好奇心コラム

NO. 1〜 8
NO. 9〜15
NO.16〜26
NO.46〜56
NO.57〜65
NO.66〜76
NO.77〜84
NO.85〜87
NO.88〜92
NO.93〜98
NO.99〜106
NO.107〜


 MIZ.VOL.3 日本再生のシナリオ PART1(NO.27からNO.45まで)
 [執筆者]
 水町祐之

 [紹 介]
 第三インテリジェンス代表。
 1952年、福岡県生まれ。日本大学大学院博士前期課程(管理工学専攻)修了後、一貫して経営コンサルタント業務に従事。執筆活動では[転換が迫られる日本型人事・教育システム(人材教育‥日本能率協会マネジメントセンター発行月刊誌、1998年11月号より)]。


●サブテーマ
日本はハチ社会 / 直接金融の途 / 責任のとり方 / もはや待ったなし / 非常事態宣言と新規雇用創出 / エンプロイヤビリティ開発投資 / 人質奪還政策 / 銀行は多すぎる / 一人一人が自覚する時 / まずは国会リストラ / 行政指導が巨悪の原点 / 立法と行政の責任明確化化 / 党内融和は戯言 / 行政の継続性と責任 / 田分け者の発想 / 株価対策の決め手 / 護送船団から個別企業強化 / 政策責任者は、即仏門に / 葛根湯医者はいらない


 NO.27 日本はハチ社会--2000.12.27

 多くの国民や野党諸氏が財政赤字の危険性を声を大にして叫んでいます。ところが一方、当局や経済専門家諸氏の多くが「とりあえず景気浮揚だ、そうすればそのうち消費も税収も増えるから」の一点張りでそんな指摘には無頓着です。

 筆者はそんなやり方で消費が回復するとは思いませんが、それにしても財政赤字の金額が金額だけにどうしてそんな暢気な発想になるのかなあと考えてみました。そして、ハタと思い当たりました。日本が「ハチ社会」になっているのだと。

 国民は働き蜂よろしくたとえ何があろうと(利息が有ろうとなかろうと、つぶれそうだと思っていても)せっせと銀行や郵便局にお金(蜜)を運びます。そして一部の女王蜂のような特権者がそれをせっせと財政投融資や債権放棄に使います。昔はお金を持ってくる人の意図と使う人の意図が一致していました、国の復興という視点で。ところが今ではその視点がチグハグのまま、役割だけが相変わらずに完全に分かれている恰好です。

 現在、日本人の個人金融資産は1300兆円に及ぶそうです。そのうちの半分ほどが預貯金らしいのですが、たとえ財政赤字が何百兆円あったとしても預貯金の担保があるからまあいいくらいの意識で、当局は財政赤字にも安心しきっているようにも見えます。国民を何があってもただ黙々と働くだけの働き蜂に見立てているかのようです。

 考えてみれば、国民がせっせと預けるお金は、国民が一番望んでいないものへの投資とか自分の失敗のツケを他人に押しつける債権放棄などに使われるという、何ともおかしな構図になりました。



 NO.28 直接金融の途--2000.12.28

 最近、わが国にも新しい株式市場が続々と誕生しました。今は試行錯誤の段階で市場がねらい通りに機能しているとは言えない状況のようです。筆者は、その問題の本質は当事者および関係者の情報開示の姿勢にあると考えていますが、いずれにしても表面的な体裁だけアメリカのマネをしても本来の機能は発揮できません。

 ただし、これからの日本が社会の中に多様な資金調達の手段を整備していかなければならないという問題意識には大賛成ですし、市場を立ち上げた功労者には敬意を表したいところです。

 日本は早く成熟社会(自立型社会?)に脱皮することが必要です。

 筆者は、成熟社会を充分な情報開示のもとに個人(又は地域)が自分の価値観で自分の生活を向上させることができる社会だと考えています。そんな社会では、国や大銀行が総合的な観点から一括して社会に投資する方法だけでは巧くいきません。国土の均衡ある発展云々と能書きを言いながらも利権の温床になるばかりです。多様な視点を持つ個人や地域の取り組みにまかせることが大切です。

 そのためには、個人が国や金融機関に運用をまかせている膨大な資金の一部を、自分たちの生活向上のため直接に企業(ベンチャー企業)などに投資してもらえるしくみが必要です。いわゆる、間接金融から直接金融へ、部分的に少しずつでも移行していくことが求められています。そしてそのような投資にはリスクがつきまといます。

 どのようなしくみにすれば個人にもある程度のリスクを許容してもらえるか、そのためにどんな税制や法整備(情報開示も含めて)が必要かについて早急な検討が必要な時期だと思います。

 公的資金投入、債権放棄、使わない巨大施設、今の社会で不要となった巨大特殊法人など、国や金融機関が勝手にやった(もちろんその時々には必要だったのでしょうが)失敗のツケを個人に押しつけるようなやり方は成熟社会とは正反対の社会だと思います。



 NO.29 責任のとり方--2001.01.10

 小渕首相からこちら、政権政党の党幹部の責任意識がなぜか希薄になりました。

 先の衆議院選挙では選挙に負けても何事も起きませんでした。そして景気浮揚のかけ声のもとにやりたい放題のバラマキ行政、しばらくしてほんとうに景気が良くなるのであれば一応は納得もできますがいっこうに景気がよくなる気配も見えないまま株も為替もどんどん下がっています、それでも何のメッセージもアクションもありません。

 筆者は、このままでは今年も景気回復は絶望で消費が回復する云々と発想すること自体がナンセンスと考えていますし、そうなればさすがに耐えきれない企業が企業としての生き残りをかけた必死のリストラを断行せざるを得ないから失業率も一段と高まると予想しています。

 一昨日は扇国土交通大臣がテレビのニュースショーで新幹線整備や景気対策の効果などについてインタビューされ、筆者などから見れば実に暢気に「あわてるな、そのうちに間違いなく税収が増えて借金も返せるから心配するな」というようなことを言い放たれていました。

 少し乱暴な言い方ではありますが、筆者は、仮に一時的にたかだか1―2割税収が増えたところで今更どうなるものでもなくて、もはや早急に抜本的な改革に手をつけなければ間に合わないと思います。もしこのまま惰性の政策を続けて消費や失業率が好転しなくて将来へのツケばかりが増えていったら、政策担当政治家たる者いったいどのようにして責任をとるつもりでしょうか、一度聞いてみたいものです。

 まさか、自分を選んだ「有権者の自己責任」で片付けられるかのごとく「知らん顔の半兵衛」になってしまわないかほんとうに心配になります。



 NO.30 もはや待ったなし--2001.01.13

 いよいよ株価が危険な水準になりました。為替も放置するしか成す術もありません。今頃になって政府与党はあわてています。こうなることは分かりきっていたのにいったい何を考えているのやら、首相はのんびりと海外歴訪などしながら実にのほほんとしたものです。

 無策のままこの2-3年を放置したツケで銀行等はたぶん断末魔の状況でしょう。

 一方政府与党の政策は、去るべき企業を無理やりに残すことばかりを考えて起業を促進する政策をおろそかにしたために、それに甘えて、世間体や半端なプライドを気にして本当のリストラに踏み切れなかった企業も、いよいよ企業としての生き残りの正念場になりそうです。

 消費回復どころの騒ぎではなく、筆者は、社会不安がますます高まり世の中が混乱しないか気になります。



 NO.31 非常事態宣言と新規雇用創出--2001.01.16

 1998年4月にも本稿で非常事態宣言を出しましたが、またまた非常事態宣言を出す羽目になってしまいました。

 株価がいよいよ正念場になりました。一部で話題になっている買い支えなどの守りの政策では株価に対する現状打破はできません。市場の正常な機能を歪めて混乱を長引かせるだけだからです。

 もはや銀行も、自分自身を含めてどうしようもない不良企業に大リストラを断行せざるを得ないところに来たような気がします。構造改革を先延ばしにしてきたツケが一気に来た感じです。

 もうこうなったら、国の全力を挙げて新規雇用機会創造のための手立てを総動員して、これから起きることに備えることが必要です。そしてそれは、実はそれほど難しいことではありません。

 日本中にお金はダブついています。

 筆者のような名もない個人企業にさえも毎週のように金融機関や金融業者からお金を借りてくれとしつこく誘いが来ます。金融機関は前向きな目的のお金の使い先を知らないので、手当たり次第といったところです。一方では、お金が喉から手が出るほど必要な旧態企業への融資はここまできたらさすがに躊躇するのが当然でしょう。ともあれ、お金はダブついています。

 以前から何度も指摘していたように、ダブついているお金が新規起業や将来性の有る有望企業の株式購入などに回るような税制や、それに伴って必要になる投資家保護のための情報開示のしくみなどを一日も早く整備することが必要です。そして、それを本気でやるという強いメッセージが求められています。もう、人質にとられた雇用に躊躇してグズグスしている余裕はありません。



 NO.32 エンプロイヤビリティ開発投資--2001.01.18

 数年前に金融システムの崩壊を防ぐための苦渋の選択と称して各銀行に公的資金が投入されました。そして、また再びそんな雰囲気が漂っています。

 筆者は前の公的資金投入騒ぎのときに、これでいよいよ日本も新しい時代が来るかもしれないと少し期待していました。一部の民間企業を税金を使って助けるくらいの異常なことだから、たぶん、対象になっている銀行などはあらゆる側面から身を削りながら必死になってリストラその他に取り組んでくれるものとばかり思いこんでいたからです。

 今になって考えると、公的資金投入は適切な行為ではなかったようです。

 中小零細企業に勤務する大多数の国民は収入が下がっても生活を切り詰めて税金を払い、その税金をもらいながらも相変わらず暢気な暮らしを維持している大手銀行や、それにおぶさって、債権放棄という一般人から見たら驚くべき恩恵を受けている一部の旧態大企業はいったい何様でしょうか。

 これからの日本には中途半端な金融機関や旧態企業は不要だと思います。それをそのまま残そうとするから採算の見通しのない公共事業までが必要になります。公的資金投入と不採算公共事業、考えてみれば、大多数の国民の税金がごく一部の人のために使われていることになります。もう、一部の特権企業のわがままを許してはいけないことだと思います。大多数の一般国民は立つ瀬がありません。

 そんなことをするお金が有るのなら、発想を変えて、(人質にとられたような恰好の)労働者の転職促進や新しい職業能力の開発などのいわゆるエンプロイヤビリティ(雇用され得る能力)向上のために思いきって投入した方がよほど前向きな投資になると思います。



 NO.33 人質奪還政策--2001.01.19

 「加藤の乱」のほとぼりが冷めたと思ったら、KSD問題やら議員の逮捕や外務省問題などまたもや不祥事の連発で政局が混乱しそうです。わが国の政治は完全に世紀末の様相を呈してきました。

 政治家の覇権争いなど筆者にとってどうでも良いのですが、もはや政府は政策を考えるゆとりがないのかどうか、単なる世論の後追い政策に終始しているのが気になります。株価が危ないとあれほど指摘されていたのに今ごろになって右往左往するし、与党政策責任者が言う対策たるや目先のことばかりです。

 株の一時的な買い支えやあるいは銀行への資本注入や債権放棄など目くらましを続けるときではありません。本気で構造改革に突き進むときです。それが世界中に理解されれば株価は必ず持ち直します。瀬戸際に立ったときは信念だけが突破口になると思います。

 筆者は、構造改革に本気で踏み込めない理由は、旧態企業に「雇用を人質にとられたまま」だからだと思います。構造改革を本気で行うには、まず、人質を一人でも多く助け出しておくことが必要です。それが人質事件での常道だと思います。あらゆる人質奪還作戦を試みて、それでもうまくいかなければ残念ですが人質奪還も諦めるしかありません。

 この際、余分な公共事業やその他半端な目的の補助金など「後手の政策」を取りやめて、旧態企業に従事している人々の転職促進を目的とするような「先手の政策」に大々的に予算をつぎ込むことが必要だと思います。中高年労働者のIT技能習得でも良いし、起業支援でも良いし、転職促進給付金のようなものでも良いし、いくらでも考えられると思います。

 意欲のある従事者が別の産業に鞍替えしたくなるような政策が求められていると思います。人質を減らすことが大切です。そうすれば、思いきった構造改革も可能になります。



 NO.34 銀行は多すぎる--2001.01.23

 最近、日経新聞紙上では株式市場活性化や直接金融に関連する特集が目立つようです。株価が危機的状況になってやっと議論が活発になってきました。これを契機に、日本もアメリカなみに、株式市場やベンチャーキャピタル市場が透明で公正な場に一日も早く洗練されることを期待してやみません。

 これからの日本を考えると、銀行や郵便局などの旧来の金融機関にいくらお金が集まったところで、そのお金の投資先を探す能力は彼らにはありません。国債を買うくらいしか思いつかないのが現実ではないでしょうか。結局、旧来の金融機関に集まったお金は国の赤字を補填する国債を買うのに都合が良いだけで、将来の日本を背負う新しい企業を育てる方面にはほとんど回ってきていないのが実情だと思います。

 つまり、旧来金融機関は国民にとってお荷物になるだけで、日本の将来にとっては何の役にも立っていないことになります。日本にはこんなに沢山の横並び銀行は不要です。泥棒避けにお金を保管する程度の機能しか果たしていません。筆者などは、大げさではなく、貸し金庫業にでも業種転換した方がよほど便利になると思っています。

 これからの日本を考えれば、もう少し安心して一般の人々が積極的に直接金融に参加できる方策を真剣になって考えるときだと思います。



 NO.35 一人一人が自覚する時--2001.01.24

 これからの国民経済は、より直接的に国民の一人一人が主役に座る直接金融中心の経済システムが必要です。

 今は終戦後の復興という状況ではないのですから、「お上(郵便貯金など)」にお金を預けて煩わしい運用は任せて自分たちは当面の仕事を一生懸命やればいいという発想をやめ、一人一人が自分で考える将来のために自分のお金を運用しようという発想にならなければいけない時だと思います。

 「お上」にお金を預けてみても、既に道路やトンネルや社会インフラとしての一応のハードウェアは日本では整っているのだから、「お上」も効果的な使い途など思いつかないのが正直なところではないでしょうか。その結果、それらしく無理やりに理屈をつけながら財政投融資として本来不要なものにまで湯水のように使い、行く着く先は採算など無頓着な一部議員や天下り官僚の利権の泥沼です。

 「お上」を「大銀行」に置きかえても、実は、事情は似たようなものだと思います。今になって考えれば、大銀行はダブついたお金が余って仕方がないから単に業界の横並び発想で、不動産(建設)や流通さらにはノンバンクなどへ湯水のようにつぎ込む競争をしてきただけのことです。

 つまり、社会がある程度成熟して個人金融資産も増えてきたら、日本も「直接金融」へ移行して、個々人にある程度のリスクも許容してもらいながら自分のお金を自分で運用してもらう方策が大切です。そうしないと、「お上」や「大銀行」を中心とした特権階級の人々の利権構造と無責任構造を助長するだけの結果になってしまいます。筆者は、あまりにも悲しい結末だと思います。



 NO.36 まずは国会リストラ--2001.01.25

 今の日本には国会議員が多すぎます。別に根拠があるわけではありませんが、半分以下でも十分だと思います。いつからこうなったかはっきりしませんが、単に数合わせのようなわけのわからない国会議員が乱造され、国会議員でありながら天下国家を論じる人はむしろ稀になりました。

 今や、KSD問題を見るまでもなく、狭い特定地域や特定集団の代弁者としての国会議員が溢れています。それはそれで一定の機能は果たしているのかも知れませんが、その結果、歳費は国から貰うものの現実にはただ単に地域や特定集団に雇われたような見苦しい国会議員が多くなり、それでは反対派も負けてはならじと、ともかく誰でもいいから手っ取り早く人気が取れそうな人や知名度のある議員二世でも推して国会に人を送りこもうと、ますます国会議員の質は落ちてきています。

 まず、国会議員の数を減らすことが必要です。国会議員バブルを正すことからはじめなければなりません。

 これからの日本に「でもしか議員」は不要です。数が減れば有権者も真剣になって選挙に臨むことになりそうです。候補者もそれなりに信念をもった人しか相手にされなくなると思います。有権者としてのチェックも行き届くことになります。

 その代わりに一人一人の国会議員への歳費は、自分で充分な政策秘書や調査スタッフ抱えることが可能なくらいに大幅に増額させます。そうすれば、議員同士やスポンサー(後援者)と過度に馴れ合いになることなく、信念を持って政策立案活動に専念できるようになりましょう。

 さもないと、国会議員が市会議員の延長のような人々ばかりでは「ご近所のよしみで・・」的な発想から抜けられずに、本当の国づくりをする上で身動きがとれなくなってしまいます。

 それと、衆議院と参議院の機能も考え直してみることが大切でしょう。法的制度は知りませんが、現実には、参議院などあってもなくてもどうでも良いような雰囲気を感じます。両院の位置づけをしっかり考え直すことで、特定地域や特定集団の影響力から国の政治が歪められることを防ぐことが可能かも知れません。



 NO.37 行政指導が巨悪の原点--2001.01.26

 これからの社会では、いわゆる「行政指導」は必要ありません、というよりも現実には不可能です。行政指導は、国民が当面の生活の糧を得るのに精一杯で価値観が画一化していた時代の産物です。

 今は人々の生活が豊になりその価値観はマチマチです。価値観が多様化し、グローバルなレベルでさまざまな情報が飛び交う中で、一方的な判断に陥りやすくおまけに「ここは大人の判断で・・まあまあ・・」となりがちな行政指導は不可能だと思います。

 何事につけても最小限のルールを法律ではっきりと規定し、その最小限のルールを犯した者にはしかるべき罰則で制裁を課すのが基本だと思います。そして、その最小限の法律を創ったり時代に合わなくなったら廃止したりするのが国会議員の本来の役目だと思います。行政は、その法律をいかに平等に徹底させるかが仕事で、勝手に裁量した半端な指導など無用です。そうすれば、していいことと悪いことが誰にでも分かりやすくなります。

 ところが、現実には、曖昧な位置づけの行政指導が一部の特権階級官僚の裁量に任せられています(本来は所管大臣がそれを統括して判断できれば良いのですが、1-2年程度の任期では現実には不可能だから大臣は単なるお飾りになっています)。そして族議員はその特権官僚に圧力をかけることばかりに努力します。それを知り尽くしている業者は族議員への陳情にうつつを抜かします。仮にいくら立派な官僚でも、大勢のあるいは力のある政治家の必死の圧力には太刀打ちできないのが実態でしょう。

 そして、それら全てが本来は無駄なエネルギーです。

 そのような中途半端な位置づけの行政指導があることがさまざまな巨悪の原点のような気もするし、いろいろな免許や許認可に関連した外郭団体乱造を招き、その利権が巨大化し、規制緩和もいっこうに進みません。

 誰が悪いとも言いきれません。担当官僚だけに責任を押しつけるのも酷な面がありましょう、担当者は先輩から引き継いで同じ事をしているだけですから。ともかく、行政指導というわけのわからないものによって、政治家と官僚をひっくるめた無責任構造になっていることが問題の本質で、これでは良くないことだけは確かです。

 海外から日本は特殊な国だと言われ参入障壁などに関連してさまざまな批判をされることの根底にも、この行政指導に関わる問題があると思います。



 NO.38 立法と行政の責任明確化--2001.01.29

 最近巷では、日本再生論議の一部として憲法論議や「首相公選制」に関連する議論がちらほら見られるようになりました。そこで本稿も、首相公選制について考察してみることにしました。

 筆者は議会制民主主義とか議院内閣制云々などの堅苦しいことの見識が乏しいのですが、たぶん行政府といえば内閣でしょう。内閣には総理大臣がいて所管大臣が数名と、さらにはそれを支える大勢の事務方(いわゆる官僚)がいます。それらの人々が行政を司っています。

 最近、副大臣ができましたが、筆者の感触では、副大臣の頭数だけが一人二人増えたところで行政事務の概要を把握するのは無理だと思います。大臣や副大臣になった人々が必死になって所管省庁の行政事務を把握すれば問題も少ないのですが、現実問題として、わずか数ヶ月や長くても2年足らずでは行政事務を掴みきるのは困難です。ましてや、適材適所の大臣というよりも、その分野にほぼ素人同然の年功序列名誉職としての大臣ポストになっているのがわが国の実態です。まず無理でしょう。

 一方、いつ代わるかもわからない素人同然の大臣に振り回されるばかりでは行政事務が滞ってしまいますので、事務方は大臣を体よく棚に上げてしまうことばかりを考えているのが見え見えです。

 事務方トップ(棚に上げられた大臣ではなく、事務次官や局長クラス)が役所内の派閥力学的事情から選ばれていることにも問題がありそうです。実質的な権限の集中する行政事務トップのポストが役所の内部都合から選ばれ、何となくそれらは聖域のような慣習になってしまい、それらの人々に対して国民からは何のチェックも入れらないという点が最大の機構上の弱点だと思います。

 つまり、本来首尾一貫しなければならない行政に携わる閣僚と事務方が、組織上敵対関係のまま表面的な体裁を取り繕うために中途半端に馴れ合いになりながら、それぞれが自分たちの都合ばかりを考えて右往左往しているという結果になっています。これでは、本当の改革などできるはずがありません。

 それらの矛盾を打開するためには、現状の事務次官クラスや場合によっては局長クラスを廃止して、大臣や副大臣を3年とか5年とかの任命制にするなどして、大臣が首相参謀として行政事務を実質的にマネジメントする能力を持つことが不可欠だと思います。そしてそれを可能にする方策としては首相公選制も選択肢になりそうな気がします。

 その場合は、衆議院議員から大臣を任命するよりも参議院議員(もっと限定して全国区)から任命した方が適切でしょうし、もしかしたら大臣になったら国会議員を辞職した方が良いかも知れないし、さらに進めて、大部分の大臣は国会議員ではなく民間人の専門家から登用した方が良いかもしれません。

 そうすれば、実質的な権限の集中する事務方トップに圧力をかけることだけが取り柄の「族議員」の乱造に歯止めをかけ、汚職やずさんな公金管理などの問題も減ると思います。

 考えてみたら、国会議員(特に衆議院議員)は、選挙区等の問題もあって単なる地域代表とか特定グループの代表なのですから、よほどの自覚がある人は別としても、本気で天下国家を第一義と考えるのは事実上難しいに違いありません。国会議員は中途半端に日々の行政事務に関与しないで、より根本的な改革のための立法活動に専念してもらった方がよほど効果的です。

 つまるところ、首相を公選で選ぶだけでは効果はありません。国民に直接選ばれた首相には国を良くしてもらわなければ無意味です。

 そのためには、実質的な権限の集中する国の行政事務を管轄する強力なリーダーシップとそれを支える専門能力に長けた(いわゆる官僚とは違う)事務スタッフが重要だと思います。そこまで考えるのなら、首相公選制もメリットがありそうです。

 要は、立法と行政にけじめをつけさせ、その双方に対して国民が何らかの形で審査(チェック)できるようにしておく必要があるわけです。

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 NO.39 党内融和は戯言--2001.2.1

 最近、国会議員とはいったい何のために存在しているのか考えるようになりました。

 そんな折、先日の日曜日に自民党の古賀幹事長がテレビでKSDの党費立替問題について聞かれて、自民党には「地域党員と職域党員(ことばは正しくないかもしれません)」の二種類があって、党費立替は職域党員の云々ということを話しておられました。

 これを聞いていて、筆者は、なるほどと思いました。このような自民党の成り立ちになっているために自民党議員が特定業者や特定地域の利権構造にどっぷり漬かってしまうのだなあと改めて再認識しました。自民党議員が度重なる汚職疑惑で問題になるのも当然といえば当然です。

 まあ、国会議員というものは、もともとそのような何がしかの個別的な人々の代表者ですからある程度は仕方がないのですが、そのような発想のまま順送りで首相とか大臣をやってしまうために国全体が混乱するのだと思います。

 今の自民党は特定地域や特定業者の支援で成り立っているのだから、自民党国会議員がそれらの人々の代弁者となって国政の場で便宜をはかろうとするのは、支援者に恩返しをすることに他なりませんから考えようによっては人としては正しいことで、もしかしたら汚職議員氏は誉められると思いこんでいたかも知れません。

 そんなこんなで、自民党で強い立場を維持できるのは、強い地域や強い業界(政治資金を沢山くれる人々)に可愛がられる人という結果になるのも無理からぬことです。

 そのような党の議員でも一国会議員としてならある場面ではそれなりの役割を果たしてもらえますが、どうひいき目に見てもそんな人々が首相や大臣になって国全体の舵取りをやってもらっては困るなあ、と素朴な懸念が沸いてきます。

 いつからこうなってしまったのでしょうか。筆者が子供の頃は、良きにつけ悪しきにつけ、政治家は何か毅然とした雰囲気を携えていたような気がします。国民各層に信頼される国政をめざすなら、党内融和などと戯言ばかり言わずに、まずは問題意識をもって党内体質刷新に立ち上がれと言いたいところです。



 NO.40 行政の継続性と責任--2001.2.3

 エイズ問題での対応や、今回の諫早湾の海苔の問題への対応を見ても、日本の行政システムはもはや完全に制度疲労で限界に達しています。早急な、抜本的改革が必要です。

 ことあるごとに批判される官僚ももともと非常識人ではありませんから、当初の時点では最善策と確信していたことでしょう。自分で詳細な専門知識があるわけでもないし、莫大な予算を注ぎ込むわけですからわずか数人の官僚で責任をとれるはずもなく、それらの取り組みには、常に専門家委員会の類のお墨付きが用意されてもいます。

 しかし現状の行政システムでは、途中で間違いだったと分かったとしても、もはや官僚自らの責任ですむようなレベルではなくなるし、かといって当時の大臣が責任をとってくれるわけでもありません。大臣はどんどん代わりますから、たぶん、誰が大臣の時の取り組みだったのかさえも曖昧でしょう。官僚にとっては、何とかして取り繕いながら当初の計画を無理やりに推進するしか自分を守る手段はなさそうです。そして、すべてが悪循環になります。

 本来、官僚は決まったことを如何に合理的にやるかです。取り組みの良し悪しを決定する責任能力はありません。逆に、取り組みの良し悪しを決定させてはいけないのだと思います、責任をとれないのですから。取り組みの良し悪しを責任を持って決定するのは政治家のはずです。

 したがって、行政事務のトップは政治家としての責任で取り組みの良し悪しを決定できる人が座るべきです。それが大臣なのですが、現状の大臣にはそんな能力は期待できません。順送りで一時的に大臣のポストに治まっているだけで、もし自分が大臣のときに問題が起こったとしても「ついてないな」程度の意識のようすですし、お世辞にも国民の付託を背負う責任を感じて責務を遂行しているようには見えません。

 そう考えると、できるかできないかは別として、総理大臣を直接選挙で選び、その総理大臣の責任において一定期間継続して行政事務トップのスタッフ(大臣)すべてを責任をもって管轄してもらうのも良さそうです。

 行政に失敗があった場合は総理大臣とそのスタッフに責任をとってもらう、つまり、次の選挙では降りてもらうことになります。もちろん、犯罪的な行為等、行政判断とは言えないような大失態があった場合は、任期途中でも降りてもらわねばならないのは言うまでもないことですが。

 そうでもしないと、現在の行政システムでは、官僚も大臣も誰一人ほんとうの責任をとりません。それは、責任の所在が実に巧い具合に曖昧化された行政のしくみになっているからです。そしてそれが、官僚にとっても政治家にとっても一番居心地が良いに違いありません。



 NO.41 田分け者の発想--2001.2.13

 一昨日の日曜日に与党の政調会長氏が出演しているテレビのニュースショーを見ました。

 政調会長氏はいろいろなことを話しておられましたが、要するに「これからの社会で不要になる企業に対して銀行がお金を融資しないのが問題だ」という趣旨のことを強調しておられました。政権与党の政調会長がこの程度の発想で国の政策舵取りをしているために、残念ですが、構造改革はまだまだ進みそうにありません。

 旧態議員諸氏の多くが、同情して見せることとセーフティネットとを勘違いしておられるようです。世間うけを意識してのことなのか、あるいは「族議員」としての義理を通すためかどうかは分かりませんが、ともかく、発想自体が間違っています。

 筆者は、政治家が心すべきことは、中途半端な同情心ではなく、いかにして新しい機会を与えるかだと思います。

 旧態企業が時代に積極的適応をするための支援には最大限の配慮をすべきですが、それは古い体質をそのまま守って食いつながせるということではないはずです。そのような、今あるものを表面的に平等に分けるという発想は「田分け者」の発想で、そんなことばかりやっていたらそのうちに国民全部が破滅するという点に気づくべきです。

 昔の賢者は、子供が何人もいる場合は、今ある田畑は一人の子供に譲ったそうです。もちろんその際に、他の子供に対しては別の方法で身が立つようにさまざまに腐心したことでしょう。親であれば、どの子もかわいいに違いありませんから・・・。つまり、限りある田畑を次々に全部の子供に平等に分けていたら、そのうちに田畑で身を立てられる者は一人もいなくなって子孫は滅亡してしまうと考えたとのことです。それができない近視眼的なマヌケが「田分け者」です。

 これは、筆者が高校の時に歴史の授業で教えてもらった「田分け者」の語源です(これがジョークなのか本当の語源かは定かではありません)。実に的を得た話だと思い今でも良く覚えています。そして、国の指導者にだけは「田分け者」になってもらいたくないと思います。



 NO.42 株価対策の決め手--2001.2.14

 今日、株式市場で、実に興味深い現象が起こりました。

 「公明党が森首相の早期退陣を要求した」との共同通信配信の報道が伝わるや否や、株価が、ほぼ直角に急上昇しました。その後、内容の詳細がわかるにつれて落ちついた動きになりましたが、ともかく、首相が代わりそうだということで株価が上がるというのは、まさに珍事でしょう。首相が途中で代わると言えば、普通なら、政治が不安定になるということで株価は下がるのが一般的です。

 つまり、株式市場は、首相とその取り巻き幹部のやることなすことに並々ならぬ嫌悪感を持っているということです。今できる最大の株価対策は、やはり、首相交代のようです。筆者は、首相の失言問題云々に対しては、その人の性格からくる面もあるのでそれほど深刻に問題視してはいないのですが、首相を含めた執行部の現状引き伸ばし(構造改革先延ばし)経済政策については完全な時代錯誤だと憂慮しています。この際、首相と執行部を総入れ替えできれば株価は大幅に回復しそうです。

 アメリカ経済はしばらくは調整する段階になったので、今、投資を呼び込める国は日本しかありません。外国人投資家は、日本の構造改革への取り組みを今か今かと手ぐすね引いて待っています。外国人投資家に日本が本気で構造改革に取り組むと確信させることが出来れば、彼らは一斉に日本に投資すると思います。当面の期間、他にめぼしい投資先は見当たりません。

 内容のはっきりしない早期退陣要求の報道が伝わっただけで株価が急上昇する、このような現象を目の当たりにすると、現在の政策がめざしている経済運営が間違いなのははっきりしています。あらゆる手立てを尽くして、前時代的な発想しかできない旧態議員が闊歩する自民党執行部を総入れ替えできないものでしょうか・・・。



 NO.43 護送船団から個別企業強化--2001.2.15

 与野党ともに、首相交代の動きが急になってきました。

 森首相も、あれこれ考えることが苦手な暢気なおじさんという感じで性格的には憎めなかったのですが、どう考えても国を代表する総理大臣としての責任意識に乏しかったことは確かで、この際、潔く身を引かれることをお勧めします。まあ、誰が新しい総理大臣になるか、結果はどうあれ、今より悪くなることは考えにくいので喜ばしいことだと思います。

 ともかく、次の総理大臣が「田分け者」以外から選出されるよう期待しましょう。

 筆者は、小渕前首相以来の経済政策は失敗だったと断言します。

 小渕前首相の当初は金融危機が叫ばれていたので緊急避難的に財政で経済にテコ入れすることもある程度は仕方がなかった面もありましたが、途中からは、一気呵成に安易で場当たり的な財政政策に走り、突然の病気降板という不幸な出来事のためにその責任も曖昧になり総括することもなくドサクサ紛れにズルズルと来てしまいました。

 もはや、困っている人々(旧態企業)に皆でお金を恵んでやろう、必要ではなくてもともかく仕事を創ってあげよう(公共事業)ということでは日本経済は立ち直れません。単に、傷口を広げるだけになってしまいます。

 次の総理大臣に求められる政策は、困っている人々に同情して慰める類の政策ではなく、何とかして「新しいチャンス」を広げる政策です。各々の企業が新しいチャンスを生かして自分で強くなることが求められています。

 そして、そのためのキーワードは「護送船団から個別企業強化」です。業界重視から個別企業重視と言いかえることができるかもしれません。一つ一つの企業が競争力のある強い企業にならなければグローバル時代は乗りきれません



 NO.44 政策責任者は、即仏門に--2001.2.22

 あくまでも自分のことしか頭にない旧態政治家たちのために、いよいよ日本経済が戦後最大の危機に瀕しています。もはや、一刻の猶予もありません。

 筆者は、当面の予算など日本経済再生に大した影響はないと考えていますので、一日でも早く、政策転換ができそうな政権に代わってもらえないものか、心待ちにしています。

 もはや惰性の予算云々で日本経済が再生するなど甘いことは世界中の誰も考えていないから、少しくらい予算成立が遅れても今更どうということはありません。つい1週間ほど前には、アメリカの格付会社(ムーディーズだったと思います)から「日本の銀行はこれからも当分は体質改善できない」と、見透かしたような最後通告レッテルを貼られたほどなのです。

 今は、あらゆる手段で日本の構造改革を進め、死にもの狂いで日本を再生するという決意を見せなければ、日本は経済三流国に落ちていくことになります。落ちるべきが落ちるのは仕方のないことですが、このままでは、本来成長できる企業までが株価下落の影響を受けてしまいます。

 見せかけの一時的な景気浮揚で有頂天になり、大切な構造改革への準備を怠り日本再生を先延ばしにしてきたこの2-3年の政策が完全に失敗しました。失敗したにもかかわらず、その政策推進の中枢にいた人々がここはチャンスとばかりに、「今度は自分が政権の座に」程度の発想しかない日本の政治風土を歯がゆく思います。

 悠久の昔の偉い政治家は、世間に顔向けするのが憚られる恰好になったときは、仏門の世界に入って隠匿暮らしをしたようですが(これはテレビ時代劇での知識)、今の政治家はますます厚かましくなるばかりです。



 NO.45 葛根湯医者はいらない--2001.2.27

 ある野党議員氏のホームページに「小渕氏」「森氏」「宮沢氏」という歴代の「(政策)藪医者」ではこの金融不安は解消しないとの指摘がありましたが、筆者に言わせれば、これら諸氏は藪医者どころの騒ぎではありません。

 筆者が子供の頃に聞いたジョークに、藪医者の下のランクに藪にもなれない「竹の子医者」というのがあり、そのまた下のランクに「葛根湯医者」というのがありましたが、ここ数年間の政策責任者たちの経済政策はまさにこの「葛根湯医者」の処方箋そのものです。

 「葛根湯医者」はどんな病気にも葛根湯(かっこんとう--漢方薬の一種)を処方する医者で、ちょっとしたかぜなら劇的に直ることが多い特効薬の葛根湯でも飲ませておけばいいという、安直でワンパターンのいいかげんな医者のことです。

 政策責任者たちは、日本経済がここまで来てもお決まりの葛根湯(通り一遍の公共事業)を飲ませるだけで、この病(日本経済の構造的な閉塞状況)が葛根湯では直らないかも知れないと、一片の疑問も感じていないらしい。こんなことを続けていても、高価な葛根湯がもったいないだけのことで、その間にもますます病気は深刻になっていることを一日も早く認識しなければなりません。

 如何にいい薬でも必ず副作用があります。葛根湯はお年寄りや体力が衰えている人には用いません、脱水症状になって逆に体力が弱る恐れがあるからだと言われています。まさに現在の日本経済をぴったりと言い当てていると思いませんか。

 このあいだのムーディーズに続き、こんどはスタンダード・アンド・プアーズ(S&P)がついに日本の国債を格下げすることに踏み切ったようです。日本経済(国の財政)の体力が弱りきっているというシグナルです。

 旧態議員たちは、「格付会社といっても米国の会社であり自分たちの国益のために云々」と言ったことや、「日本ほど海外に債権を持っている裕福な国はないから心配するな云々」ともっともらしく指摘するのでしょうが、これが、世界から見た日本の実態だと言うことには謙虚でなければなりません。

 今はグローバルな金融の時代ですから、いくら開き直って「カラ元気」を装ったところで、国の信頼度が低くて世界の投資家からまともに相手にされないのではどうしようもないのです。

NO. 1〜 8
NO. 9〜15
NO.16〜26
NO.46〜56
NO.57〜65
NO.66〜76
NO.77〜84
NO.85〜87
NO.88〜92
NO.93〜98
NO.99〜106
NO.107〜

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