ですが、お金が余るから半ば強引にでも貸し、足りないから強引に回収するという実に単純明快な行動パターンです。

 不動産バブルに加えてアジア全体がますます大混乱ですから、新たな不良債権事案を抱え込んだ銀行はまたもやお金が足りなくなりそうで、残念なことですが、まだまだ貸し渋りが続くと考えておかなければなりません。そのあおりで、将来性のある企業の資金までが滞らなければ良いのですが。

 ところで、最近、日経新聞で興味深い記事(5月25日、夕刊)を見ました。
 ドイツの金融事情を報告したものです。

○簡単に要約すると、最近のドイツでは低金利を背景に銀行預金が急減しており、反対に個人の株式投資が急増しているという内容の記事でした。

○97年の対前年度対比では株式投資が83%増え、家計の金融資産の4分の1を占めるまでになったとのことです。また、91年当時の株式投資額はドイツ連邦債などの債券投資額の半分にも満たなかったものが、97年は両者の立場が逆転して逆に3倍近くになったそうです。

○個人の投資資金の貯水タンクとしての銀行の役割は大きく後退したという指摘や、株バブルにも用心しなければという指摘が目を引きました。

 この記事を見て少し驚きました。

 筆者は、ドイツ人は何をするにも日本以上に堅実だいう印象をもっていました。自動車にしても機械類にしても堅実一本槍のドイツ人だから、多少ともリスクの伴う株式投資などにはあまり関心もなく、今でも大半のドイツ人は預貯金とか確実な債券とかで金融資産を運用しているとばかり考えていましたが、筆者の認識は不充分でした。
 ベンツやVWの意気込みも目を引きますが、さすがの堅実ドイツ人も個人レベルでも世界の流れに順応する道を選ぶようです。

 アメリカは20年くらいも前からそのような流れに移行していたようですから、おそらくもっと極端なことになっているのでしょう。20年前と言えば、ふた昔も前のことです。その間、わが国はわけも分からずに有頂天になってカラ騒ぎしていただけですから、ノウハウや心がまえの面では大変な差がついてしまいました。

 遅ればせながらビッグバンは着々と実施されつつありますから、わが国の金融事情も先進諸国並に変化せざるを得ません。そうなれば、当然、銀行の役割は今までとは違ったものになってきます。従来は大きな投資のための資金瓶の役割を果たしていたわけですが、もはやそのような役割はそれほどの意味をなさなくなりそうです。

 上場企業は、銀行から資金を借りなくても資金調達の手段はいくらでもあります。
 少し前に話題になったソフトバンク社のように、これからは銀行に依存したがらない企業も増えてきそうです。そのための布石かどうか、最近、自社株買いを実施する企業がやけに目立ってきました。そんな企業は株式市場でも人気があります。
 株主の利益に積極的な企業が株式市場でもてはやされるのは当然です。
 これは、自社株買いに関する規制緩和のお手柄です。数少ない当局のお手柄です。

 お金の安心な貸し先である優良企業の多くがこのような行動をとれば、左うちわで貸金業の座にあぐらをかいていた銀行はどうやって収益をあげていくのでしょうか。筆者の素人目には心配に映ります。トレーディングやその他の資金運用の腕を磨くことも重要でしょうし、また一方では、個々の事業の将来性を評価する能力を身につけて、有望な貸し先を自分で開拓していくことも大切と思います。

 つまり、銀行にお金集めの機能を求める時代が終わったということです。集めたお金を如何に効率的に使えるかがポイントです。効率的にお金を使えるところには勝手にお金が集まるという位に考えるのが良いと思います。

 強引にお金を集めたいという発想が多くのムダを生んでいます。それこそが問題の本質です。そこをスリムにしなければなりません。スリム化とは一切のムダを省くことです。ヒト、モノ、カネなど全ての領域で必要です。事は急を要します。

 何もややこしく考える必要もなく、本来、単純な問題です。この程度のことは先刻承知のことと思います。
 しかし対応があまりに遅いためか、世界の企業格付け機関からはお得意の横並びを皮肉られるかのように、先日などは、横並びで一斉に格付けを引き下げられるという心憎いはからいまで受けてしまいました。

 銀行には銀行の新しい役割がありますが、先進諸国の例を見るとわかるように『個人活力』が主役の座にすわる以外に成熟社会をうまく維持していく手段はありません。『個人活力』を主役の座に据えるためには、個人が安心して投資できる環境整備が何よりも大切です。一にも二にも情報開示と公正さの徹底が求められる所以です。

 ところが現実は相変わらず横並び株主総会が横行したりのようで、どうなることやら・・・。

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 NO.8 『自己責任』って何だろう 98.7.1

 為替が一段とめまぐるしく動いてきました。
 筆者は、まさかこんなに円安になるとは思っていませんでした。認識不足を痛感していたところです。
 一方では不思議な気もします。もし1ドルが150円とか160円になったら、アメリカの自動車産業などは壊滅的な状況になってしまわないかと他人事ながら心配です。アメリカの関連業界がよく黙っているなと思います。アメリカの業界のことだからもっと大騒ぎしてしかるべきだとも思ってしまいます。

 まあそれはそれとして、対中国対策とかアメリカもいろいろな思惑があったのでしょうが、流石にシビレを切らしたのか、先日は、久しぶりに『協調介入』が実施されました。アメリカが動いて、急転直下、為替が大幅に反転しました。アメリカの行動はいつもながら素早くまた絶大だと思い知らされます。もっとも、限られた恣意的行為が長続きすることまで期待するのは虫が良すぎましょうが。

 それに引き替えわが国は、何をするにしても、与党、野党を問わず分かったようで分からない勝手な理屈やオウム返しのコメントばかりで、何ともはやグズグズした印象です。こうなったら、大事なことは全てアメリカに陳情するのが一番の近道かも知れません。
 『中国も大切だがもっと強力に日本を鍛え直してくれ、それがアメリカのためにもなる』と大勢の署名でも集めてホワイトハウスに嘆願したら、お得意の格好のいい名目をつけた凄腕の顧問団を派遣してうまくやってくれるかもと、とぼけた空想に耽ってしまいます。


 工場の改善活動では、コストを3%低減しようとすると大変な苦労が必要だが30%低減ということになれば存外にうまくいく、と言われることがあります。

 普段からそれなりにしっかり管理された工場で3%や5%のコスト低減をはかるのは至難の技です。3%や5%のコスト低減と言うときには、あうんの呼吸ではありませんが、現状のちょっとした改善とか軌道修正という意識が働きます。結果としては、ケチケチ運動や身近な創意工夫活動を行うことになり、まさしく身を削る思いが必要でその割には効果は限られます。もちろん、このような活動も日常的な努力として必要なことは言うまでもありませんが。

 一方、30%のコスト低減と言った場合には、そのようなケチケチ運動的な対策では間尺に合いません。抜本的な発想の転換が求められるのです。改善と言うよりは革新ということばが適切です。

 革新を行うときには、現状を全て否定することから始めなければなりません。
 全く新しい発想で臨むことが必要です。しくみを変え、ヒトもモノも総入れ替えの覚悟です。総入れ替えだから一時的には大きなおカネも必要になろうかということです。従来の経緯に安易に妥協しないように構想段階から新しいヒトが求められます。

 ちょっとしたコツも必要です。恰好を気にして妙に人格者を装ってはいけません。
 本来はひねくれ者の発想かも知れませんが、無理にでも『そもそも・・・(なのに)』と考えてみるとうまくいくものです。もしも『たまたま・・・』と考えはじめたら、現状の言い訳を探してやることに終始して永久に革新は出来ません。

 わが国の状況はまさにこれだと思います。いつまでも目くらましの修正でごまかし続けていたら、将来までもまっ暗になってしまいます。大多数の人たちがなかなかその気にはなれない気持ちも理解できますが、将来のためには必要な時だと思います。

 さて、どうして革新が進まないかと考えたときに、筆者はその背後に『自己責任』ということばが思い浮かびます。今日は『自己責任』について考えてみたいと思います。

 『自己責任』はビッグバンにまつわる話題がマスコミに溢れだして、最近、さかんに聞くことばです。筆者も何気なく使いますが、ここはひとつしっかり理解しておかなければと、愛用の『新小辞林』で調べていたのですが残念ながら載っていませんでした。

 ことさら辞典で調べることではないのでしょう。読んで字のごとく、自分自身のせい(責任)のことだろうと思いながらもいつも頭の片隅にあったのですが、たまたま目にした週刊誌(週刊現代、7月4日号)におもしろい紹介記事が載っていました。あるコミュニケーション学専門家の大学の先生の取材記事です。(以下は筆者が趣旨を要約したもので、趣旨の理解不足があれば全て筆者の責任です)

○それによると、『自己責任』とは『responsibility』を日本語に訳したことばらしく、約束に対する回答という意味があるそうです。契約社会の欧米では、相手が約束を履行しなければ、こちらもそれを守る必要はないという意味を含んでいるとのことでした。

○本来そういう意味があるのですが、日本では、弱者が一方的に責任をとらされたり怒られたりするケースが多く、強者にとって都合のいい論理(責任転嫁)のために使われている傾向があるとの話でした。

○したがって、自己責任を言うならば、自己責任をとれるだけの欧米並の徹底した情報開示がないことには全くの片手落ちだとの指摘が頭に残りました。

 やはりそうかと思いました。

 考えてみたら、私たち日本人全般、とりわけ国の中枢部にいる人たちには自分の自己責任という意識はほとんど存在していないようです。政治家しかり、監督官庁しかり、さらには大企業しかり、公の約束を頑なに守り、あるいはその経過や結果を公明正大に知らせるという発想の人は見あたりません。よくよく聞けばとぼけたはなしのオンパレードです。

 一般庶民に知らせるには問題が難しすぎてややこしくなるとでも思っているのか、仲間内の関係者に配慮して『分別をわきまえた大人らしく』臨機応変に融通をきかせているのかは知りませんが、これでは先進諸国に対等なスタンスで相手にされないのは無理もありません。

 もう数年来、金融機関の不良債権が問題視されており、当局もそれなりに処理を促進すべく対策をすすめているかのような報告がなされているのに、ここへ来て急に、『公的資金』は70兆円とか100兆円が必要になりそうだとそれとなくアナウンスしてみたり、今頃になってブリッジバンク云々で大騒ぎしているのも腑に落ちません。

 景気は着実に回復しつつあるかのような発表をしながら、与党の政策責任者などは、ほんの数カ月前までは日経平均が18000円にならなかったら責任問題だとラッパを吹きながら見境もなくPKOを繰り広げ(たらしく)、挙げ句は失敗しているのにそんなことは見事にきれいさっぱりと忘れていますし、野党は野党で、別に本気で追求する様子もありません。すべてが、自己責任なしのもたれ合いです。

 筆者は、『公的資金』が何のことかはっきり理解できないのですが、自己責任の伴わないことに垂れ流すことだけは謹まなければと思います。

 例えば、わが国には1200兆円と言われる個人金融資産があるそうです。そのうち600兆円程度が預貯金らしく、中でも郵便貯金は群を抜いています。私たちは、郵便貯金はそれこそ親方日の丸だから絶対安心と思っています。しかし、実はそう思い込んでいるだけかも知れません。1200兆円あるのではなく、あることになっているという現状です。

 こんな恐いシナリオの可能性もあります。

 『財投』は全国の郵便局が郵便貯金や簡易保険で集めたお金の使い先です。最近、この『財投』についての論議もよく聞くようになりました。『財投』が『公的資金』になるのかどうかは知りませんが、仮に『財投』が自己責任の伴わないことに使われたら、貯めた本人達の知らないところでいつの間にかなくなってたという実に間の抜けた事態になるかも知れません。

 あり得ない話ではありません、何しろ自己責任意識が希薄で充分な情報開示をしないところに管理をまかせているわけですから。

 まあ当面の間は預金者保護として少なくとも1000万円までは保障されるらしいので、普通の人にとっては特に関係もないことですが、そうは言っても『公的資金』は税金とかその他の何らかの公のお金でしょうから、国民全体の財産が消えてなくなることだけは確かです。のほほんとしていたら、それで由としている私たち一人一人の自己責任ということにもなります。

 折しもサッカーのワールドカップで日本中が大騒ぎです。筆者はあまり関心がないのでどうしてこんなに大騒ぎなのか不思議なくらいです。たぶん本当に熱心なサッカーファンは少数で、大多数はブーム好きのにわかファンではないかと思っています。にわかファンでも大勢がちょっとでも関心を示せば大騒ぎになります。

 このサッカー騒ぎや経済の混乱を見ていたら、以前に雑誌に載っていた勝負の世界の先人達の教訓話を思い出してしまいました。

●『主戦場の主作戦で勝て』(ミッドウェー海戦当時のある戦略家の教訓)
●『負けは必然、勝ちは偶然』(ある囲碁名人の教訓)

 あらためて含蓄のあることばだと感心します。

 私たちも、サッカーのワールドカップ入場券騒ぎの時のように、にわか評論家でもいいから、国全体のことに対してももっと自己責任を意識してシビアになるべきだと思います。何と言っても、趣味レベルの問題ではなく私たち一人一人の生活に直結している問題ですから。一部の政治家や権力者が自分の失敗で失脚するのは自由ですが、国民の大部分が何も知らぬまま国全体が失脚したら目も当てられません。

 もうすぐ国政選挙です。選挙で国民としての自己責任を全うするのが大切だとの指摘もありますが、果たしてどうなるか何となく興味のあるところです。

NO. 9〜15
NO.16〜26
NO.27〜45
NO.46〜56
NO.57〜65
NO.66〜76
NO.77〜84
NO.85〜87
NO.88〜92
NO.93〜98
NO.99〜106
NO.107〜

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