好奇心コラム

NO. 1〜 8
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NO.99〜106
NO.107〜


 MIZ.VOL.3 日本再生のシナリオ PART1(NO.88からNO.92まで)
 [執筆者]
 水町祐之

 [紹 介]
 第三インテリジェンス代表。
 1952年、福岡県生まれ。日本大学大学院博士前期課程(管理工学専攻)修了後、一貫して経営コンサルタント業務に従事。執筆活動では[転換が迫られる日本型人事・教育システム(人材教育‥日本能率協会マネジメントセンター発行月刊誌、1998年11月号より)]。


●サブテーマ
大臣達は発想を間違えている / 日本は三流国になったか / 国の「痛み」とは何だろう / 産業構造を変えねば未来はない / 民主主義ではなかったとは


 NO.88 大臣達は発想を間違えている--2002.6.11

 先日、外務省問題等の特別予算委員会をラジオで聞きました。

 質問は小泉首相と外務大臣および国土交通大臣へのものがほとんどですが、小泉首相は例によって口癖を連発するだけで議論にもなっていないし、所管大臣は所管大臣で官僚が意図したとおりのシナリオで単に答弁をこなしている雰囲気でした。

 例えば国土交通大臣は、入札を公正にする「予定価格の事前公開」を実施すると言うが、そんなことでは公正も競争も「絵に描いた餅」。発注側の予定価格見積もり基準が高くては、予定価格そのものがコストアップ要因になり改革どころではないでしょう。

 入札は思想に基づいた「仕様」が大切です。仕様を基に、業者に徹底的に工夫やコストダウン競争させることで効率的な発注が可能になる。予定価格云々では予算を正確に使いきるという従来の発想と何ら変わらないし、節約したら担当者は上司に怒られてしまいます。予算の節約に拍車をかけることで改革になる。結果として予算を節約したら役所の担当者には報奨金をやっても良いくらいです。


 普通なら、競争者が多いと価格競争が顕著になって消費者は安く利用できるようになります。ガソリンスタンドが好例。ところが日本の公共事業界だけは、業者は需要の何倍も多いのに安くはなりません。チラッと考えるとまか不思議な業界です。それは、次の二つの理由があるからだと思います。

 一つは、入札する場合にも「積算見積」という「最低価格」を発注者が保証してくれるからです。業者にとっては実にありがたい制度。なぜこんなことをするのか知りませんが、筆者には、支払額を高く維持したいからとしか考えられません。

 もう一つは「政官のマフィア本部」の存在です。マフィア本部は業者数が多いほど「上納金」が多くなります。個々の各業者が払える「上納金」にはタテマエとしてもホンネでも限度があるから、業者数が多い方がマフィア本部は何かと便利なのです。

 「政治家への上納金」は様々な名目の献金です。「官への上納金」は、許認可や資格審査名目とか官配下の特殊法人等の業界団体会費などの名目での上納です。これらは一応は合法的な部分で、もしかしたら「違法な裏金」もあるかも知れません。

 業者数が多くなると、マフィア本部も、全部の業者がそれなりに食べていけるように配慮する必要に迫られます。総額での公共事業を増やさなければ食べていけない業者が出てしまい、「上納金」ももらえなくなってしまいます。

 実に巧妙なシステムです。こうして日本の公共事業界は、業者が多すぎても単価は高いという市場経済原則から乖離した実態になり、不要な大型土木工事がやめられずに公共事業総額も減りません。そしてそのしわ寄せは、すべて納税者と財政投融資に被さります

 鈴木宗男議員の例でも明らかです。公共事業のシステムを本気で見直せば、金額で2-3割程度減らしても同じ工事量を維持できるはず。痛手を被るのはマフィア本部だけ。業者は、マフィア本部への上納金をコストダウン原資にすれば良いのです。

 「上納金制度」をやめると競争原理が正常に機能して工事単価が下がります。競争力のある業者なら、余計な根回しやそれに関わる出費が不要だから、純粋にいい仕事を安く行うことに専念できて従来よりも儲けが大きくなります


 外務大臣の発想もおかしい。「瀋陽領事館騒動」への対策として、ウィーン条約云々を徹底する研修をやるとか公館の警備体制を見直すとか携帯電話を日本とつながるようにするとか、やらないよりはマシでしょうが場当たり的なことで済まそうとする官僚作戦が見え隠れします。

 そんなことがことの本質とは思えません。「鈴木宗男事件」にしても「瀋陽領事館騒動」にしても、国益とは名ばかりの外務省全体に蔓延するご都合主義の組織風土を抜本的に変えなければ何にもならない。

 いくら上司に指示を仰いでも、現場が毅然と対応しても、上司が真の国益意識にほど遠いのなら話にならない。国会が参考人招致しても外国に雲隠れして知らん顔の元オランダ大使や部下に妙な指示をする中国大使のような人々では、これまた怒られるのがオチ。幹部の入れ替えと信賞必罰しか手段はないのです。

 改革では、首相を始め所管大臣が官僚のシナリオに添って事を運んでも意味がない。自分の思想とシナリオを示して、官僚にそれを実行させるのが役目です。それができないのなら、改革をスローガンにする政権ではないから「毅然として首相の座を降りる」潔さを見せて欲しいものですね。



 NO.89 日本は三流国になったか--2002.6.11

 ムーディーズ・インベスターズ・サービスは予告通りに日本国債の格付けを引き下げました。二段階引の引き下げ。

 主要7カ国ではイタリアより三段階低く、台湾、香港、チリ、チェコ、ハンガリー、ボツワナにも越された。戦争中のイスラエルや南アフリカと並んだわけです。無理もないといえば、無理もない。

 北欧諸国などは既に昨年のうちから日本国債を売り切っていたというし、もともとが日本の国債はわずかしか外国人は保有していない。日本国債の格付け低下で一番困るのは、日本国債の大口保有者の日本の銀行達。国債の格付け低下に開き直るしか能がない日本の金融当局と、それでますます身動きがとれなくなる日本の銀行達。この人々の頭の中は一体どうなっているのだろう。

 国債を湯水のごとく発行して、それを将来のない日本の銀行がどんどん買う。買うから調子に乗ってまた発行する。発行したら買わないとそこで行き詰まるし、他にお金の使い途もないからまた惰性で買う。何かおかしいとは感じないのだろうか。完全に「国債バブルスパイラル」の罠にはまりこんでいる


 国債で調達した資金を将来実を結ぶ投資に使っているのなら発行額が大きくてもバブルとは言えません。ところが日本の場合は、利息を払うためにや将来不要な業種を延命させるために国債を発行している構図になっています。「土地バブル」と全く同じ。

 個人で言えば「サラ金地獄」のような状態でしょう。50万円の収入(50兆円の税収)しかないのに80万円の生活(80兆円の国家予算)をしようとしても、一時的ならともかくも長く続けることはどう考えても不可能です。借金が借金を呼ぶ。これを抜け出すには、一旦は身の丈に合った生活態度にして出直すしか方法はありません。

 将来に価値を生まない投資は単なるバブルです。日本では、道や橋を造っても将来それが新しい価値を生むとは考えにくい。外国の機関投資家はリスクに敏感だからそんなリスクの高いところには投資はしない。ところが、日本の銀行はせっせと日本国債を買う。買ってどうするつもりか不思議ですね。

 日本国債は諸外国と違って大部分が国内消化なので、格付け低下で外国人が売っても量がわずかだからいきなり大暴落にはなりません。しかし、もし日本の銀行が売ったらとんでもないことになる。誰も買い手がいない。だから、日本の銀行は売るにも売れない。

 欧米の金融機関はそれを百も承知だから、そんな巨大リスクを抱え込んでいる日本の銀行をまともには相手にしてくれません。日本の銀行は、海外での特に資金調達業務はしばらくは開店休業でしょう。

 外国人投資家は利口です。ヘッジファンドはリスクの高い投資もしますが長期資金運用の機関投資家はリスクを嫌う。だから格付け機関が重宝されるし格付け機関もそれに対応する。外国人投資家達は将来性のある個別日本企業には投資しても、日本政府には投資する気にはならないでしょう。

 結局、バブルでは新しい価値を生むことが無い。どこかで国債バブルスパイラルを断ち切るしかないのです。そのシナリオは既に本稿で何度も手を変え品を変えて指摘しています。あとは決心をするだけなのですが。そして、それができたら、日本に再び日が昇ります。


 余談ですが、戦時中に「軍票」というのがあったと聞きます。「軍票」は、戦地でお金の代わりとして使われていたようですが、戦争が終わったとたんに文字通りの「紙切れ」になったとか。「軍票」を信じ切って協力していた人々は、さぞや悲惨だったことでしょう。「軍票」はお金というわけでもない。お金が必要だけれども持っていないから、苦肉の策として不渡り覚悟で出す約束手形のようなものだから、「お墨付き」を書いた当人(軍)が消滅したらその時点で何の価値もありません。

 普通ではそんなものは誰も相手にしない。戦時下の異常事態であり、あらゆる面で強大な力を持つ軍が後ろ盾になるから何とかごまかしも利くのでしょう。そして今、日本国債はちょうど戦時の「軍票」のような位置づけになっています。

 それを日本の銀行は大量に抱え込んでいます。それは海外では価値が乏しく金庫の飾りにしかならない。政府と銀行が連んでお互いを庇い合うために考案した「見せ金」です。そんなもので海千山千の海外の専門家は騙せない。

 政府の態度を見れば一目瞭然。ムダ使いの垂れ流しをやめる決意を見せないと世界からは相手にはしてもらえないでしょう。公務員賃金も金融機関の賃金なども強引にでもカットし、一切の惰性の投資的予算も切りつめるのです。政府や銀行にはムダ使いのゆとりはないはずです。

 それをしない政府には構造改革の決意なしと見られています。そもそも、政府は何も改革していないのに、必死のリストラをしてきたごく一部の優良企業と同じ扱いを求めるのは「バチ当たり者」の発想、甘えるのもいい加減にしなければ。

 折りしもアメリカでは金価格が急騰しています。インドとパキスタンの戦争危機がその背景にあるのかも知れませんが、そうとばかりも言えないようです。今年に入って日本の金の輸入量が激増しているとか。多くの人々が資産を金地金に替えているのだろう。世間(世界)に相手にされない「国債という軍票」を掴んでバカを見ないように、個人も対策が必要な段階に入ったようです。金でも外国通貨でも良い。

 政府と一体化した銀行がリスクを被るのは勝手ですが、軍の統制下でもない時代にそれにつき合うこともない。最後には体よく物言わぬ大衆にツケを回すのが日本流です。政府が開き直るだけで真剣に対応しないなら、個人で対応するしかありません



 NO.90 国の「痛み」とは何だろう--2002.6.11

 構造改革は「痛み」を伴うとよく言われます。この「痛み」というのがわかっているようで、わからない。

 普通の大多数の国民にとっての「痛み」は何となくわかります。「極端な痛み」はサラリーマンであれ自営業者であれ、失業したり会社が潰れて収入基盤がなくなってしまうことでしょう。

 そんな人々は、収入基盤が完全になくなってしまっては大変だから、自分を雇ってくれる会社がこのままでは危ないという時には、給料を減らさせてくれと頼まれればガマンするしかないし、現に、多くの中小零細企業関係従事者はそうしているのだと思います。

 ところが、日本では、国や市町村やその下部機関的特殊法人に雇われる人々は、どんなに経営状態が悪くても昇給率が小さくなる程度のことで収入が減らないどころか、大儲けの大企業に準じています。何とも気楽な稼業である。そして、何かがおかしいのです。

 国や自治体の経営状態はほとんど「潰れ」の状態なのに、そこに雇われている人々はそう思っていないのだろう。さもなければ、もっと真剣に改革にも取り組むはずなのに危機感はほとんど感じられません。

 「国の痛み」は財政悪化や不景気ではありません。それらは、結果としての現象。「国の痛み」とは、「国に雇われた人々」に、大変だがここはガマンしてくれと協力をお願いすることに他なりません。もし、国が会社なら、もうこんなに大勢を雇っていられる状況ではないから会社(国)を整理するという状況でしょう。

 政治家業界、公務員業界、特殊法人業界に携わる人々が、自分たちが率先して「痛みを分担して」この難局をどう乗り切るかをまず考える必要があります。これらの人々が歯を食いしばってしのいでみせれば、改革もスムーズに達成できましょう。

 そこまでするなら「増税や社会保険料の負担増」もガマンしなければとなろうが、現状は違う雰囲気です。だから大多数の国民はシラケて無関心を装う。当面、明日の生活に困る人が溢れているわけでもないので何とかなっているが、これでは日本に「将来」はありません。


 そんなことを考えていたら、先日、これまで筆者が度々強調してきた「公務員賃金」にやっと竹中大臣が言及してくれました。なぜ今まで言及しなかったのが不思議なくらいですがまあそれは良しとしましょう。

 「国民に痛みを要求するなら、国も痛みを」という発想は逆です。改革では、「国は全てのことをしたが限界、国民も何とか頼む」というスタンスが重要です。現状は、国は最小限のこともしていないし痛みもない。それで改革とは、チャンチャラおかしいのです。

 国がまずやるべきことはたくさんあります。議員数も、特殊法人も、公共事業も、公務員賃金も「バブル」のまま。これまで折に触れ数値で例示してきたように、これらは、同じ水準の国民サービスを維持しながらも無理なく3割程度は下げることができます。それを「政官業マフィア勢力」がもっともらしく理屈をこね回して阻んでいます。

 とりわけ賃金については、国が国民全体をリードしやすい最も象徴的な領域だと思います。例えば韓国は、危機の時に真っ先に「公務員賃金の一律2割カット」を実施しました。公的セクターが率先してこそ国民は納得する。韓国の公務員賃金はもともとが民間企業より低めなのにやる。日本は大企業平均賃金より高めに維持されているのにやらない。

 一般企業(特に中小零細企業)は「競争による淘汰」が顕著に機能するため、生き残りに必要なら人材入替えもやるし賃金引下げも実施しますが、国や特殊法人や国に庇護される特権企業(銀行やゼネコン等)は淘汰機能がなく放っておいたら何も進まないのです。

 銀行やゼネコンや流通も表面的な数は少しは減っていますが、「債権放棄」の裏技で見せかけのリストラがまかり通り、体質は何も変わらない。「みずほ銀行の顛末」が見事にそのことを物語っています。



 NO.91 産業構造を変えねば未来はない--2002.6.11

 ついに米通商代表部次席代表が日本車の対米輸出の急増を注視していると発言しました。米国では議会や自動車業界で日本車の輸入増に批判が出ており、米政府も同問題を重く見始めたとか。心配していたことが現実になってしまいました。円高圧力の序章か。

 株式市場で外国人投資家などの行動を観察していれば容易に予想できること。日本の自動車各社は軒並み過去の利益を更新する勢い。国内販売は低迷しているのに輸出が大躍進しているからです。

 一方、アメリカは失業問題にことの他神経質な国。企業は躊躇なくレイオフするから業績はストレートに雇用に反映され、今では日本よりも高い失業率。労働者の暴動まがいのことも起きやすいお国柄だし、この状態を黙認できる国ではないのです、アメリカは。

 円安が続けばアメリカの一部の産業は壊滅しましょう。国益最優先のアメリカがそれを黙認すると期待する方がおかしいと思います。

 現在の世界の産業競争力の構図では、一時的ならともかく中長期に円安を維持することは不可能でしょう。日本の自動車産業や一部ハイテク産業の競争力があまりに強すぎて、逆に他の産業の競争力があまりにも弱すぎるのです。

 競争力が強すぎる自動車産業などが輸出分をアメリカやカナダなどでの現地生産化を拡大して相手国の雇用にも配慮して貿易摩擦を緩和し、一方ではその間に弱い産業の体質改善を急いで競争力を一定レベルまで向上させるしか、日本に選択の余地がないわけです。

 日本で競争力の弱い産業ははっきりしています。公的セクター、特殊法人、農林業、金融業、ゼネコン業、流通業など。これらは潰れて何の不思議もないのに、特権(利権)や規制に守られ(つまり、他の大多数の国民の過大な負担の上で)のほほんとしています。

 これらは、今のままで世界とは競争できない産業です。残念ですが、数を減らし賃金も下げて低コスト体質に脱皮するしか方策はないでしょう。

 円安頼みでは必ず行き詰まります。産業構造の改革を急いで、輸出だけに頼ることなく経済が安定するような新たな国内需要を創造し、そこに競争力の弱い産業からの労働移動を促すことが大切。それには広い意味での生活関連サービス産業振興しかあるまい。この分野は、潜在ニーズが巨大で新規雇用も期待できます


 例えば、郵政事業民営化もその一つといえましょう。郵便局にはいくつかの種類があります。普通局、特定局、さらには簡易局など。そして、郵政事業民営化で一番の懸案は特定郵便局です。

 国が発展途上で通信手段を「手紙」に頼るしかない時代には、誰かに連絡したいときも不便だし、また自宅に現金を置いておくというのも何かと不便だから至るところに特定郵便局を設置するという発想は、国を発展させる基盤づくりとして的を射ています。

 現在は、山奥の山村でも電話はあるし有線放送や防災無線などの通信手段もほぼ行き渡っている。農協もあるから金融機能も何とかなる。特定郵便局が果たしていた国のインフラ的役割は格段に小さくなっています。

 それなのに同じ制度を維持しても意味がない。僻地などでは「特定郵便局がなくなったら不便になりますが皆さんはそれでも良いですか」とキャンペーンでも始まるかも知れませんが、まやかしです。特定郵便局のほとんどは集配業務をしていないのです。

 切手販売や小包等の取次ぎは簡易局のような委託で済む。ATMをどこかに置かせても良いし、どうしても必要なら「巡回サービス移動局」でもやれば今よりは低コストだろう。便利にはなっても、不便になることなどまず考えられません。

 また、局長も局員も公務員だから特定郵便局がなくなって直接クビになるわけでもなく勤務する郵便局が変わるだけ。つまり、郵政事業民営化に抵抗する人々のホンネは間違っても国民生活云々ではなく、実は、総務省管轄の「巨額な郵便貯金に関わる利権」なのです

 それよりも、特定郵便局にもっと広範な業務ができる自由を与えることに全精力を使った方が、国民にとってもよほど建設的だろう。特定郵便局を民営化してその全国ネット網を活かせば、コンビニ業界も真っ青の地域密着の総合サービス企業になれるかも知れないだろうに。そして、それくらいの気概がある人々にこそ特定郵便局を受け継いでもらいたいものです。

 戦前の特定郵便局は請負制で国の基盤を担う使命感の強い事業家集団だったと、特定郵便局の父に良く聞かされました。二十数年前の引退する頃は、特定郵便局乱造と中央官僚の利権争いに踊らされるだけの局長諸氏の不甲斐なさを嘆いていましたが、その通になりました。

 小泉首相が特に力を入れていると言われている郵政事業民営化に関連して、先日は、総務相がやっと郵便局のコンビニ経営に言及しました。すかさず「郵便局がコンビニをやったら地方の商店街が打撃を受ける」と、これに反対する声も一部の議員からは挙がっているとか。

 そんな声は焦点がズレており、商店街の特定郵便局は多くはないし本質的な問題でもない。要は、国民生活が便利になるかどうかが最後には大切なことだから、お互いに切磋琢磨して地域住民にかわいがってもらえるように努力すればいいのです。

 そんなことより、コンビニ業界も過当競争だから並大抵ではうまくいかないというのが問題でしょう。潰れるコンビニ店も数多く、末端経営者は決して楽ではない。既存コンビニ業界との競争に勝ち残れるかどうかに知恵を絞ることが大切です。

 名案があります。古い閲覧者の方には一年前の繰り返しになりますが、これも何かの縁ですから無料コンサル講座をもう一度。

 特定郵便局は地域に密着して各家庭の暮らしむきや家庭事情にまで精通しています。特定郵便局自身の最大の財産は、当人達は気づいていませんが、そうして地域と一体化してきた歴史それ自体です。巨大な資金(貯金)は、中央の政官マフィアだけの利権価値でしかないのです。

 特定郵便局は地域の人々には「生活相談役」的に受け止められているわけです。銀行や保険会社なども地域の生活密着度では特定郵便局の足下にも及ばない。そこに巨大なビジネスチャンスがあるはずです。

 これからは高齢社会。介護、介助、各種手続き、代行、給食、その他の快適生活サービスニーズが高まることはあっても減ることはありません。それらは、ニーズはあっても見ず知らずの人には何か頼みにくいという、サービスを受ける側の事情もあります。

 特定郵便局は地域の各家庭とほとんど顔見知りだしそれなりに信頼されている。しかも全国ネット。そう考えると、特定郵便局は、単純な既存コンビニ業態ではなく、「生活の総合コンビニ」とでも言える業態をめざすのが成功への途になりましょう。

 筆者ならぜひやってみたいが世間の局長諸氏はどうでしょうか。民営化はいずれ時間の問題。民営化反対の圧力団体になるよりも、自身の可能性を信じて自由化の圧力団体になった方が将来の発展につながると思うのですが。



 NO.92 民主主義ではなかったとは--2002.6.11

 わが国には「事務次官会議」という制度があるそうです。うかつにも現実の内閣のしくみを知らなかったので、このことをテレビのニュースショー番組で知って驚きました。「事務次官会議」は、各省庁の事務次官が集まって閣議決定させる内容を決める場ということのようでした。

 考えてみればとぼけた制度です。日本の政治家諸氏のマヌケさを象徴的に示しています。日本では事務次官の方が政治家よりも立場が上ということになります。内閣はタテマエとして存在するだけで、事実上は日本の政策や法律を各省庁の事務次官達が決めていることに他なりません。

 内閣というのはまるで幼稚園児の会議と同じですね、この有様では。政治家諸氏は園児で事務次官が幼稚園の先生。政治家がだらしないからこんなことになったのかも知れませんが、そもそも、これでは民主主義ではありません

 国民が望む国づくりのためにはそれに相応しい政策や法律を実施することが大切です。そして、その政策や法律を作ることを委託されているのは官僚ではなく政治家です。政策や法律を作るということは、国づくりの価値判断基準を作ることなのです。

 個々の官僚には優秀な人々も多いのでしょうが、官僚は自分の考えを国民には言いません。何を考えているかもわからない人々に国づくりの価値判断基準を作らせては具合が悪いから、わざわざ選挙をしてそれを作る政治家を国会議員として国民が選んでいるのですが、政治家諸氏はその栄誉や義務を完全に放棄しているらしい。

 政治家諸氏がこんなにも遠慮深い人々だとは気がつきませんでした。自分達が何のために存在しているかさえも気がつかないとは。

 事務次官は単なる官僚です。官僚は政策や法律を作る人々ではありません。作った法律や政策を滞りなく実行するために存在している人々です。そして、基本的には判断基準づくりに関与しないからこそ、官僚にはことさらに選挙も必要がないわけです。本当に「事務次官会議」でそんなことが行われているなら、国民は事務次官を選挙で選ばなければなりません。

 選挙で国民の審査を受けていない人々には決して自分勝手なマネをさせてはいけません。それを許したら、民主主義の前提が根底からひっくり返ります


 最近、お役所の不祥事が目立ってきました。外務省や農水省などを始め、警察や検察さらには防衛庁。それも、明らかな個人的動機による犯罪行為と言うよりも、むしろ組織の内部風土が堕落したことに起因する類の不祥事が多いと感じます。

 それらに対して官邸は、例外なく、遺憾の意を示して徹底調査を強調しますが、実際に行われる調査は内部の者に事情を聞きに行かせる程度の「ご都合調査」ばかり。はたして「ご都合調査」で再発防止はできるのだろうか。

 おそらく、当の本人達も悪いことをしたとは思っていないでしょう。組織内部の慣習や暗黙の行動基準に添ったことをしていたのに悪人呼ばわりされて、その実は戸惑っているに違いありません。が、これは考えてみれば実に恐いことです。なぜこうなるのでしょう。

 役所は行政事務を遂行するためにあるのだから、本来なら行政の要である内閣の方針によってやり方や優先順位なども変えなければ効果的に機能しませんが、わが国では内閣がコロコロ変わることもあり、妙に各行政組織が勝手に一人歩きしてしまいます

 当初は意欲的な官僚でもとりあえず「上役の覚え」が悪ければ何もできません。そして上役のご機嫌取りをするうちに、いつの間にか当初の意欲や正義感が風化し、わけのわからない「組織の価値」に洗脳されてしまう。オーム真理教の人々とどこか似ています。日本の官僚制度には根本的な欠陥がありそうです。いわゆる「キャリア制度」がそうさせているのでしょう。

 世紀末は無事に乗り切りましたが、日本の政官界はこれから世紀末本番です。何もかもなってない。大刷新が必要。国民が大声で指摘することが大切だと思います。

 まあ、考えてみれば無理もない。終戦後の朝鮮戦争から始まって冷戦時代まで、日本は、ことさらに外交能力や経済政策能力がなくても、大国の駆け引きの谷間でひたすらものづくりの技術を磨くだけでその恩恵を一身に享受して成長できました。

 ソニーやホンダなどに代表されるものづくりの天才的な人々と貯金好きな国民性のお陰で発展してきたわけで、政治家や官僚の政策能力が優秀だったからではありません。単に、国際情勢の面では恵まれた環境だっただけなのです。

 そろそろ日本も、いわゆる「事務方」のあり方に抜本的な改革が必要。今の官僚制度では時代に適応できません。外務省や防衛庁で明らかなように、上から下まで同じ立場の公務員では何かと弊害が目立ちます。内部で不祥事が起きても真実が明らかにならないし再発防止策も形ばかりで、不信感だけがますます大きくなります。

 大組織には何千何万という人々がいるから、中には不遜な人も混じっていよう。不祥事を完全には防げません。それは人間社会の常としてガマンできますが、組織内部ではそれを隠すことだけに終始して健全な自浄力が全く機能していないというのは堕落の極みです。

 高成長の時代は何もしなくても経済が成長するから、官僚に求められる機能が事務処理能力に偏重し、先輩の事務を無難に引き継ぐ人だけを異常に重宝する風土に陥ります。そして官僚達は、画一的先輩服従集団に成り下がる。

 彼らが真剣になるのは所管分野の利権。利権を確保するためわけの分からない特殊法人を造ることばかりを考え、官僚を引退して「左うちわ」で悠々自適に暮らすことに知恵を巡らします。そのため国民は、本来は不要な莫大なコストを負担するハメになる

 一応は大臣が役所の長ですが大臣はコロコロ代わる。首相が同じでも順番待ちの都合で大臣が代わる。機会あるごとに順番待ちの与党からも更迭の大合唱。大臣は単なる名誉職で、わけも分からないままに最後のハンコを押すだけの人々に落ちぶれてしまいました

 そんなだから、大臣は役所内部の数年前の経緯とか現状を詳細に知る術もない。事務次官やその他の役所幹部がもしも適当にごまかしてしまえと考えれば、大臣を丸め込むのは赤子の手をひねるよりも簡単でしょう。

 少なくとも局長級以上くらいの人々は内閣(大臣)が独自の視点で任命すべきです。役所内部の人事システムとは一線を画して役所幹部を任命しないと同じことの繰り返し。そして名誉職としてではなく、役所幹部を自分で準備できる人に大臣をやってもらいたい。そうすれば、大臣は、自分が信頼する事務スタッフの役所幹部に命じればことが済みます。

 大臣が代われば新たに任命すれば良いし、それまでの路線を継承したいなら同じ人を任命しても良いでしょう。役所の内部人材から任命しても良いが、その場合は、一旦は役所を辞めて一般の公務員とは違う「特別職」の立場になってもらう。一般の公務員として大過なく定年までいたいなら断れば良い。もちろん、民間人から起用してもかまわない。

 そうなると、役所幹部も大臣が代わると失業するリスクを背負うことになりますが、純粋に能力を認められて幹部になった人なら再就職は引く手あまただろうし、逆に、役所引退後の役所内影響力は限られるから「利権先への天下りは無意味」になります。キャリアやノンキャリアの区別なく官僚全体の健全な切磋琢磨が促進されます。制度的には難しいことでもなかろう。

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