好奇心コラム

NO. 1〜 8
NO. 9〜15
NO.16〜26
NO.27〜45
NO.46〜56
NO.57〜65
NO.66〜76
NO.77〜84
NO.85〜87
NO.88〜92
NO.99〜106
NO.107〜


 MIZ.VOL.4 国づくりビジョン(NO.93からNO.98まで)
 [執筆者]
 水町祐之

 [紹 介]
 第三インテリジェンス代表。
 1952年、福岡県生まれ。日本大学大学院博士前期課程(管理工学専攻)修了後、一貫して経営コンサルタント業務に従事。執筆活動では[転換が迫られる日本型人事・教育システム(人材教育‥日本能率協会マネジメントセンター発行月刊誌、1998年11月号より)]。


●サブテーマ
いのちがかがやく生活文明郷 / 国防編 / 子供編 / 金融編 / 政治行政改革編 / 戦略編


 NO.93 いのちがかがやく生活文明郷--2002.6.14

 日本の最大の資源は「人」だと思います。人と言っても漠然としていますが、「人」は「技術」ということばに置きかえることができます。どんな高度な装置も「ちょっとした治具」や「取り扱い方のコツ」などを身につけた「人」がいなければ本来の機能を発揮しません。そんな部分のことを筆者は「技術」と考えています。

 日本がここまで発展できたのは、日本を取り巻く国際環境がツイていた面もありますが、やはり最後には各分野で技術探求心旺盛な人が大勢いたからだと思います。そんなふうに考えると、日本がめざすべき途は「技術立国」しかない

 これからの日本は、モノとしての製品ばかりではなくそんな技術をもった人の輸出に力を入れるべきです。本来なら「人」は「モノ」ではないから派遣と言った方が適切でしょうが、派遣と言うと本稿では何かピッタリしないのであえて輸出と言うことにします。

 「技術立国」は政治家諸氏が言う「科学技術立国」とは少し趣が異なります

 「科学技術立国」には何か胡散臭さを感じます。「科学技術立国」からは最先端研究領域が頭に浮かび、それも将来への投資として重要な部分ですが、政治家諸氏や官僚諸氏はやれ研究所施設とか予算措置さらには特殊法人と「新しい利権のネタ」にします。

 原子力にしても何にしてもたちまちに新しい「族勢力」が発生し、当初は誰が見ても意義のある研究もいつのまにか目的が「利権」にスリ替わるのが日本の特徴です。国は科学技術云々と宣う必要はない。有望な研究なら放っておいても必ず民間企業が投資します。民間企業は有望分野に鵜の目鷹の目だから心配無用。

 もしそれらへの投資が敬遠されているとすれば、それはさまざまな形で規制があるから。だから国は規制緩和や税制優遇措置に専念すべきで、投資は民間やベンチャーキャピタルにまかせるのが正しいあり方です。国が投資行為をすれば、意味がなくなっても永久に惰性で続けることになります。まず、間違いなくそうなります。

 そんなことよりも、農林業にしても一般的製造業にしてもそれぞれの分野で「技術」が大切で、そのほとんどの分野で日本の技術は最先端です。もっとも、サービス業の技術は劣っているというのが定説ですが。そして、技術は学校で短期間習っても基礎的なことが身につくだけで、結局は毎日の反復練習や仕事を通じてのみ獲得可能です。

 これからは、国は、技術が輸出しやすい環境づくりのために最大限の投資をすべきです。これだけ経済がグローバル化してくるとモノとしての製品輸出だけに執着していてはトラブルが起きます。技術を輸出する方向で政策を総動員することが必要です。

 日本は「技術のマザー牧場」になれば良いのです。技術つまり人の育成に焦点を当てて、世界各地で日本人が光り輝くことで日本の未来が約束されます。日本は、そんな人を増やす工夫が大切です。そして、その行き着くところは子供。子供は日本の未来です。子供を増やすには増えやすい環境づくりが必要です。

 税制にしてもさまざまな補助金にしても社会保障にしても、そんなことを想定して制度を大改革することが求められます。もう、日本は「終戦後の国」ではないのですから。

 そうすれば、周辺アジア諸国も大喜びのはずです。日本がホンネで尊敬される国になれると思います。「技術-人」の輸出で周辺国の生活レベルが上がれば、また日本から買ってくれる。わけの分からない最新施設をやみくもに造ってやっても持てあますだけで、本当に相手国の国民のためになっているかどうか疑わしい。


 さて、前置きはこのくらいで、本題に移りたいと思います。

 これまで日本の抱える問題点とか進むべき方向を思いつくままに指摘してきましたが、今日はそれらを「国づくりビジョン」として整理してみました。ビジョンは行政計画では構想とか理念と言われますが、「本来あるべき理想の姿」のことです。筆者は、ビジョンがあらゆる発想の根幹だと考えているのでいつも力が入ります。

 日本の国づくりのキャッチコピーは「いのちがかがやく生活文明郷」が良さそうです。

 国民みんなが、老いも若きもそれぞれのライフステージに応じて自分に相応しい「やるべきこと」に精を出し、そんな生活そのものに生きがいを感じそれを楽しんでいる様をイメージしています。

 「いのちがかがやく」には様々な願いが込められてします。いのちとは、人のことであり自然そのものでもあります。自暴自棄や戦争などはもってのほか、いのちはキラキラ輝かなければなりません。「生活文明郷」というのはわかったようでわかりにくいことばですが、全てのいのちが共存共栄で発展していくしくみという意味を表したつもりです。

●「千の蔵より子は宝」、子供達は(勉強は勉強としてしっかり教えるとして)休日や長期休暇などには野山を駆け回りながら自然との共生や自然から学んだり刺激を受けながらバランスのとれた大人に成長していく。

●子育て世代の親はそんな子供と一緒に野山を散策して日頃の仕事のストレスをリフレッシュする。それが可能なようにお金の面でもその他の面でも社会制度がしくまれている。

●子育てが終わった大人(独身者や子供のいない夫婦などもこれと同じ)は仕事で得た技術を携えてアジア諸国で相互発展のための技術援助に精を出す。子育て費用が不要だから収入は多くなくてもいいが、海外で活動している間も国内の人々と同じく社会制度が保証されている。

●年寄りはそのまま仕事ができれば良し、趣味の園芸や孫世代と野山に出たりボランティアに精を出すも良し。死ぬ時はぽっくり逝きたいと願いつつもあちこち痛いのに病院に行く暇もないと悔やみながら、そんな張りのある生活を喜び楽しんでいる。


 人々がそれぞれに輝いて見えます。こんな国になれれば日本に敵なし。軍事力さえも無意味になりましょう。その実現のために各政策分野で何が必要かも、おぼろげながらでも浮かび上がってくるのではないでしょうか。筆者の独りよがりだろうか。

 これは広告代理店などが良くやる「マーケティングシーン」のようなものです。筆者にデザインやイラストの才能が乏しく文章だけでしか表現できないので説得力がもう一つかも知れません。ですが、筆者が理想とする諸外国からもホンネで尊敬される生活大国のイメージは何となく理解してもらえるのではないでしょうか。

 今の日本ならたぶん実現可能でしょう。

 自民党、民主党、自由党のホームページなどを見渡しましたが、この類の国づくりビジョン提示はどこにもありません。どの党もスローガンが乱舞し、その次には妙に細かい個別政策項目の羅列があるだけ。しかも内容はほぼ同じです。自民党に至っては年度運動方針はあるもののビジョンらしきものが見あたりませんでした。

 民主党は「自由で安心な社会の実現をめざして」、自由党は「日本一新」がありました。これらもビジョンと言うよりむしろ短期の活動決意表明だし、こぐ普通の一般国民の生活実感から乖離して、全体的な国の姿のようなものが頭に中に浮かび上がってこないだろうと感じました。

 いちどそんな視点から理想の国の将来イメージを思い描くのも、新しい政策の発想に役立つと思います。そして、そん視点からアプローチすれば政治とか政策も誰にでも取っつきやすくなるかも知れません。



 NO.94 生活文明郷「国防編」--2002.6.19

 軍事云々のことを真剣に考えたことはないのですが、「核の戦争抑止力」というような議論があります。たぶん、核兵器は既にあるから各国がそれなりにバランスを保ちつつ持ち続けることが戦争抑止に役立つとでもいう発想なのでしょう。何某かの戦争抑止力があることも確かでしょう。

 現在の核兵器所有国は、アメリカにしてもイギリスやフランスや中国やロシアにしても、それぞれが世界の国から一目置かれそれなりに大国として威信を保っていますが、彼らにもし「核兵器」がなかったらどうなるだろうか。

 おそらく、威信も発言力も半減しましょう。しかも、彼らは核兵器まで持っているのに現実に使用するわけにもいかないので、核兵器以外の通常軍事力までも増強するしか心の平穏がありません。こんな国づくりはバカバカしい限りです。これをやって、かつて日本は大失敗しました。

 私たちが勘違いしていけないのは、彼らは世界の人々に「一目置かれている」が「ホンネで尊敬される国」ではないという点です。インドやパキスタンなども核兵器を所有しているものの、彼らはまだ国全体の発展レベルが遅れているので「一目置かれる」段階にも至っていません。


 日本は、軍事力を拠り所にして国際的な威信や発言力を向上させるよりも、別の発想に立脚するのが最善です。日本は、今までの軍事大国がなし得なかった方法で国防が可能な唯一の国で、しかも世界の誰もが認める大国になれる可能性があると思います。

 筆者は、常々、周辺国の国民レベルに「ホンネで尊敬される」ことが国防上も最大の効果があると考えています。「いのちがかがやく生活文明郷」は国防にも大きな効果があります。

 社会制度にしろその他の諸々の政策にしろ、どの政策分野にも大切な発想の基になるキーワードは「生活力」です。国防にとってもこの視点が大切だと思います。国内もそうですが、世界を見据えた生活力の向上をめざした国づくりが必要です。世界のどの国も、自分の生活力が向上して生活が豊かになることに反対する国などありません

 そして、世界中を見渡しても日本ほど生活に密着した技術が進んでいる国はない。農林漁業、軽工業、重化学工業、その他何でもござれ。自然科学や宇宙開発とかその他の巨大科学技術分野では遅れている部分もありますが、人々の普段の生活に関連の深い技術では日本は世界に比類ない技術大国です。

 世界中のどんな国に対しても、その発展レベルに応じて生活力向上の技術援助ができる国は日本しかないでしょう。国際貢献云々と大上段に構える必要もない。世界の国々がそれぞれに発展してくれれば、それらの国々はまた次の発展レベルに応じた日本のお客様になるのです。


 これからの時代では、一部の商社だけでなく、全ての日本人の活動領域を世界に広げるという着想が大切だと思います。まずはアジアの周辺国からでしょうが、各国に生活力向上支援の技術サポーターを大勢送り込むのです。きっと相手国も諸手を挙げて歓迎してくれましょう。

 そうすれば、世界の国々の国民レベルで日本支持者が増え、仮に戦争を仕掛けようにも国民は誰も動かない。新しい発想の国防システムの根幹ができあがり、現実的な軍事力をことさらに増強する必要がなくなります。

 もっともテロ行為とか挑発行為は、ほんの数人の偏執狂的な人々と多少のお金とがあれば比較的簡単に可能だから、それらへの対策は充分な配慮が必要でしょうが、それはいわゆる戦争の脅威とは少しニュアンスが違います。

 日本がこんな国になったら、筆者などはエキサイティングな人生を送れそうでワクワクしてしまいます。



 NO.95 生活文明郷「子供編」--2002.6.22

 周りに年寄りばかりで子供の姿がパラパラとしか見られないような社会生活を想像するとゾッとします。子供や若者が発する「活気」が感じられない社会では生活そのものに張り合いがない。布団にくるまってボケーとしたくもなりましょう。

 そういうわけで、筆者は、子供が走り回るような社会が実現できないなら日本に明るい未来はないし、20-30年くらい先の日本の命運は子供を増やせるかどうかにかかっていると思っています。ところが残念なことに、日本は、予想をはるかに超える勢いで少子化が進んでいるようです。

 先日、厚生労働省が発表した「人口動態統計」によると、2001年に生まれた赤ちゃんは前年より約2万人減り、女性が生涯に産む子供の数を示す出生率(合計特殊出生率)は1.33と過去最低を更新しました。今年の1月に発表した「将来推計人口」では、2001年の出生率を1.34と予測しており、早くもこの見通しを下回ったわけで事態は深刻です。

 人口政策は20-30年後に効果が顕在化する分野です。現在の根深い消費低迷や過剰貯蓄も、その背景には将来の社会保障負担層が大幅に減少するという不安感があるから。何とか少子化に一応の歯止めがかからなければ、社会保障制度の設計すらできません。いくらシミュレートしても全て夢物語。最終的には大増税です。


 さて、子育ては何かにつけて骨の折れる行為に違いありませんが、自分の子供ということになると大変なことも喜びに代わります。この感覚はたぶん世界共通でしょう。それなのに、日本ではなぜ子供が減っていくのか、なぜ増えないのか、筆者はその原因は大きく二つあると考えています。

 まず第一に、子育ての家計負担が重すぎます。衣食住は子供が1人増えても大した影響はありませんが、子育て世帯の最大の関心事は教育費です。日本は良くも悪しくも国民総中流社会が確立しているので、これからはせめて大学までは行かせてやらないと大方の人々が考えます。この前提を軽視すると、ものごとが悪循環に陥ります。

 その前提に立てば、1人や2人なら何とかがんばれても、3人も4人もの子育ては普通の人々では現実問題として経済的に困難です。その結果、必然的に共働きにもなり、乳幼児保育の課題も新たに発生しましょう。子供が増えると困ることも増える現実の生活のことを意識します。

 一方、初等中等の学校教育は「ゆとり教育」の名のもとに時間的にも内容的に簡素化の方向にあるから、前述の大学云々のこともあり、学習塾には否定的な人々までも否応なしに学習塾費用を子育ての必須項目に組み入れざるを得なくなりました。これが、家計に追い打ちをかける結果となります。

 なぜこんな政策の方向になったか真意は知りませんが、うがった見方をすれば、教育関係族議員と何でもいいから消費を増やしたい経済関係族議員の利害が一致した結果の産物でしょう。確かにこれで、学校の先生諸氏は仕事が楽になるし、学習塾関係消費が増えGDPにも貢献します(だから、学習塾企業は株式市場では人気上昇中)。

 その次に、将来まで維持できるかは疑問ながら、一応は老後の社会保障や医療制度が一部については過剰なほどまでに完備しているので、少なくともその費用を自分で貯めておけば、老後は子供に頼って云々と考える必要性は薄れました。

 こんな社会環境になると、夫婦だけで、さらには一歩進んでシングルのままで一生を気楽に過ごす人生がいいと考える人々が増えるのは理の当然です。わざわざ苦労することもないし、生真面目な人は子供にそれをしてやれる自信がないとも考えましょう。


 そんなこんなで子供が予想以上のペースで減るのに危機感を感じた厚生労働大臣は、先日、「職員を早く帰宅させれば他にやることもないから子づくりに励むだろう」と真面目な顔でテレビで宣っていました。冗談なのか真剣なのかわかりませんが、思わず苦笑してしまいます。

 筆者も危機感を共有する者の一人ですが、大臣なら政策で対処しなければ。国は、国民に人生観を強要してはいけませんが、国づくりビジョンの実現に向けて政策でメッセージを伝えることは大切です。もっとも、ビジョンがないから思想を伝えようにも伝えられなくて、場を取り繕うのにそんな半端なことしか言えなくなるのでしょう。

 ややこしく考えるほどのこともなく、実は単純です。子育て世帯を政策的に優遇して、子供をもちたくなるようにしむければ良いのです。発想のキーワードは「一緒に楽しむ」。子育ての喜びの側面を際立たせる政策が求められます。そうすれば、結果としてさまざまな子育て関連消費が増えることにもなりましょう。

 子育ての家計負担を軽くし、一緒に過ごす時間を無理矢理に増やしてやる。例えば、所得税控除や学費補助の充実や子育て特別休暇の義務化など。そうすれば子供を産もうという気にもなりましょう。さもないと、何かをガマンして子供のためだけに一生を捧げる行為が子育てに見え、お釈迦様のような人しか子供をもてなくなってしまいます。

 子供に関連する施策でよく見るのはボランティア活動で云々とか地域で云々、何か子育てを妙に窮屈に感じさせる雰囲気があります。そんなことより、まずは子供をもちたくなる環境づくりが重要です。子育ては、実は親にとっても子供と一緒にさまざまな体験ができ刺激的で嬉しい行為ですが、それができる環境にしてあげねばなりません。

 「ゆとり教育」施策は、「子供を産んだら、何かにつけて大変だぞ」というメッセージに聞こえます。そうではなく、親が感じる子育ての時間的・経済的な制約を外してやり、親に心理的なゆとりをもってもらうことが大切。「教育費は心配ないから一緒に遊べ」とのメッセージが求められます。

 そもそも子供は遊びの中で社会規範や価値観を身につけて成長する。動物の根本原理です。親との遊びの時間が増えれば、社会問題となっている「キレる子供--過保護、過干渉、放任」の問題解決にも効果があります。これらも、親の側の時間的・経済的なストレスが子育てに影響する結果だと思います。

 筆者が言うような政策は、子育て世帯以外の人々の負担が増える結果になるので、表面的な公平さを意識しすぎると不可能です。しかし、国づくりビジョンとして子供の大切さを国民が認識し、ビジョンが共有されていれば、表面的な不公平は無視しても良いのです。逆説的には、だからこそビジョンが大切だとも言えましょう。

 もしも子供がなくて損だと考えるなら子供をもてば良いし、少し極端に、子沢山なことで生計を立てるような夫婦が出てきても良いくらいです。まずは子供を産んでもらえる社会環境にならなければ話にならないし、子供を育てることで将来の国づくりに貢献してくれるわけですから。



 NO.96 生活文明郷「金融編」--2002.6.26

 「金は天下の回りもの」。日本は、世界でも、ことお金は人一倍たくさん持っていますが、それがうまく回らなくて経済が停滞しています。さらに言えば、一応は回っていますが、適切な対象に適切な基準で回っていないので、いびつな経済が助長される悪循環のワナに陥っています。

 さて、お金の回し方は、基本的には二通りの手段があります。「直接金融」と「間接金融」です。日本の金融面の弱点は、お金を回す手段として不自然なまでに「間接金融」に依存している点です。欧米先進国とは比較にならないレベルです。どうしてこうなったのか、順を追って考えることにします。


 まず、最初に、お金にしても何にしても、リスクを極力排除してコツコツ努力する日本人の国民性を指摘しておかねばなりません。これは、日本の地勢的・気候的その他諸々の条件の影響で培われた習性だろうから、善し悪しの問題ではありません。国民性として受け入れるしかないでしょう。

 日本では、国民は、余分なお金はほぼ必ず銀行や郵便局に預けます。そうすれば何某かの利息がつくから少なくともお金は確実に増えていきます。そして、国民はお金の回し方を自分ではほとんど考えることなく、自分の分野のことをコツコツ努力する生活に没頭します。以前に筆者はこれを「働きバチ」に例えました(NO.27参照)。

 しかし、このままではお金が必要な分野に回わらないから、誰かが無理に回すことになります。銀行融資とか財政投融資などの、いわゆる「間接金融」です。「銀行の誰かと政府の誰か」が、何かの基準でお金を回すわけです。そうなると、どんな基準で何に回すかが大切です。

 日本が発展途上国の時代には(日本に限ったことではありませんが)、お金を回す対象は道路や橋や鉄道や電気や住宅やその他の生活基盤や産業基盤などの国づくりの基礎的な分野に決まりきっています。それら分野にお金を回しておけば国民のあらゆる層に役立ちます。どの程度効率的に回るかは差も出ましょうが、まず、失敗はありません。

 80年代初頭くらいまではこれでうまくいっていました。しかし、「ブラックマンデー」が起きたり金融政策の不手際も重なり、相変わらず真面目な国民は銀行や郵便局にお金を預けるので、お金を効果的に回す方法を知らない「銀行の誰かと政府の誰か」は何にお金を回したものか困まります。

 仕方なく土地投機にお金を回しました。80年後半から90年前半にかけて雨後の竹の子のように乱造された大型テーマパークやその頃に事業化が決まった橋などの大型プロジェクトも基本的には同じ構図です。うまく回るかどうかではなく、お金を安全かつ効率的に回す対象がわからないままに、勢いでやっただけ。

 いつまでもその繰り返しなので、一方ではそれら関連の企業(ゼネコン等)が増えすぎて急にそれらを取りつぶすわけにもいかず、今度は食いつながせるためにそれら分野にお金を回し続けるという、実にバカげた悪循環になりました。その結果、不良債権(国レベルでは財政赤字)は膨れあがる一方で処理するにもできなくなってしまいました。

 現在では、大方のまともな神経の人々は、みんなそれに気がついています。ところが、この構図を打開することができないところに、日本の二番目の大きな悩みがあります。


 「間接金融」ではこうなるのは仕方がないことです。他人のお金を回すわけだから、「安全」に神経質にならざるを得ません。問題は、彼らが安全にお金を回す対象を探す努力を怠って、「みんながそうしているから」という基準や「土地の担保があるから」といった基準しか持ち合わせていなかった点です。

 実は、国民全体の生活水準が一定レベルになると日常生活において特に困る分野もなくなるので、国民の幅広い層に役立つ都合の良い投資対象がなくなるのです。そんな社会背景では、お金を回す行為に常にリスクがついて回ります。

 だから、一定の生活水準になった成熟国では、少なくとも二つの点で発想の転換が必要だと思います。一つは「間接金融」から「直接金融」にお金を回す手段をシフトすること。「直接金融」、つまり株式投資や起業投資などがそれです。もう一つは、お金を回す対象を国内に執着しないで幅広く世界に目を向けることです。


 まず第一点として、「直接金融」への手段のシフトについて考えます。経済や生活がそのままで良ければ、あえてお金を無理矢理に回さなくても良いのですが、やっかいなことに、人々は次々に新たな便利さや目標を求めます。欲が深いといえば欲が深い。その実現のためには、引き続きうまくお金を回してやらねばなりません。

 一般国民は投資の専門家でもないのに、そんなことはできないと思う人も多いでしょう。そこでインセンティブが必要になります。真面目な人ほど強いインセンティブが必要。インセンティブの手段になるのが「税制」です。リスクのある「直接金融」に果敢にお金を回してくれる人々に、「どの程度の税制的優遇措置をしてやれるか」が金融手段をスムーズにシフトさせるためのキーワードになります。

 国民が自主的にやった金融行為で儲かってくれれば都合が良いのですが、国民みんなが優秀な投資家でもないから、失敗したときも想定した配慮を怠ってはいけません。至れり尽くせりの姿勢が大切。でも、いくら「間接金融」の銀行や郵便局にお金が集まっても、リスク分野にはお金を回せないのだからそれも仕方ありません。

 「直接金融」なら自分の責任でお金を回すからある程度積極的にリスクをとれます。「直接金融」を単に金儲けの手段と考えるのではなく、新しい段階の国づくりに大切な投資行為をリスクを犯してまでやって頂くというスタンスです。だから、税制的な優遇措置は不公平云々ではなく、不可欠なのです。

 もちろん、優遇税制だけでなく、それに付随して企業ディスクロージャーやベンチャーキャピタル市場の整備とか、その他諸々の「直接金融」促進のための周辺整備施策も一面では税制以上に重要なことは言うまでもありません。何もわからないままに適当にやってくれでは、如何にも具合か悪い。

 折りしも、アメリカでは「エンロンショック(米エネルギー関連巨大企業をめぐる不祥事)」とでも言えるような、企業ディスクロージャーに関連した監査法人や大統領周辺までも巻き込んだ大騒動が起きています。

 ここへ来ての米株価低迷は、いわゆる景気云々の側面もありましょうが、突然発覚した企業ディスクロージャーへの投資家達の不信感が大きいと感じます。ディスクロージャー先進国のアメリカでさえこんなこともある、ディスクロージャー後進国の日本ではさらにこの点の配慮は大切でしょう。


 次に、幅広く世界に目を向けることの大切さ。日本のように国民総中流が確立していると、国民のほとんどの層にほぼ均等に消費が行き渡っています。所得減税をしても消費が伸びないのは、生活文明郷「子供編」で指摘した「将来の社会保障への不安」もさることながら、少なくとも従来型の消費はほとんど飽和状態と考えるのが妥当です。

 消費が飽和しているところにいくらお金を回しても経済が好転することはないなら、お金を回す対象として海外に目を向けることが大切です。まだまだ、お金を投資すればこれからどんどん消費が伸びる国はたくさんあります。そんな国に対して「どんなやり方でお金を回してやるか」が重要なキーワードになりましょう。

 国にあまりにも貧富の差があるのはどう考えても良いことではありません。国同士の諍いも多くなるし、困っている国を放置ししておくのもしのびない。今更「鎖国」もできまい。だから、余分なお金はどんどん外国の生活力向上のために使うのです。そうすれば、将来それが何倍にもなって返ってくる。

 ただし、外国に対するお金の回し方にも工夫が必要です。従来のように「政府の特別な人々」が勝手気ままにODAなどとしてお金を回していたのではせっかくの大切なお金が効果的には機能しないし、日本経済のいびつさを助長するお手伝いになります。その点は、生活文明郷「政治行政改革編」で考察することにします。



 NO.97 生活文明郷「政治行政改革編」--2002.6.27

 政治と行政の大改革は日本にとっての最重要課題で、まさに筆者はこれこそが日本の戦略的テーマだと思います。

 「戦略」は、さまざまな人々がいろいろな定義をしますが、簡明さを旨としている筆者はいつも「生き残るシナリオ」という意味で使います。今のままの政治行政システムでは日本は生き残れません。もちろん国がなくなると言うことではなく、落ちぶれていくという意味です(戦略自体についてはNO.10 環境のうねりと戦略的視点参照)。

 これまでも内政・外交を問わず個別的な改革案が議論されています。それらほとんどが内部の不祥事や不手際が表面化した時にあわててその場を取り繕うための、つぎはぎだらけのにわか改革論議です。今の日本が直面している真の課題はそれではありません。

 終戦後の復興過程でできあがった日本全体の運営システムが、これからの日本が歩んでいく成熟国の運営システムとしては不適切だから根本から組み直すことが求められています。半世紀以上もの間、日本全体の運営システムに改革らしい改革がなかったので当然です。

 そのような日本の構造改革を実現するための最大の制約要因は、とりもなおさず政治行政システムだと思います。小難しいことを言うようですが、構想とか計画実現の制約になる要因を取り除くことが戦略の本質です。政治行政システムの大改革ができなければ、すべての構造改革の取り組みが茶番劇になりましょう。

 日本の抱える個別の構造的課題については山ほど指摘されています。無駄な公共事業や高コスト体質、処理されない不良債権や見通しのない国家財政赤字、頑なに変わらない税制、高コストの公的サービス独占、規制で成り立つ特殊法人、数えたらキリがありません。

 ところが、それらを改革しようにも取り組むことすらできません。アメーバのように、行政機構と行政機構と利害が一致した「族議員」が一体となってそれを阻止しようと動きます。まさにマフィアの行動様式です。何をするにもお国にお伺いを立て、何をするにもお国が資金を出さなければ始まらないからこうなります。

 この政治行政システムの延長線上では何をやってもダメでしょう。人間が創った人工物は、それぞれがその時代としては的を射たものに違いありませんが、如何に良いものでも博物館に入れて眺めることができないものは、いずれスクラップアンドビルドして時代に適応させなければなりません。


 中央集権から地方分権さらには個人分権。この視点が大切です。国の経済規模がこれだけ大きくなりしかもグローバル化してくると、国が全てのつじつまを合わせてうまくやろうにも現実問題として不可能です。それに執着すればするほど、マフィアが活動する余地が大きくなる。

 政治行政システムを一旦は取り壊して全く新しい発想で組み立てなければなりません。マフィアを全て解体して一切の過去のしがらみなどを無にして、一から組み立てることが求められています。

 その時に大切なのが「ビジョン」。ビジョンには詳細な施策案は不要です。それらの方向づけをするのがビジョンです。そのかわり方向づけのための強烈な主張が必要です。あとはマフィアに毒されていない、まだ頭の柔らかい若い官僚や議員諸氏がどうにでも肉付けしてくれましょう。施策の具体案はどうにでもできるのが良いビジョンです。


 筆者のビジョンは「生活文明郷」、自分では結構良くできたビジョンだと気に入っています。生活文明郷では国民一人一人が主人公です。主役は「人」。それぞれがいきいきと活気に溢れて活動します。見据える先は世界です。

 国がやるのは必要最小限、国防や福祉や教育や環境や外交や徴税など国民全体にあまねく関係する部分だけ。国の権限は可能な限り地方に移し、地方もまた住民個々の自由な発展を阻害することには口出しせずに、地域づくりに必要最小限のことだけします。

 そこでは「利益誘導議員」や「族議員」は存在自体が無意味になります。個別的な産業政策が基本的には国の仕事ではなくなるからです。国は、「税金」や「金利」で経済全体を調整する程度の役割り分担です。電子化もこれから急速に進展するので、役人の数も半分くらいで大丈夫になりましょう。

 そこでは、税金は、お金持ちに高くそうでない人々には安くが基本です。ただし、投資的行為の主体は国から民間(企業や個人)に移ることになるので、それを活性化させるための免税特典があります。NGOやNPOなど国の枠を越えた個人有志の活動に立脚する地域・環境・海外支援等の取り組みも活発になりましょう。それらへの寄付行為も全てが免税です。

 つまり、「とりあえず余分なお金は自分の信じることや自分の判断で必要と思われる分野にどんどん寄付や投資をしてください、もし寄付や投資をしないのなら、国が代理でそれを行なうためにその分まで税金で徴収します」という発想です。この発想なかなか良さそうに思うのですが、如何でしょうか。



 NO.98 生活文明郷「戦略編」--2002.8.6

 少し理屈っぽくなりますが、「いのちがかがやく生活文明郷」を実現するために私たちが立つべき戦略のスタンスについて補足しておきたいと思います。

 そもそも「戦略」には基本的に二通りのスタンスがあります。一つは「戦略的選択論-環境創造論」で、もう一つは「環境決定論」と言われているものです(戦略自体についてはNO.10 環境のうねりと戦略的視点参照)。


 終戦後から高度経済成長期は、日本は、一貫して国の戦略として「環境創造論」のスタンスで運営されてきました。環境創造論は、自分の活動する環境を変えられる(又は変えて良い)という前提に立ちます。つまり、自分の活動環境そのものを自分に都合のいいように変えてしまおうと手立てを尽くすのです。

 外交については日本にそんな力はありませんが、自然環境や経済環境面ではそうすることもできます。銀行の事業環境を裁量で決め、公共事業も裁量で決め、介入で為替を決め、各種の自由な活動には規制を設け、その時々の都合で各組織(企業やその他の組織も含めて)の活動環境そのものを変えようと努力してきました。いわゆる「護送船団方式」です。

 その結果必然的に、護送船団に組み込まれた各組織の究極的な戦略テーマが、「活動環境から、自分に有利になる人を如何にして取り込むか」となります。監督官庁や活動資金を左右するメーンバンクなどからの「天下り」が重宝され、有力国会議員などを抱き込む行為も、自分の活動環境に対する影響力を強めるには極めて効果的な作戦です。

 一方の「環境決定論」のスタンスは、自分の活動環境を変えられない制約条件と見ます。その制約条件を乗り越えるための戦略テーマは、活動環境を直接云々しようとするのではなく「活動環境に適応するために、内部のしくみを如何に効果的に組み立てるか」となります。

 多くの国際的に活躍する日本の優良製造企業は、基本的に「環境決定論」のスタンスでやってきました。外国企業との競争が中心だから勝手に相手をどうこうする力もない。ひたすら技術力を磨きながら内部効率化をはかることで競争力を高め、何よりも、最も大切にすべき自分の活動環境であるお客様の志向を重視してきました。


 一般論としては、短期的には「環境創造論」が成功する場合が多く、長期的には「環境決定論」の方が成功する場合が多いなどとも言われますが、それ以上に大切なのは、自分を取り巻く環境変化がどんなタイプの変化なのかを正しく認識することです。

 南北格差がより顕著になりつつある中での経済や金融の市場化やグローバル化、少子高齢化、生活水準のレベルアップ(社会の成熟化)に伴う価値観の多様化などの日本を取り巻く環境変化は、本質的な時代の変化と見るべきです。つまり、一朝一夕には変えようにも変えられない環境変化。

 だから好むと好まざるに関係なく、これからの数十年間は国も「環境決定論」のスタンスに立ち、単純には変えられない環境の中でそれに適応したやり方でどうやって運営していくしかを考えていかねばなりません

 我が世の春を謳歌した恐竜も、地球の温度変化という巨大環境変化に適応できなくて絶滅しました。人間は恐竜よりは利口だから、その気にさえなれば生活態度やしくみなどを修正することで環境変化に適応できます。国も企業もさらには個人も、あらゆる面の構造改革が急がれる所以です。


 先日、戦略を理解するのにうってつけの事例がありました。鈴木宗男議員の一連のワイロ疑惑です。ワイロ疑惑の焦点が木材会社「やまりん」から「島田建設」に移ったようです。島田建設からのワイロで鈴木宗男議員は再逮捕されました。

 それはそれとして、島田建設の社長なる人物はなかなかの「戦略家」。「環境創造論」の戦略を忠実に実践しています。これほど典型的事例も珍しい。大企業でもないのに、「北海道開発局」を退職した幹部職員らを再雇用した人数は少なくとも6人に上り、現在も港湾部門出身者3人、道路部門出身者1人が、いずれも役員として在籍しているという報道がありました。

 島田建設は、入札とは名ばかりで、「北海道開発局」という自分の最重要顧客をほぼ完璧に手中にすることに成功しました。一方では鈴木宗男議員を取り込んで強烈な圧力をかけさせ、一方では事情通のOBを取り込んで情報収集その他をやらせる、からめ手作戦。うまくいっている間はまさに天下を取ったような気持ちだったに違いありません。

 しかし民間企業の場合は、最終的には議員とか役所担当者などへの贈収賄などの不正がからんでしまいがちです。もう少し程度をわきまえていればよかったでしょうに。いずれにしても、こんなやり方が「環境創造論」の作戦です。

 ついでに指摘しておけば、「天下り」の真の課題は「特殊法人等への天下り」かも知れません。こちらは単純なワイロではなく「財政投融資」などの巨大利権が複雑にからんできます。

 島田建設の事例とはケタ違いに「環境創造論」の戦略に長けた官僚諸氏が相手。彼らは大勢の族議員を取り込みます。大勢の族議員を取り込んで、各組織の最も基礎的な活動環境である法律自体を自分に都合のいいように変えてしまうから、法律に引っかかることもありません。実に狡猾な戦略と言えましょう。何とかしたいものです。


 なお、念のため申し添えますが「いのちがかがやく生活文明郷」は特許ではありません(この部分は、冗談です)。気に入った読者の皆様はどんどん普及啓蒙させてください。そうなれば筆者も嬉しいです。


NO. 1〜 8
NO. 9〜15
NO.16〜26
NO.27〜45
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NO.88〜92
NO.99〜106
NO.107〜

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